8.人探し
ファーブル。ファーブル。ファーブル。
目を皿の様にして本を広げるあたしは、アリスのファミリーネームを呪文のように繰り返した。
あの日から一週間。
あたし達三人は時間があれば図書館へと通い、ファーブルという名の人物を本の中で探していた。
『アリスは貴族。もしくはお金持ち。つまり、何かを成した家系。有名人。という事は、本に名前が記されているかもしれない――』
手掛かりがない以上、仮定で調べ、当たればビンゴ。外れれば、その可能性を潰せる。
地味としか言いようのないこの地道な作業を、皆、黙々と続けていた。
あたしは静かにページを捲る。
肖像画と共に現れる細かな説明文に目を走らせ、目的の文字を探す。
ファーブル。ファーブル。ファーブル……
紙を捲る音さえも、どこかへ吸い込まれてしまった部屋の中。
静かすぎる部屋は確かに居るあたし達の存在すら無かった事にして。ただそこに、空間としてあり続ける。
カツリ、と、音が鳴った。
音を立てたのは壁掛け時計。たしか、長針と短針が重なった時の音だ。
「――マリカ、そっちはどぉ?」
集中が切れ、正面を見やれば、彼女はこちらを見ることなく「収穫なし」と、一言。
そっけない返事に不貞腐れ、隣に座るエリオットを見やれば、彼はチラリとこちらを見て「同じだ」と言った。
二人の簡潔な返事にあたしは頭を垂れる。
両手で顔を挟み、今一度、文字へと視線を向けてみるが、途切れた集中は戻ってこない。
あたしは勉強が苦手だ。
文字を読む事が嫌いな訳じゃない。むしろ、読書は好き。
なのに、どうしても教科書的なモノを見ていると思考が虚ろになる。
ページを捲っても捲っても続く仰々しい文章。一緒に描かれている複雑な図形。
単純に一言で済む様な事柄を延々と小難しい言葉で綴るそれらは、伝えたい事までが遠すぎて、結局何が言いたいのかさっぱり分からない。
興味が薄れる。文字が理解不能な記号へと変わる。
そして。気が付けば視界は暗くなる。
重力に逆らっている瞼が、羽を休めようと下へ降りてきた。
――本日の営業は終了だよ、瞳さん。
――いやいや。まだお昼だよ、瞼さん。
眼前で繰り広げられる攻防に、視界が狭まっては広がり、また狭まっては広がり……。
うつらうつらと船をこぎ始め、手から顔が滑り落ちては、定位置に戻るを繰り返す。
「――おい、よだれが垂れるぞ」
鋭い声にバッと頭を上げ、慌てて口元を拭う。
いけない。いけない。
念入りに拭う。だけど手には何もつかなかった。
「……もう。嘘言わないでよエリオット……」
「事実になるのも時間の問題だろ」
冷めた目でこちらを見るエリオットに言い返す事が出来ず、あたしは頬を膨らませる。
「……だって、ここ空調が効いてて気持ちいいんだもん」
「言い訳してくれとは言ってないが」
「言い訳じゃなくて、状況説明!」
これこそがまさに言い訳だったが、そこは伏せておく。
そんなあたしの心の内を知ってか知らずか、エリオットは短く息を吐いただけで言い返しては来ない。
うん。
とりあえず、あたしの言い分は認められたって事で。
あたしは一人、うんうんと頷いた。
◇◆◇◆◇◆
エリオットの探し人、アリス=ファーブル。
金髪碧眼で、着飾る事に慣れていて、それでいて年齢不詳。
肖像を見た場所を訊ねたところ、それは例の父親の様に思っている人の自宅との事。その方との関係を確認すると、「肖像画をとても大切にしていた」と教えてくれた。
『肖像画を大切にしていたって事は、仲が良いってことかな?』
『……さあ。どうなんだろうな……』
あたしから視線を外し、窓の外を見るエリオット。
遠くを眺めるその仕草は、会えない人への想いを馳せているように。哀愁を含んだ、どこか頼りない横顔だった。
(……そういえばあの時のエリオット……ちょっと、らしくなかったな)
いつもなら「会ったことも無いのに分かるわけないだろう」とか「重要な関係性ならすでに伝えている」とか。そんな事を言いそうなのに。
今思えば、あまり答えたくないような、言いにくそうな。
これ以上聞いてくれるなと、そんな無言の拒絶を含んでいた気がする。
……と、あたしの脳裏に閃きのランプが灯った。
『アリス』は父親の様に思っている人の恋人。
彼は売れない画家(仮定)。アリスは富豪の一人娘(予想)。
身分違いの恋。引き裂かれる恋人同士。それを知ったエリオットが、父親の様に思っている彼の為に『アリス』を探す。でも子供は無力で、なかなか『アリス』を見つけられない。そこへ、協力を申し出る美少女が登場し――……!!
「……ティアナ。そろそろ帰るぞ」
「へっ!? もうそんな時間!?」
ハッと顔を上げ、時計を見れば、時刻は夕方五時半を過ぎていた。
「全く……ニヤニヤして何考えてるんだか」
「え。いやー……その」
「どうせ、引き裂かれた恋人の為に奔走する子供を支える美少……」
「わぁーっ!!! ごめんなさい! ごめんなさい!! 欲張りました! 見栄張りました!!」
「……一体何の話だ?」と、不審げな顔をするエリオットに、空想をかき消す様に両手を振る。
なんでもない、なんでもない。
脳内だからって盛りました。ごめんなさい。
クスクス笑うマリカが、ふと、目線を上げた。
あたしを飛び越えて奥を見るその瞳が、今まで湛えていた優しさが嘘のようにスゥっと冷たくなってゆく。
「ティアナ」
軽く、華のある声。
人によっては聞き惚れるだろうその声に、あたしは眉を顰めた。
「――マティアス=ザリッツ。ティアに何の用かしら?」
「こんにちは、マリカ。今日の終わりに君に会えるなんて、僕は幸運だね!」
「ごたくはいいから、要件を言いなさい」
「あはは。君はいつもせっかちさんだね」
「無意味な会話に必要性を感じないの」
飄々とマリカの言葉をかわすマティアスは花が綻ぶように笑う。
中性的な顔立ちに、色素の薄い金色の髪。
背は高いのに全体的に線が細く、柔らかい物腰。
その甘い雰囲気と整った容姿と。加えて、青空を彷彿させる瞳の色で、一部の女子からは「空色の王子」と呼ばれていた。
「ティアナ。今日、ヴァリュアブルだけ特別講習があったのって……知ってた?」
「――いえ、知らないわ」
「そうだったんだ。僕は君が来ないから、何かあったのかと心配していたんだ」
「……それは、どうも」
普段と違う態度に、エリオットが目を丸くしている。
あたしは彼が苦手だった。
親切そうに振る舞っていて、それが本心に繋がらないような気がして。
いつも笑っているけれど、瞳の奥に喜びの感情が見えない。何を考えているのか分からない。
もちろん誰の考えも本当の意味では分からないし、同じと言われればそれまでだけど。
分からなければ分からないなりに見えてくる事が、彼からは何も伝わってこない。それが本能的に苦手と感じる原因だった。
マティアスは続ける。
これから週ニ回、特別講習が行われる事。
講師は政府から派遣される事。
生徒はグループごとに別れ、実技はもちろん、座学もある事など。
今日は説明会の様なもので、本格的に始まるのは明後日からだと言い、そうして彼の話は終わる。
「そう。ありがとう、教えてくれて」
「どういたしまして」
マティアスが人好きする笑顔を浮かべ、「じゃあ、僕はこれで」と、席から離れようと背を向けた。
内心ホッとしたあたしはエリオットを見て、不思議そうな顔をした彼に苦笑を浮かべる。
エリオットが、ちらり、とマティアスの後ろ姿を追う。
そんな彼に倣ったあたしは、不意に後ろを向いたマティアスを正面から捕えた。
彼は、あたしの嫌いな笑みを浮かべていた。
「――そういえば。リアム君の話題も出ていたよ」
ガタンッ!
椅子が倒れた。
あたしは自分の立てた音にハッとし、曖昧に笑いながら椅子を元に戻す。
マティアスが笑みを浮かべたまま立ち去り。場は妙な空気が流れた。
あたしの態度に疑問を抱いたエリオットはこちらを見、マリカは苦虫を噛み潰したような表情をしている。
何か言わなくちゃ。
そう思っても、気の利いた言葉はもちろん、上手く誤魔化せる言葉も思いつかず。
どうしようという言葉だけが頭の中をぐるぐる回って、声を出す事が出来ない。
「――帰るわよ」
マリカが広げていた本を閉じ、あたしとエリオットの本も自分の方へと引き寄せた。
エリオットも机に広げていた筆記具を無言で片づけ始め、あたしは手持無沙汰になり、仕方なく腰かけていた椅子をゆっくりと机の中へと押し込んだ。
学園を出て、三人並んで歩く。
帰り道、誰も口をきかなかった事に、あたしは気付いていなかった。
しばらく歩き、道の十字路で立ち止まる。
マリカとの別れ道。完全に習慣だった。
「――貴女の気にする事は何もないわ、ティア」
マリカの、その言葉で。
あたしは自分が泣きそうになっている事に初めて気がついた。
お読みいただきましてありがとうございました!(*^_^*)