後悔する婚約破棄
朝日が柔らかく降り注ぐ、ヴァレンタイン家の広大な邸宅の書斎。大理石の床に映る光が、豪奢な家具と調度品を淡く照らす。
侯爵令嬢エリーナ・ヴァレンタインは、銀色の長い髪を肩まで緩やかに流し、深い緑の瞳で書斎を見渡す。淡いピンクのドレスは白い肌に映え、まるで絵画の一部のような華やかさ。侯爵家という地位の高さ、彼女自身の気高さと才色兼備ぶりで、都の社交界でも一目置かれる存在だった。
その邸宅に立つのは、王族直属公爵家の嫡男、セリオン・カーヴァル。栗色に近い金髪をきちんと整え、青い瞳に微かに影を宿す。都でも一目置かれる名門公爵家の嫡男として、社交界でも政治の場でも圧倒的な存在感を持つ。しかし、その胸の奥は乱れていた。
(……好きなのに……どうして自分から婚約破棄を言うんだ……。でも止めてほしいと願うのは、完璧な彼女の前では無理だ……)
重い沈黙の中、セリオンは口を開く。
「……エリーナ、私たちの婚約は、ここで破棄する」
書斎の空気が一瞬凍る。侯爵令嬢と公爵家嫡男の婚約破棄――その一言は、単なる恋愛問題ではなく、社交界や政治的にも波紋を呼ぶ重みを帯びていた。
だがエリーナは一瞬息を呑むと、自然に微笑む。
「まあ、そうですか……喜んで応じますわ」
その答えに、セリオンの青い瞳が大きく見開かれる。侯爵令嬢が婚約破棄を「喜ぶ」など、誰も想像できない。
「……は?」
「ええ。もうこの婚約は私にとって重荷でしかありませんでしたもの。貴方と結ばれる義務感など、まったく無意味ですわ」
エリーナはゆっくりと歩み寄り、セリオンの目の前で立ち止まる。その姿勢、優雅な動作、揺るがぬ視線――侯爵令嬢でありながら、都の社交界でも堂々と渡り合える気高さを備えていた。
「ですが、婚約破棄の理由くらいは聞かせていただけますか?
私の何が貴方にとって耐えがたかったのか、非常に興味がありますの」
セリオンは唇を噛む。胸の奥で葛藤が渦巻く。
(言ったのは俺だ……でも、止めてほしい……!)
「そ、それは……お前の……気高さが、俺には重すぎる、とでもいうか……」
エリーナはくすりと笑った。その笑みには皮肉と称賛が混ざり、侯爵令嬢としての威厳と個人としての魅力が同時に現れる。
「ほほう。なるほど、私の価値が重荷ですって? 嬉しいお褒めの言葉ですわね」
書斎にいる侍女や執事たちは息を呑む。婚約破棄に泣き崩れるどころか、堂々と喜ぶ侯爵令嬢など誰も見たことがない。
「ですから、これからはお互いに自由ということで――
私はもう、貴方の求めに応じる必要はありませんし、貴方も私の足枷を外してもらえた。実に、すばらしい解放ですわ」
セリオンの胸は張り裂けそうだった。好きだからこそ自分で手放してしまった罪悪感と、止めてほしい願望――その両方が同時に押し寄せる。
「……だが、エリーナ、俺は……」
「ご安心ください。私に心配など無用ですわ」
エリーナの瞳は自由そのものの輝きを放つ。侯爵令嬢としての誇りと、個としての自由を兼ね備えたその瞳に、セリオンはただ立ち尽くすしかなかった。
「……なるほど。お前、単なる公女じゃないな……」
「ええ、その通りですわ。私はエリーナ・ヴァレンタイン、自由で華麗に生きる者ですから」
後ろ姿には誇らしげな光が宿る。セリオンの心は痛みと期待で揺れた。止めてほしかった自分の願いは叶わなかったが、二人の物語は静かに幕を開けた――自由と誇りに満ちた新たな日々の始まりだった。
勝手に婚約破棄されましたが喜んで応じます
長編バージョンです




