sign.1 【 Silver girl 】
さて、向日葵を見なくなったのはいつからだろうか?
街は、別にクリスマスでもないのに店頭に点けられた沢山の人工的な光りが、まるで装飾電灯のように煌びやかに輝いている。
眩しさは感じられないほど、見慣れた景色。
今は季節で言えば夏、七月中旬あたりだ。
きっともう半月もすれば、ジリジリと照りつける八月の暑さになる。
いそいそと進んでいた温暖化。
本格的な夏の到来によって人々はぐったりと汗を流し、建ち並ぶビル群が陽炎のようにゆらゆらと歪んで見える猛暑日が続くことだろう。初夏の涼しかった夜も、ねっとりとした纏わりつくような蒸し暑さに寝つきが悪くなりそうだ。
今年も、そうなるはずだった。
太陽から降り注がれた暑さと、熱が蒸し返す夜。
(……まぁ、遅かれ早かれ、地獄絵図は完成していたでしょうけど)
誰が作っただろう人々の頭の中には天国と地獄が存在していて、真夏の涼しい部屋の中を天国だと高揚し、それ以外を地獄と例えて比喩する。
ならば冷暖房器具は世界を支配する神か、何者か。
まだまだ明るい現時刻、午後六時の空。
インクをぶちまけたかのように真っ黒に染まった空。
そこに浮かぶのは白い輪。
視線を下げれば、疲れ切った瞳に光をもたらすように映る夜景。
何にせよ。どのみち。
そんな言葉が頭の中で止めどなく溢れて、身の皮が破れてしまいそうになる。
人の手によって壊れかけていた世界が、ついに壊れた。
いつかの日からか、ずっと変わらないのだ。
昼と夜が入れ替わることが普通なのに、今は夜しか存在しない。
(本当、ゴキブリ並みにしぶとい生き物…)
淋しい波音のような静かな声が、虚しく広がり夜空に染み込んだ。
朝が訪れないことを当たり前に、異変と変化を忘れた人々は平然な月夜に馴染んだ。
太陽が存在しなくなっても、太陽に似せて作った借り物の人工的な光りで植物を育てる。
代わりのエネルギー源である電力を発電するための技術が盛んになり、数世紀前まで注目されていた太陽光発電なんてものは歴史の教科書に載っていても、現代では考えられないほど当てにならないものとなった。
そうやって人は、ありとあらゆる変化に上手く対応しながら今を生きてきた。
いつの時代も、人間はいつまでも醜く、是が非でも食物連鎖の頂点に君臨しのさばり続ける。
いち早く環境の変化を感知し、液晶画面を通じて情報が流れ、知り、慣れる。
知能を使い、このサイクルに辿り着いたのがヒトは動物に含まれないと言われる所以なのではないだろうか。
ある種の才能なような気もする。
ご丁寧なことに、夜が明けなくなったとしても尚ハリウッドの文字は相変わらず人の目に映るよう、ライトアップされていた。
硬い、鉄の塊から、ひんやりとした冷たさがお尻にゆっくりと伝わってくる。
ここはロサンゼルス。サンタモニカ丘陵のリー山に貼付けられた「HOLLY WOOD」のランドマーク。
その一文字に片膝を立てて座る。チラチラと光りの飛び交う街の中を這う者に向かって、アーリャは小馬鹿に毒を吐いた。
(……滑稽ね。ある物をない物にしておきながら)
頭の片隅に何の変哲もなく居座る遥か昔の記憶が、彼女をそんな感情にさせた。
これはきっと、誰の脳裏にあるわけではないのだと悟っていた。
自分のものではない、誰かのメモリーカード。
彼らのデータの中には彼女が今見ている空の本来の姿、暖かそうに眠っている猫、色彩豊かな世界を一望する映像が記録されている。
脳内に「過る」という再生現象が起こったのは、まだ幼い頃だった。
現実と夢の境目が分からず、ふわふわしているように、己の見るものが異常であることに気付くのはもう少し先の話。
孤児院で育ったアーリャは、ふと当時のことを思い出してしまう時がある。
両親に捨てられた、と言われれば人聞きが悪いが、彼女に両親を恨む心は持ち合わせていない。
つまり言葉の綾なのだ。言葉の使い方が適切でなかったがために生まれた弊害は計り知れない力を生む。捨てざるを得なかった、と言った方が正しいのかもしれない。
幼い子供は、環境の変化に敏感なもので、理由は分からずとも薄々はこうなる運命だとは感じていた。
アーリャが孤児院に預けられる瞬間、これから離ればなれになり一生会わない可能性があるにも関わらず、純真無垢な少女はあざとく澄んだ瞳で迎えに来る筈の無い彼らを見つめていた。
そんな我が子と目を合わせることが出来ず、父は唇を噛んで顔を伏せ、母は膝を折って涙を流す。
意図した結果ではないことぐらい、今になって考えれば痛感するほどよく分かる。
別れ際の出来事、二十歳過ぎた今でも鮮明に思い出せる。
……それと、孤児院に起こった悲劇も。
今思えば、あの時が最初の発現だったのだ。
(やめよう…考えるのは。過去はもう変えられないのだから)
ふるふると首を横に振った。
忘れられない思い出したくない記憶、気持ちが溢れ零れてしまう前に慌てて熱を止めて蓋をした。
無意識に何かを言おうとしていたのだろうか。
アーリャは少し開いていた口を再度頑に噤んで、被っていたワークキャップの鍔に指をかけた。そして、グイッと視線を隠すように押し下げる。
吹く夜風が通り抜け、はみ出した彼女の銀髪を揺らして全身に爽涼感を与える。
その爽涼感が逆に、彼女に追い討ちをかけるように冷たく刺さった。
もういいさ、全て忘れてしまえ。流れるが良い、風の赴くままに。
なんてそんな「誰だよお前」と突っ込みたくなるようなお告げじみた幻聴が聞こえてきそうで、アーリャは眉をひそめて立ち上がった。
「おっ、もう良いのかい? 少年」
タイミングを見計らっていたように、後方から若々しく張りのある強い肉声が頬を掠めるように投げられた。振り返れば、それを待っていた男が険しい顔をして腕を組んでいた。
顔を強張らせ眉をピクピクさせているのは、慣れない表情をしている証拠だ。
「……居たなら声かけてよね、オーウェン」
あまりに我慢された顔付きを見て「何よその顔」と呆れたように男の名を溜め息混じりに呼ぶと、色素のない猫っ毛を晒した男オーウェンは、途端にニカッと満足そうな笑みを見せた。
被ったフードの隙間から見えるその笑顔は、アーリャの心を少しばかり温める。彼にはそういう力がある。重たい荷物を半分持ってくれるような、そんな力。
「いやー、なんかお取り込み中? だったからさ…」
気まずそうに視線を逸らし頭を掻きながら、オーウェンは声を掛けられなかった旨を伝える。
彼女との付き合いはそう短くはない。だからこそアーリャの性格を何となく理解した上で、普段から何を考えているのかよくわからない人物だったが星空など見て黄昏れていた彼女を見るのは初めてだったから、様子を伺いつつ声を掛けるタイミングを見計らっていた。
お互い、腹を割って何でも話す間柄でないことは重々承知だが、だとしても他人と壁を作ったり一線を引くタイプであるアーリャのことを控えめに気にかけるオーウェンとは、思いのほか相性が良いのかも知れない。
そんな彼の内に秘めたる優しさを知るアーリャは「そう…」と小さく適当な相槌だけ打つ。
「それで…、誰が少年だって?」
「…ぶっは、スルーされたのかと思ったけど拾ってくれんだな!」
しんみりした雰囲気になるのは嫌だった。
アーリャは少し気まずそうに明後日の方向を向くオーウェンに睨みを利かせて問い詰めると、彼は一瞬驚きに目を丸くさせ、ついで勢いそのまま唾を飛ばした。
「優しいなぁ、アーリャは」
オーウェンの唾が少しばかりアーリャにかかっては顔を歪めるも、指摘することはしない。
さも頬が痒いかのように腕でうまいことそれを拭っていると、聞こえたオーウェンの声にピタリと動作を止めて、ヘラヘラしながら照れくさそうに鼻に指を当てる彼に小さくため息。
「はぁ、全く…」
(優しいのは貴方の方でしょ)
脱力したように呆れて目を伏せれば、口から出そうになったその言葉を慌てて飲み込む。
褒めたら調子に乗る、オーウェンはそういうやつだ。
「やっぱお前は怒った顔のが良いな、似合ってる!」
「それはどういう意味かしら」
「あー。いや…」
追加事項。
褒めても褒めなくても失礼なのは変わらない、それがオーウェンなのだ。
「悪かったよ」
アーリャの声が落ちると「なぁ、怒ったのか?」なんて珍しく謝罪を述べる彼のその新鮮さに、つい無意識的に聞き耳を立てる。
「けどお前、端から見たらマジ少年。髪短いしキャップ被ってるし。つーか顔立ちがまず中性的だろ?」
二言目を期待した自分が愚かだったと思う瞬間。
深めに被っているワークキャップの鍔を少し持ち上げ、隣にやって来たオーウェンの表情をちらりと確認し当時のことを思い出す。
あの締まりのない顔付きは、まるで昔のまんまだ。
昔からの少年弄りに、文句をぶつける気力はもうない。
そんな気力、いくら冷たい態度を取っても懲りずに弄ってくるオーウェンにすべて吸い取られた。もう吸い取られるものなど何もない。
アーリャだって好きで髪の毛を短くしているわけではない。
ただ、似合っていると言われたから。
それだけのこと。
「はぁ…貴方一体何しに来たの?」
「それはこっちの台詞だぜ。何してたんだ? 星の観測か?」
鬱陶しそうに小さくため息を吐いたアーリャは、まさか自分を煽りに来ただけではないだろうな?と険しい表情でオーウェンに問いかける。
すると、彼の口からは思いの外まともな応えが返ってきた。いつもの冗談混じりのような聞き方ではない質問だった。というより、理由を聞きたいのを任意に聞き出そうとするような、そんな問いかけだ。
アーリャは何故オーウェンがそんなことを聞くのか、悟られない驚きを内に秘め、空を見上げた。
月明かりの中に銀砂を夜空に散らした星々の川が、遠く青白く流れていたのが目に入る。
黒い画用紙の上に白い点々をつけたように瞳に映るのは純粋な黒ではなくて、しっかりとした夜が現れる。これが夜の到来の合図、小さく控えめに光り輝く星の知らせ。
「星の観察か…、間違ってはいないわ」
「どういうことだ?」
「ただ、あの時の演奏を聴きながら天体観測するんだったら、もっと良かったなと思っただけよ」
もちろん一人で、と付け足す。
「おい!ひでーな!! 俺との出会いにそんなこと思ってたのかよ!? えっ…運命だと思ってたの俺だけ…? ねぇ、アーリャ!?」
アーリャは、口々に不満を漏らすオーウェンをよそに目を瞑って、あの時彼に妨害された大演奏を思い浮かべていた。
たった三人なのに、これ程までに彼女の心にしつこく纏わり付く、今でも忘れられない演奏だ。
その音色・旋律は、今は想像するだけ鮮明に再現出来ないが、きっと視界に散りばめられた夜空を目にしながらであれば、さぞやその世界に引き込まれてしまうくらいに感嘆していたことだろう。
「あ…もうこんな時間」
「えっ、あれっ、俺の話は…? アーリャ? ねえ聞いてた?!」
「騒がしいわね。聞いていたわ、一言一句」
オーウェンに会うと、つい昔のことを思い出してしまう。
瞼を開いて腕時計に目をやると、時計の針はすでに90度を越えていた。
「お前、息を吐くように嘘つくなよ… 何、もう行くの?」
アーリャはこくりと頷く。
「ええ、元々こんなに長居するつもりはなかったから」
「相変わらずマイペースな奴だな」
帽子が飛ばぬように鍔に手をかけながらハリウッド・サインから飛び降り、彼女が目の前を通り過ぎていくのを見て、オーウェンは自然と言葉を漏らした。
去り際、思い出したかのように歩き続けるその足を一度止めた。別れの挨拶の一言くらい言っていなかったなと。
アーリャは背を向けたまま振り返り、横目にわざわざオーウェンを視界に入れて何かに釘を刺すように「それじゃ、また」と恐ろしく静かで迫力のある声で別れを告げた。