王女を越えるⅢ
女性の異変に気付いたのか、犬が吠え始める。周囲の視線を集める形となってしまった。
「お許しください……! ご結婚に賛同しかしなかった私たちを、どうか恨まないでください……!」
意味の分からない言葉を並べ、捲し立てる。これでは、この街の騎士がいつ到着してもおかしくはない。
「セシル……! どうしよう!」
こんなところで捕まる訳にはいかない。殺される訳にはいかない。弾かれるように地面を蹴り、走り出していた。どちらが停泊所なのかは分からない。とにかく逃げなくては。人にぶつかりながら走る。
「ティア!」
数分も経たずに手首が捕まれ、後ろに引っ張られる。背中から柔らかなものに衝突した。
「大丈夫か!?」
アルフレッドだ。良かった、助かった。安心した途端に涙が溢れそうになる。
「良いか、前だけ向いて走れ! 行くぞ!」
アルフレッドは私の手を握り直し、強く引いた。人にぶつかっても、悲鳴を上げられようとも構わない。この人と逃げられるなら、その先に明るい未来が待っている気がするのだ。
足が縺れ、転びそうになっても走り続けた。停泊所が見えてきた頃には息も上がっていた。
「レイン、船を出せ!」
アルフレッドの叫び声が停泊所に響き渡る。ゼインの姿はホープ号のタラップにあった。ゼインだけではなく、他の船の乗組員も顔を覗かせる。
「後ろの騎士は何ですか!?」
「良いから、早く!」
もう騎士が迫っているのだろうか。振り返る余裕もなく、アルフレッドと共にタラップを駆け上がった。
「メヌエッタ殿下と……恐らく、アルフレッド・シャルレイです! 前方の飛空船に乗船を確認!」
「発砲を許可する!」
矢継ぎ早に騎士の声が聞こえた。撃たれるかもしれない。そう思った時には、デッキの手摺りの傍でアルフレッドに覆い被されていた。彼の身体は小刻みに震えている。
重たい金属音が聞こえ、船が動き出す。発砲音が聞こえ、肩が飛び跳ねた。
「隊長! これでは当てられません!」
「……くそっ! 上に報告だ!」
助かったのだろうか。気が抜けて、笑いが漏れてしまう。
「あは、あはは」
「ティア?」
アルフレッドは私の向かいにしゃがみ込み、首を傾げた。
「必死な騎士の声を聞いた? 『当てられません!』なんて。声が震えてたし、面白くて」
「……確かに滑稽だ」
アルフレッドも涙を溜めて笑い声を上げる。最大の緊張と恐怖を感じたからこそ、こうして笑えるのだろう。
手摺りには銃弾の霞めた跡がしっかりと残っていた。この手摺りを見るたびに、今日の出来事を思い返すのだろう。
* * *
デッキで風に吹かれながら、三人揃って輪になり座り込む。
「このコンタクトは駄目だな。捨てなさい」
「えー? 綺麗な色なのに」
「捨てなさい」
アルフレッドは眉間にしわを寄せ、溜め息を漏らす。
「落ちたら意味がないだろ?」
「それはそうだけど」
海色の瞳はかなり気に入っていたのだ。これほどまでに深い色のコンタクトレンズは他にあるだろうか。
「こういうこともあろうかと、もう一種類、買ってたんですよ。流石、僕」
「レインじゃなくて、剛腕な執事でしょ?」
「すぐバレたぁ!」
ゼインは頭を抱え、大袈裟に息を吐いた。
「そのコンタクト、見せて?」
「はい」
意気消沈したゼインは、力の入っていない手で箱を渡してくれた。これは、アイスブルーだろうか。
「私に似合うかなぁ」
「とにかく、つけてみないことには分からないな」
「うーん」
とりあえず、つけてみよう。おもむろに立ち上がり、洗面所を目指す。
コンタクトレンズの着脱はもう慣れたものだ。鏡を見なくても出来るようになった。プルプルとしたコンタクトレンズを指先に乗せ、目に当てる。
「冷たくて気持ち良い」
何度か瞬きをして、ようやく鏡を見た。アイスブルーの瞳だと、だいぶ冷めた印象になる。
「しょうがないかぁ」
また街中で落ちても大変なことになるし、割り切るしかない。アルフレッドとゼインにも意見を聞いてみよう。心に決めて階段を上る。
まだデッキで話し込んでいた二人は、私の姿を見つけると興味津々といった様子に変わった。
「ティア。どうだ?」
「冷たい印象になっちゃった」
「うーん」
アルフレッドとゼインは仲良く二人で唸り声を上げる。
「ティアらしくないな。国境を越えたら、街で買い直そう」
「そうですね」
やはり、似合っていないらしい。ちょっとだけショックを受けながら、元の位置へと戻る。
「何の話をしてたの?」
「いや、こっちの話だ」
アルフレッドは首を横に振る。ゼインも笑うばかりで答えようとはしてくれない。きっと、私には聞かれたくない話なのだろうな、と自分を納得させた。
「そうだ、これを」
アルフレッドは私の手の平の上に何かを乗せる。何だろう。首を傾げながら視線を落とすと、そこにはコインがあった。
「去年の記念硬貨だ」
表面には父王の横顔が彫られている。私が言うのもなんだけれど、凛々しくてカッコいい。裏面は何だろう。裏返してみると、そこには以前の私の横顔があった。どこか哀愁が漂っているように見える。今の私とは別人だ。
「ティアの土産になると良いんだが」
もしや、トイレに行っていると見せかけて、これを買ってきてくれたのだろうか。
「セシル、ありがとう」
片手でアルフレッドの手を握り、ブンブンと振り回す。それを見て、ゼインも明るく笑ってくれた。
「セシル様、やるじゃないですか」
「いや、大したことじゃないさ」
「もしかして、キスも……?」
「してないし、しない!」
顔を赤くしながら全力で否定するアルフレッドに、どこかガッカリしてしまう自分がいた。
今一度、コインを眺めて思う。私はもう、『メヌエッタ』という王女ではない。『ティア』という名の、ただの一人の少女なのだ。




