第10話 ――午前の陽の中で
昼下がりの陽光が、ヴァレンタイン邸の大理石の床に柔らかく反射していた。
執事に案内されて通された応接室には、季節の花が飾られ、静かな香りが漂っている。
エリーナはすでに座っていた。淡い桃色のドレスに身を包み、手には一冊の本を持っていたが、セリオンの足音に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
その仕草ひとつに、彼の胸は痛んだ。
「……久しいな、と言うのも妙だな。何度か顔を合わせているのに」
「そうね。妙に顔を合わせるものだから、久しいとも言いづらいわ」
柔らかく笑ったエリーナに、セリオンは少し視線を落とした。
この屋敷に来るたび、胸の奥に刺さるのは、あのとき自分が吐いた「婚約破棄」という言葉の重みだった。
彼女の前に立つと、セリオンは一呼吸置き、真っ直ぐに目を見た。
「エリーナ。……今日は、きちんと謝りに来た」
「謝罪、ね。もうあの話は終わったでしょう?」
「俺の中では、まだ終わっていないんだ」
低く落ち着いた声。だがその奥に、どこか不器用な熱があった。
「俺はあの時……自分でもどうかしていた。お前を手放したくなかった。
けれど、どうしても気持ちを整理できなくて……お前に止めてほしかったんだ」
セリオンの拳がわずかに震える。
エリーナは目を細め、静かに彼の言葉を待った。
「なのに、俺はそれをお前に言わなかった。……身勝手だったよな」
「ええ。少しだけね」
そう言って、エリーナはかすかに唇の端を上げる。
それは皮肉でも嘲りでもなく、どこか懐かしい微笑みだった。
「あなたがそうやって素直に話してくれる日が来るなんて、思ってなかったわ」
「俺も……こんな形で言うことになるとは、思ってなかった」
沈黙が落ちた。
外の庭では、風がバラの花を揺らしている。
カップの紅茶が冷めかけていることにも、二人は気づかない。
やがて、エリーナが静かに口を開いた。
「セリオン。あの時、私も本当は――止めてほしかったの。
けれど、あなたがああ言うなら、それを受け入れるのが礼儀だと思ったの」
セリオンはゆっくりと顔を上げた。
エリーナの瞳は、どこまでも穏やかで、それでいて寂しげに光っていた。
「……俺たち、似た者同士だな」
「そうね。どちらも素直じゃない」
二人の間に、やわらかな笑いが落ちた。
けれどその笑いには、ほんの少しの痛みが混じっている。
セリオンはテーブルの上に置かれたティーカップを手に取り、ひと口含んだ。
温度はもうほとんど失われていたが、その味は、なぜか懐かしく感じた。
「……もう少しだけ、こうしていてもいいか?」
「紅茶が冷めるわよ」
「それでもいい」
彼の穏やかな声に、エリーナはわずかに息を詰め、視線をそらした。
胸の奥に、もう一度火が灯るような感覚が広がっていく。
――簡単には戻れない。
けれど、それでも。
少しずつ、少しずつ。
二人の距離は、確かに近づきつつあった。




