近付くⅢ
ゼインの右目から、はらりと雫が零れ落ちる。
「アネモネぇ……」
優しすぎる呟きは、ホールの騒音にかき消された。そして、ゼインは二杯目のビールを一気に飲み干す。
「ビール、なくなっちゃったじゃ……ないですか」
「そりゃ、飲んだらなくなるだろ」
ちょっと言葉はきつく聞こえる。突然のゼインの涙に困惑したのかもしれない。しかし、すぐにアルフレッドはゼインの背中を撫で始めた。ゼインが掴むジョッキは揺れながらテーブルに小刻みにぶつかっている。
「まだ……飲み足りません」
「やめておけ」
「飲んでるのに……全っ然っ……楽しくないんですよぉ」
「……楽しい話なんかしてないからな」
アルフレッドは眉間にしわを寄せ、何かを言いかけたものの、綺麗にまとめてしまった。間を置き、アルフレッドは兄弟のようにゼインへ温かな眼差しを向ける。ゼインはぎゅっと瞼を閉じた。
「兄さんくらい……幸せになってもらわないとっ。僕が報われませんよー。僕は帰る家を失って、好きな人も失って……何も、なくなっちゃったのに」
「気持ちは……分かるぞ」
ゼインは声を詰まらせて気持ちを紡ぐ。アルフレッドは同調するように何回も頷いた。これが男の友情というものなのだろうか。
存在をアピールしたい訳ではない。ただ、ゼインが痛々しいほどに愛を叫ぶので、私もいたたまれなくなってしまった。
「レイン、今まで頑張ってきたねぇ」
未だに空のグラスを握るゼインの手に、自分の手を重ねる。
「ティア様ぁ」
ゼインは赤くなってしまった目をこちらに向けると、鼻を啜った。
「聞いて……答えが返ってくるなんて、思ってません。でもー……」
ゼインは爪が白くなるまで拳を握り締める。
「アネモネはっ……どこにいるんでしょう。もうひと目くらい、会わせてくれたって……良いのに。神様はっ……意地悪ですよねー」
私も静かに頷いてみせる。
家を捨てたところしか、私とゼインの共通点はない。でも、それがどれほど勇気がいることなのか、私でも想像がつく。胸がしくしくと痛む。完全にはゼインの気持ちを理解出来ないけれど、私まで涙してしまった。
アルフレッドは私を見て、小さく苦笑いをする。
「どうしてティアまで泣くんだ」
「だってー」
理由を言う方が不躾だと思うのだ。片手で目元を拭い、アルフレッドに膨れてみる。
「アネモネは……春風みたいに、優しい子なんです。他の男に悲しい思いをさせられるっ……なんて、想像したくないですよー」
ゼインは叱られた子犬のように縮こまってしまった。アルフレッドの前だ。ゼインの頭を撫でたくなる衝動をなんとか抑える。
「それにしても、レインが泣き上戸だったとはな。俺も知らなかった」
「違いますよー……。今日は、特別……なんです」
「どうだかな」
アルフレッドはくすりと漏らし、ステーキを頬張るゼインに微笑んだ。
「俺たちも食べてしまおう。冷めちゃったけどな」
「うん」
ここに留まるのは得策ではないのはアルフレッドに同意だ。いつ、どこでゼインが酔った勢いで、何かを暴露するとも限らない。
こんなに切ない人が目の前にいたなんて。しかも、とびきり明るく見える人が。人は見かけによらないものだな、と喉に悲しい何かがこみ上げるのだった。
* * *
店を出ると、涼しい夜風にあたりながら、街灯やネオンが煌めく道を歩く。
「明日は……何を食べましょっかー」
アルフレッドに担がれたゼインの涙は完全に引っ込んだようだ。ゼインが酔った目でにこにこと微笑んでいるのに、安心出来ないのは何故だろう。胸騒ぎを感じながらも、明日の料理に思いを馳せる。
「私、またお肉を食べたい」
「肉か」
アルフレッドは「うーん」と小さく唸り声をあげる。
「明日の夜は、ローストビーフでもどうだ?」
「賛成!」
思わず叫んでいた。ゼインはこちらを見ると、口角を上げる。
「豚の角煮も……良いですよねー。あとは……鳥の唐揚げもっ……」
「分かった。それも買ってやる」
アルフレッドは苦笑し、ゼインを担ぎ直す。
そうか、ゼインを見て不安になるのは、いつか彼が壊れてしまうのではないだろうか。そんな懸念がじわじわと広がっていくからだろう。
店に入ってテイクアウトをし、私の両手は買い物袋で塞がっている。アルフレッドは申し訳なさそうに口角を下げた。
「すまない、荷物持ちなんかさせて」
「ううん、気にしないで」
心の中でアルフレッドにグッドサインを送り、にこっと笑ってみる。すると、彼もまた静かに笑ってくれた。
ゆっくりと停泊所を目指す。大きな飛空船に紛れて片隅に停まるホープ号を見つけると、我が家に返ってきた感が強くなる。タラップをゆっくりと上り、ゼインの部屋へと向かう。既にゼインは半分眠っているようだ。首で船を漕いでいる。
アルフレッドはゼインをベッドに寝かせると、私の方に振り向いた。
「今日は楽しかった……のか?」
「終わりよければ全てよし!」
この言葉が今の私たちには一番しっくりくる。空いたアルフレッドの両手を握り、ブンブンと振り回した。
「楽しい食事の思い出は、また今度、作れば良いんだから」
「……そうだな」
すぐにゼインのイビキが部屋の空気を振動させ始める。アルフレッドはゼインを見て、目を伏せた。
「俺の弟も……デイビッドも、あんな気持ちで俺を庇ってくれてたんだろうか」
カードゲームをしながら顔を歪めるアルフレッドの顔が思い返される。あの自己嫌悪が崩れかけている気がした。
「きっとそうだよ。仲の良い兄弟なら、余計に」
兄弟のいない私にとっては予想に過ぎない。でも、兄を庇うなんて『愛』以外の何物でもないと思うのだ。二人で微笑み合い、そっと部屋を抜け出した。
翌日、ゼインが二日酔いになったのは言うまでもない。




