第二話 港の見える丘公園の二人、そして、風の声
もうすぐ春なのに、港の見える丘公園のベンチで、物思いに耽る男の背中は寂しかった。
《俺、ホンマは誰なんやろ・・・?》
男の悩みは深そうだ。
男の傍らには、東京日本橋の老舗包丁店“うぶけや”の紙袋と、銀座で買ったシュークリームが入った箱が並んで置かれている。
今日は男の為に、彼が勤める割烹“あ津眞”の亭主、東村将大が特別に誂えた業物の柳刃包丁を受け取りに行って来たのだ。
チラリと包丁の入った紙袋に目をやり、
《こんなん貰うてエエんかなぁ・・・?》
又、物思いに耽る。
刹那、男の背中に声が掛かる。
若い女の声だ。
「優斗・・・」
聞き覚えのある声の方へ目をやると、見知った女がマフラーをして立っていた。
ピンクのスカジャンに巻いた白いマフラーが、まだあどけなさの残る顔に映える。
女は呆れがちに、
「パパが優斗が帰って来ないから心配して、見て来いって。アタシも心配したじゃん。東京で変なのに捕まってるんじゃないかって。はい、これっ」
女はスカジャンから少し緩くなった缶コーヒーを差し出す。
「あっ、ありがとう。お嬢さん」
優斗はぶっきらぼうに礼を言い、缶コーヒーを受け取った。
女は少し拗ね、
「もう、二人でいる時は、“お嬢さん”じゃなく、“芽久美”って呼んでって言ったじゃん。もう、私達付き合って3ヶ月経つんだよ」
優斗は一口完コーヒーを飲み、
「ゴメンな、芽久美。ありがと」
そう言うと、芽久美の左腕を掴み抱き寄せキスをした。
キスはほろ苦く、そして甘い。
夕闇に映し出される二人のシルエットは、儚げだが美しかった。
芽久美は照れ、
「もう、いきなりなんだから、びっくりするじゃん」
優斗はクスッと笑い、
「ゴメンな。あんまり可愛いかったから、つい・・・」
「キスってのは、ついでするもんじゃないよ」
芽久美はもたれ掛かっていた優斗から身を離し、まだ拗ねている。
優斗はどうしていいのか理解らず、
「ほな、どうしたらええねん?芽久美」
「ちゃんと・・・、してよ。キス・・・」
芽久美はボソリと洩らした。
ハッとした優斗は、この上ない優しい笑顔になって、ベンチから立ち上げると、
「おいで、芽久美」
両手を広げ、芽久美を誘う。
芽久美は優斗の胸に飛び込むと、自ら彼の首に腕を絡め、唇を貪った。
優斗も芽久美の求めに応じて、何度も何度もキスに応じる。
恋人達の幸せな時間がそこにはあった。
刹那、優斗は風の声を聞く。
『優斗・・・』
気になった優斗はキスを止め、芽久美を抱き締めた。
抱き締めた芽久美の先に、海が見える。
声はそこから聞こえた気がした。
抱き締められながら優斗の温もりをもっと感じていたい芽久美は、優斗の耳元で囁く。
「今夜、優斗の部屋に行くから、待っててね」
優斗は驚き、
「!!!、でも、大将が・・・」
芽久美は首を横に振ると、
「大丈夫、今夜パパは関内の美人ママのいるラウンジに飲みに行って、多分朝帰りよ」
優斗は納得したのか、
「あー、確か関内でラウンジ“銀猫”やってはる美幸ママの所ね、たまに店に来はる美人ママさんや」
芽久美は商売上とはいえ、違う女の名前が出たのが気にくわないのか、
「ふーん。優斗はあんな年増が好きなんだ・・・」
優斗は焦って芽久美をもう一度抱き締めると、
「アホやなぁ。俺にとっての女は、芽久美、お前だけや」
囁くと芽久美の唇を奪った。
今度は芽久美が何度も優斗の求めに応じる。
嬉しい筈なのに、何故か芽久美の頬には涙が一筋。
気付いた優斗は謝り、焦る。
「堪忍や。芽久美の事、キツぅ抱きすぎた?それとも、俺のキスそんなに下手やった?」
芽久美は作り笑顔で、
「もー、違うわよ。ちょっとね・・・」
「ちょっと何や?」
「このまま二人だけで、時間を刻んでいけたらいいなと思っただけ」
優斗はベンチの紙袋を取り、左手を差し出して、
「芽久美、ボチボチ帰ろうか?大将お腹空かせて待ってはるやろ。中華街の“上海酒家”で極楽海老焼売と、何か点心でも買うて帰ろ」
芽久美は手を握らずに、優斗の左腕に抱きつく。
二人の影が一つになり、横浜の街に消えて行った。
また風が囁く、
『優斗・・・』
でも、もう優斗には届く事は無い。
港の見える丘公園は新たなる恋人達の出現を待ち、暫しの眠りについた・・・。