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アストロロジカル・サイン  作者: 蜂須賀 絃
2/2

sign.2 【 Steal, and retake 】

 オーウェンと別れ、ハリウッド・サインが置かれるリー山から麓へ降りて街中へ侵入する。

 信号が赤から青へと変わり、動き出した車のライトが小さな流星のように光の線を引きながら街を巡っていた。

 丁寧に磨かれた店の窓は街中を飛び交う光に反射し、店内も洒落ていて人々の目を奪う。ショーケースに入った商品をよく見せようと工夫されて光を当てられる。


 車のエンジン音、すれ違う人々の話し声、開けっ放しの店から流れるBGM。

 様々な音が鼓膜を震わせる。なんて明るいのだろう。

 夜の暗さ、静けさが嘘みたいに電光の賑やかさに包まれている。


 普段から見慣れている景色のはずなのに、ほんの少し俗世から離れた場所へ行って帰って来ると、毎度のようにこう感じてしまう。


 一定のスピードで、そっと歩くアーリャは、振り子の重りを一番下に下げたメトロノームの速さで歩く。

 レンガのような長方形を敷き詰められて造られた道は、ヨーロッパに負けず劣らず趣のあるものだ。道幅は、その辺の路地と比べたら広いが、メインストリートに比べたら狭いくらいの幅である。まぁ、狭くはない。

 そのくらいの道幅で、人通りも割と少ない。けれど、自分の歩くスピードが遅すぎたのかドンッと突然背後からぶつかられた。


「おっと、ごめんよ」


 歩調を乱されたアーリャは慌てて振り出した足が地面についた瞬間に踏ん張る。

 ぶつかってきた男はちらりと彼女を見て、片手を上げ、軽い謝罪をヘラヘラとした顔で言いながら去っていく。

 アーリャは彼の、全くと言っていいほど悪気のない言動を、しかと見た。


 なんだ、あの顔は。


 アーリャの心は広くない、器も大きくない方だ。

 けれど、たかが人にぶつかられたぐらいで根に持つような人間ではない。それ以前に、面倒事は避けたい性分なのだ。自分からそれに巻き込まれに行くなど言語道断、もってのほかだ。今思えば、幼き頃は誰彼構わず喧嘩を売っていたものだ。自分の利害も考えず。なんて面倒くさい子供であったことか。

 昔から沸点は低いものの、今ではその場だけの苛立ちに変わった。

 沸点が低すぎるが故に、温度が下がるのもまた早いのだろう。沸き上がる湯が吹きこぼれぬように菜箸を鍋の上に置く、昔は菜箸を取ることなんてまずしなかった。

 そうして湯が溢れて火に直接蒸発させられる前に火が消えれば、鍋の中で暴れていた液体が自然と静まる。そうなれば、あとはどうでも良くなる。

 もちろん、自分に害がなければの話だが。


 しかし、彼女は足早に当て逃げしていった相手を追わねばならなくなった。

 いやいやおかしいだろう、この状況で。

 この通りは人通りはさほど多くないのだ、それなのに人に当たるなど、よっぽどふらふらしていたのか?

 いいや、あの男の顔は、はっきりと覚えている。ふっ、と鼻で笑うように口角を上げたあの顔面を、アーリャはその目で確かに見た。男の意識は覚醒していた、酒に溺れていたわけでもないはずだ。


 アーリャの顔はだんだんと険しくなる。メトロノームの目盛りを数段階上げて歩調を早めた。

 沸々と煮えたぎられるそれは、彼女のその顔を見たオーウェンの顔が引きつり歪むほど、脅威的な熱い視線。


「ちょっとそこの人、待ちなさい」


 透き通った声を男の背に突き刺す。

 しかし男は足を止めない。後ろを振り返らずとも背中に重くのしかかる強いプレッシャーに、あたかも自分に当てられていないというように、気付かぬ振りをする。


「黒髪、ゴーグル、フードの付いた丈の長いジャケット、手袋、ブーツ…」

「はぁー」


 アーリャが男の特徴を淡々と上げていくと、ようやく足を止め、深いため息を吐いた。

 腰に当てられた手が持ち上げられれば、両手首をだらりと重力にそって垂らし、やれやれと言うように男は首を振った。

 振り返った男は余裕な笑みを見せながら、アーリャに言う。


「なんだよ」


 挑発的で生意気な言葉。

 綺麗な言葉遣いで、穏便に話を済ませようとしていたアーリャにもはやその選択肢はかき消えていた。

 怒りを鎮めることが上手くなったと成長を遂げても、根本的な短気は変わらない。

 懐からすっかり抜き取られた財布は今、あの男の手元にある。楽して生きてきた人間にかなりの嫌悪感を抱いている彼女の前で、それもまさか自分がスリに遭うなど、考えただけで腹立たしい。そもそも苦手な愛想を振りまいて精神的なストレスを感じながら頂いた給料だ。

 アーリャは感情的になる気持ちを抑えて男を煽る。


「お金を稼ぐのって面倒なのよね。ま、親の脛をかじって生きてきたような人には分からないでしょうけど…」

「お前こそ分かってねぇな」


 ムッとした表情で面白くなさそうに、男はアーリャを睨みつけた。

 それは、挑発に乗るのとはまた違った苛立ち方だった。


「…で、何?お前。俺になんか用でもあるわけ?」

「全くつまらない、とぼけるのも大概にしなさい」

「はっ、御託並べてる暇あったら力づくでも取り返してみろよ。バァカ」


 憎たらしく唾が飛びそうなほど濁点を強調すれば、男は走り出した。


「はぁー」


 うんざりだ。なんて面倒なことになってしまったのだろう。鼻から深く息を吸い込んで、そして吐いた。

 アーリャはしかめっ面で男の背を眺める。必死に気を落ち着かせようとしているが、もはや怒り心頭である。眉が痙攣を起こしたようにぴくぴくと動いているし、口は固く噤まれているし、すでに感情が表情にだだ漏れだ。


「面倒ね…、ほんっと」


 小さく呟いてから、顔面に影を宿した恐ろしい形相をしたアーリャは、ひた走るコソドロを追う。


 男が路地へと曲がる。

 アーリャも続いて路地へと曲がった。

 男は壁を伝って家の屋根へと登る。

 アーリャも同様に屋根へと登り、追う。

 男が家々を飛び渡る。

 アーリャもそれに付いて行った。


 彼女の身の軽さは、生まれながらにして持っていたものだ。

 幼い頃から木の上で寝ていたり、悪さをしては孤児院内を逃げ回っていた。


「へぇ…やるなぁ、あんた」


 男は屋根を走りながら追いかけてくるアーリャを見て、口笛を鳴らして賞賛する。


「余所見してたら足滑らすわよ」

「んなヘマするかよ、俺を誰だと…っどわ?!」


 言ったそばから男が足を滑らせ、屋根から転げ落ちた。ドンガラガッシャーンと大きな物音を立てれば辺りはもくもくと砂ぼこりに包まれる。

 下のテントに運良く身を助けられていたため軽傷で済んだはずだ。


 イタチごっこの終了である。

 辺りに充満していた煙がそよぐ風に流されゆっくりと晴れれば、詰まれた木箱が男の体重によって砕けた木片が散らばっていた。

 被さったテントの布を引っ剝がすと、苦痛の表情を浮かべた男がへなりと木箱に身体をフィットさせて伸びていた。


「いっ、ててて…」

「つーかまーえたァ…」

「げっ…」


 アーリャの陰りを帯びた、お世辞にも良いとは言えない表情に男は顔を引きつらせる。片方の口角が悪魔のごとく持ち上げられ、歯茎までもが見え隠れしていた。

 なんて下品で、おぞましい顔付きだろう。そんなに悪いことをしただろうか?と男は自問自答する。


 容赦なく首根っこを掴まれれば顔面を地面に叩きつけられる。

 普通の女とは思えないくらいの怪力だ。片手一つで男の首を掴んで持ち上げてしまうのだから。


「チッ。あぁー…、うぜぇ…」

「貴方の方が数百倍もうざいわね。というか、面倒極まりない」


 表情を元に戻したアーリャはそのまま男の上に馬乗りになって、一息つく。

 身動きを封じられたコソドロは怠そうに唸る。

 少しくらい抵抗されるかとも思っていたが予想外に大人しく、悔しさに唇を噛む男の鋭い目付きを物ともせず、懐をガサガサと物色する。

 奪われたモノをその手に収めれば後はもう用済みらしい、アーリャは何事もなかったかのように男を解放してやる。


 手元に戻った銀の懐中時計を見ては、親指でカチリと蓋を開く。ガラスの向こうの長針と短針が午後十時二〇分をさしている。複雑な歯車の組み合わせで成される楕円形の綺麗なフォルムの中で動く秒針の音に、ほう、と安堵した。

 この時計は、アーリャが孤児院で過ごしているときにもらった大切なものだ。男をしつこく追いかけ回したのはお金のためではなく、八割、彼女の思い出のため。これを見るたび、この時間の止まった銀時計を自分に託した少女のことを思い出す。進むことのない時を刻み続ける銀時計は、少女の無念と執念を表している。


 アーリャはこれを己の戒めとしてずっと持ち続ける。

 そう、決めたのだ。


「ところで貴方…、最近この街を騒がしているコソドロ? 悪いことは言わないわ、今すぐにでも、この街を出た方が良い。 表沙汰にはしていないけれど、警備が至る所に張り巡らされているもの」

「……?」

「忠告はした。後はどうするか貴方の……」


 瞬間、アーリャは無言になった。


「……。」

「ママ〜、このひとヘンなこと言ってるー…!」


 目の前にいる小さな男の子がアーリャを指差して、無邪気に数歩先にいる母親にその好奇心を伝える。

 我が子の声に気付いた母親はハッとして、怒鳴るというよりも焦りにも似た切羽詰まった声で「何やってるの!指差さない!早くこっちに来なさい!」と、慌てて手招きをする。


 確かに、子供には到底理解出来ない話を、まさか子供相手につらつらと話していたとも露知らず、我が子の言うことを真に受けた母親には変質者扱い。

 一人、この場に取り残されたアーリャはギリッと奥歯を噛み締め「あの野郎…」と心の中で呪った。最初から最後まで滞りなく気分を害されるのは初めてではなかったが、納得の出来ない渦巻いた彼女の中の霧は晴れることはなかった。

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