第6話:夜の庭での静かな距離
舞踏会から数日が経ったある夜。
セリオン・カーヴァルの邸宅の庭は、春の夜風に包まれていた。淡い水色のドレスに身を包んだエリーナ・ヴァレンタインは、月明かりに照らされた石畳をそっと歩く。銀色の髪が光を受けて揺れ、夜の静けさと花の香りが混ざった空気の中、足音だけが小さく響いた。
「……こんばんは」
小径の奥から聞こえた声に、セリオンが振り返る。栗色の髪を整えた彼の青い瞳には、先日の舞踏会より柔らかな温かみと、言葉には出せない切実な想いが宿っていた。
「こんばんは」
二人はしばらく、言葉もなく庭を歩く。肩がかすかに触れるか触れないかの距離。お互いの息づかいや視線の動きだけで、微妙な距離感を確かめ合う。
「夜風、気持ちいいね」
「……ああ、花も香って」
短い会話の間に、沈黙が混ざる。その沈黙の中で、互いの存在が心に静かに届く。セリオンは無意識に歩幅を合わせ、エリーナの視線を時折追う。
「……ちょっと話したくて来たんだ」
セリオンは視線を少し逸らす。婚約破棄を切り出した自分が許しを求めるつもりはない。ただ、そばにいてほしい――その想いだけが胸を締め付ける。
「うん、わかってる」
エリーナの声には落ち着きと優しさが混ざる。簡単には心を開かないと決めながらも、彼のそばにいることに自然と安心感を覚える自分に気づく。
二人は庭の木の下で立ち止まる。月光が二人を淡く照らす中、風に揺れる花々が影を落とす。セリオンはふと視線を彼女の髪に落とし、光に揺れる銀色の輝きに息を呑む。
「……ここにいてくれて、嬉しい」
その声は小さく、けれど真剣で、ただそばにいたい――その気持ちだけが溢れている。
エリーナも微笑む
「……私も、少し安心するわ」
言葉の間にも沈黙が流れる。触れることはまだない。けれど、互いの距離は心の奥で確かに縮まっている。
「セリオン……」
「ん?」
「……こうして歩くと、落ち着くわね」
ほんの少しの声に、彼は笑みを返す。
「俺もだ……お前が隣にいるだけで、胸が落ち着く」
しばらく二人は、言葉よりも互いの存在を感じながら歩き続けた。小径の花々に手をかざし、月明かりに影を映しながら。触れなくても、肩越しに伝わる体温、同じ歩幅で歩くリズム、それだけで十分だった。
やがて庭の端にたどり着く。滞在時間は短く、まだ互いに触れることもない。けれど、この夜の静かな時間が、二人の心の距離を確かに縮めた――
婚約破棄を経ても、二人の想いは静かに絡まり合い、未来への小さな準備を始めていた。




