3.日常
自宅から歩いて二十分。走って十五分。
夏の日差しで焼けたアスファルトを蹴り、駆け足で門を抜ける。
「おっはよー!!」
見知った後ろ姿に声をかけると、相手は日傘を傾げるように動かし、静かに振り返る。
さらりと流れる髪は亜麻色で、涼しげなブルーの瞳にあたしを映すと少しだけ口角を上げた。
「おはよ、ティア」
「今日も暑いね!」
「そりゃあ走れば暑いわよ」
甘ったるい見た目とは裏腹にバッサリと言い切る彼女は、マリカ=シグレス。
亜麻色のロングヘアにはいつも蜂蜜でパックをしていて、自慢の髪を維持するための努力は惜しまない髪命女子。好きな食べ物はワカメ。
「あたしだって、走らなくて済むならそうしてる」
カッターの裾を摘み、パタパタと風を送り出すあたしを見て、「もうちょっと早く出たら良いのに」と、マリカは続ける。
「それが出来たらいいんだけど」
「もう五分早く起きたら?」
「早く起きた方が余計に遅くなるんだよねー。『あ、これもやっとこ』みたいな感じでさ」
「始めなきゃいいだけじゃない」
「時間があるとついね~」
「まあ、分からなくはないけど」
同意を得られたあたしは一人満足する。
マリカの言う事は正論で無駄がない。
そんな彼女があたしの遅くなる理由である日課を認めてくれている事が嬉しい。
雑談をしつつ、校舎へと歩く。
あたしたちの通う学校は満十八歳までの子供が集まる大規模な学園だった。
巨大な敷地の中、修学内容によって振り分けられた校舎がいくつも立ち並んでおり、人数が多い所から順に門より近い場所にある。
あたしとマリカは十七歳で修学人数少なく、専攻している科目も細分化されている為、自ずと門から遠い場所に校舎があった。その為、遅刻魔であるあたしは門を通り抜けても油断ならないのが日常なのだ。
「――そういえば。今日は自衛の日だけど、替えの服、持って来てる?」
確認の様に呟かれた言葉で「うっ」と、声が漏れる。
――忘れてた。完全に忘れていた。ヤバい。
そんなあたしの反応を見てマリカは呆れたように息をつく。
「あんたねぇ……毎週の事なのに忘れるってどーゆーことよ」
「だってー……昨日までずっと雨だったじゃん? 朝、お日様を見て『洗濯!』って、張りきったらさ……」
言い訳がましくごにょごにょ言えば、「明日の用意は前日に。これ、鉄則」と、言い切られる。
「マリカ~! それが出来たら……」
「言い訳無用」
「ひえ~……」
言葉通り言い訳も聞いてくれないマリカは「気合を入れて昼抜けするか、その服のまま受けるか。このいずれかね」と、軽い口調で言う。
昼休憩は四十五分。自宅まで走って往復三十分。
その間お昼ご飯も食べたいし、休憩もしたい。
そもそも本気で走ったりなんかしたら絶対汗だくで、そんな事になっては替えの服以前の問題だ。
ちなみに自衛――自己防衛プログラム――は、簡単にいえば運動。
この暑さの中で運動をすれば、服がどうなるかは考えるまでも無い。
「汗ぐちょぐちょで帰るのはいや……」
眉をハの字にしてマリカを見れば、彼女は「ふうん」といった体で片眉を上げた。
その眼差しが「ちゃんと反省してる?」と言っているような気がして。あたしはコクコク頷いてみる。
「本当、かな?」
「もちろん!」
首振り人形のように頷くあたしを見て、マリカは「コホン」とわざとらしい咳払いを一つ。そしてあたしに背を向ける形で身体を斜めにした。
つつつ。と、肩に掛っているバッグが視界に滑り込む。
夏らしい爽やかなストライプのバックは、心なしか、いつもより大きい気がした。
「……ねえ。正論、無駄なし。準備万端マリカ様なら、あたしの分も持ってたり……?」
「それはティアの行い次第かな」
「洗濯して返します!! なんならアイロンも!!」
「この暑い中、荷物の増えた私にそれだけ?」
「滅相もない!! ジュースとアイスもお付けします!!」
「アイスはクッキー&クッキーがいいなあ……」
「ははーっ!! 仰せのままにーっ!」
地面に手をついたポーズで頭を下げれば、頭上からくすくすと笑い声が聞こえ、「全く、しょうのない子ね……」と、柔らかな声が降ってくる。
「今日帰ったら、明日の準備をする事。コレ、条件に追加」
「はい! マリカママ!!」
「はいはい。こんなおっきな子供がいて私は幸せよ」
「あたしも幸せですっ!!」
お互いくすくすと笑い合い、ようやくたどり着いた校舎へと入る。
いつもと同じ、一日の始まり。
――そうして、くたくたになって帰るあたしを出迎えるのは……。
「遅いぞ。ティアナ」
腕組みをし、部屋先で仁王立ちしているエリオット。
帰るのを必ず待っていてくれる彼は、あたしに聞きたい事が沢山あるらしい。
ふんと鼻を鳴らす様にそっぽを向いていながらも、質問したそうにうずうずしている。
「――さあ、今日は何が聞きたいのかな? エリオット」
「いくつかある。まずは――」
「ああ! ちょっと待って! まず手洗いしてから居間で聞くから」
「わかった。早くしろよ」
長くなるだろうから、お茶とお菓子を持って行こう。
晩御飯は昨日のカレーでもいいかな?
エリオットが現れて、いままで人の気がなかった家が温かくなって。
毎日誰もいない家に帰るのが嫌だったのに、今はなるべく早く帰る様にしている。
「――お待たせ、さあティアナ姉さんに何でも聞いてちょうだい」
「……絶対呼ばないからな」
「遠慮はいらないわよ?」
「遠慮じゃなくて拒否だ拒否!!」
変わらなかった日常の、ちょっとした変化。
それはあたしにとって嬉しい副産物だった。
お読みいただきましてありがとうございました!!