第5話:触れられない心
月明かりに照らされた庭で、エリーナとセリオンは並んで歩いていた。
夜風に銀色の髪が揺れ、淡い紫のドレスの裾が石畳にそっと触れる。セリオンは少し距離を置きながらも、目は常に彼女に向けられていた。
「……今日は、楽しかったね」
エリーナの声は柔らかく、しかしどこか線を引いた落ち着きがある。自由を楽しむ表情の中にも、自分を守る強さがあった。
セリオンは微かに息を呑む。胸の奥で芽生えた感情――嫉妬や焦燥、守りたいという想い――が静かに渦巻く。
「……ああ、楽しかった。でも……」
言葉を続ける前に、彼は足を止め、少し視線を逸らした。
「でも……?」
エリーナはそっと彼を見上げる。その瞳には優しさと理解があるが、同時に揺るがない意志も宿っている。
「俺は……お前が楽しそうにしているのを見ると……胸が……」
言葉が途切れ、セリオンは拳を軽く握りしめる。感情が込み上げるが、簡単には口にできない。
「セリオン……」
エリーナは歩みを止め、彼との距離をほんのわずかに詰める。だが、その距離は触れるほどではない。
「あなたの気持ちは……わかっているつもり。でも、婚約破棄という言葉を出した以上、私たちはすぐに元に戻れるわけじゃない」
セリオンは息を呑む。
「……そうか……でも、俺は……」
「でも、何?」
エリーナの問いに、彼は言葉を探す。目の前にいる彼女を前に、胸の内を全部さらけ出せないもどかしさが、さらに心を締めつける。
「……守りたい……お前を、今まで以上に」
その言葉は、婚約破棄を切り出した彼にしか出せない切実な想いだった。
エリーナは微笑むが、その微笑みは安心だけでなく、冷静な線引きを感じさせる。
「ありがとう……でも、まだ焦らないで。私たちは、ゆっくりでいいのよ」
二人はしばらく無言で歩く。月光の下、視線や仕草、呼吸だけで心を確かめ合う。触れることはまだないが、互いの存在を感じることで、心理的な距離は少しずつ縮まっていく。
この夜は、触れられないけれど確かな想いを共有した夜――二人の関係は、ゆっくりと動き始めたのだった。




