第9話 白い布が揺れる村
畑の端に並ぶ支柱に、豆の蔓が絡んでいる。用水は浅く、静かに流れる。背の低い木柵の向こうに、藁葺きと板葺きの屋根が交互に見えた。
軒先には白い布がいくつも下がっていて、風に揺れている。包帯だ、と気づくまでに一呼吸いった。
「……ここが、リベラ」
言葉にしてみると、胸の奥で何かがひとつ落ち着く。けれど同時に、皮膚の上に薄いざわめきも残った。
「匂い、濃いね」セイルが小声で言う。「汗と軟膏と……鉄が少し」
井戸の脇では老婆が桶を洗っていて、その手つきはやけに早い。店先の棚には小瓶が並ぶ。ポーション、というより外用薬ばかりが目立つ。よく出るのか、値札の角がわずかに丸くなっていた。
「——よそからかい?」
背後から、落ち着いた声。振り返ると、二十代の半ばくらいの男が立っていた。汗で前髪が額にはりついている。働き者の手だ。けれど、目は私たちの装備を手早く見て、それからほんのわずかに柔らいだ。
「アンタらも、指導を受けに来た口か?」
敵意はない。好奇心と、わずかな警戒。私は一呼吸おいて答える。
「受けるかはまだ決めてません。話を聞ければと思って」
「なるほどね」
男は腕を組んで、村の奥を一度だけ見やる。
「ここ一年、ちらほら増えたんだよ。ギルドからの紹介だってのもいるし、風の噂で来るのもいる。若いのが多いな」
言われて見回す。柵の外の土は新しい足跡で細かく押しならされて、背丈の低い歩幅がいくつも重なっている。店先には補修用の矢羽や革紐の束。井戸端の物干しには汗の塩を浮かせた布が並び、どれも小ぶりだ。
つまり、ここへ来る“若い足”と、ここから出ていく“若い背中”が、毎日往復している。その痕が景色の端々に残っていた。
「今日も朝から——いや、さっきか。最近指導を受け始めた連中が、村はずれでゴブリンをやっつけたって話でさ」
その言葉に、胸の中で小さく結び目がきゅっと締まる。思い出したのは、街道で会った三人の顔。震えが風に乗って伝わってきた気配。
「ゴブリン……」
セイルが私の横で、ごく小さく繰り返した。私は男に向き直る。
「……その冒険者たちのパーティー名、わかりますか?」
「名前か? えーと……」
男は眉間にうっすら皺を寄せる。
「たしか、始まりの……なんだっけ。剣。そう、『始まりの剣』って言ってた気がするな」
胸の奥の結び目が、もうひとつ固くなる。顔には出さない。出さない方が、今はいい。
「彼ら、若いのに、よくやるよ。血の気が多いわけでもないのに……あんな傷だらけになってまでさ」
男は苦笑いした。苦笑いの奥に、迷いが透ける。
「その……指導って、どこでやってるんですか?」ガルドが尋ねる。
「……村の外だよ。だから、詳しくは俺も分からん。朝も、昼も、暗くなる前も、走ってる背中はよく見る」
男の目はどこか泳ぐ。それも、ほんの一瞬。見逃すほどの短さ。私は胸のざわめきを、その短さに合わせてたたんだ。
「この後の予定は決まってるのか?」
「まずは宿と、村を見て回って……話を聞いてみようかと」
「あぁ、それがいい」
男は頷いた。頷き方が、わずかに深い。説得ではなく、確認に近い。
「ギルドの小屋は柵の内側、左手の二軒目。宿はその向かいの『白鷺亭』。飯はまあまあ、女将は口は悪いが腕はいい。刀傷の手当ては井戸の向かいの婆さんが上手い。……ああ、ポーションは高いから、使うなら計画的にな」
「助かる」
テオが短く礼を言い、私は頭を下げた。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
「なんだ?」
「——この村の人たちは、みんな、指導に賛成なんでしょうか」
自分で口にしながら、これは踏み込みすぎかもしれないと思う。けれど、男はわずかに目を細めて、視線を空へ持っていった。
「賛成、反対って言葉で割り切れるほど、この村はでかくないさ」
言ってから、彼は肩をすくめた。
「モンスターの被害が減ったって話もある。ドブ掃除を手伝ってくれる若いのが増えたって喜ぶやつもいる。けど、夜に眠れなくなったってやつもいる。指導を受けてる子たちの……あの必死な声が耳から離れんって……」
胸の内側が、ゆっくり縮む。耳の奥で、乾いた呼吸の音を想像してしまう。あのとき彼らが助かったのは確かでも、その奥に残る“張りつめ”はきっと消えていない。
「俺は助かってる方だ。ここが安全になるのは、ありがたい。だからって、全部が正しいのかは、俺には分からん」
真っ直ぐな言い方だった。私はゆっくりと息を吐き出す。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「いや。俺も、外から来た目で見たこと、いつか聞かせてくれ」
「……はい」
男は軽く手を上げて、井戸の方へ戻っていった。桶の音がまた始まる。さっきよりわずかに、力が抜けて聞こえた。
短い沈黙が落ちる。村の音が、層になって耳に入る。走る足音、軒先でスープをかき混ぜる音、遠くで木槌を打つ音。そのどれもが普通で、どれもが少しだけ、背中に力を入れさせる。
◇
「……“始まりの剣”、間違いないね」
セイルの言葉に、私は頷いた。
「うん。彼らは指導を受けている」
「さっきのゴブリンの話……多分俺たちが渡したやつだよな」ガルドが低く言う。
尻尾が一度だけ揺れ、すぐ静まる。
「役に立ったのは良かった。だが——」
「“役に立つ”が、誰のどこに向いたか」
テオが続ける。淡々としているが、目はわずかに細い。
「……ねえ」
私は息を整えてから口を開いた。
「街道で会ったときの顔、あれは“実績が欲しい”顔には見えなかったんだ……嬉しさより、間に合わせなきゃって焦りが勝ってた」
「追われてる足だったな」ガルドが小さく頷く。
「誰かに、か、何かに」
「風も急いでたよ」セイルが目を細める。
「自分の呼吸だけで走ってる感じじゃなかった」
「彼ら自身の事情……」私は言葉を探し、結び直すように続けた。
「……あるいは、誰かの事情を押し付けられているのかも」
「可能性はある」テオが短く言う。
「“裁量”が外にあるなら、焦りは消えない」
「……まずは見よう。聞こう。決めつけないで」私は息を整えながら言った。
胸のざわめきは消えない。けれど、形がわかれば結び直せる。
「段取りは?」とガルド。
「白鷺亭で部屋を取る。荷物を置いたら、ギルド小屋に顔を出して、村の決まりを確認。薬屋で相場と品揃えを聞く。……井戸のあたりでも、少しだけ話を拾えるかもしれない」
「了解」セイルが頷く。
「分散して回る?」テオが簡潔に問う。
「最初は四人で。目線を揃えたい」私は答えた。
気づけば奥歯に力が入っていた。視界の隅の白い布が、必要以上にまぶしく見える。落ち着いて、と自分に合図を送っても、頬の内側はまだ固いままだった。
「ミナ」ガルドが小さく呼ぶ。
「なに?」
「顔、強ばってる」
「……そう?」
「大丈夫だ。走らなくていい。歩いて見ればいい」
その言葉に、肩の力が少し抜けた。私は笑ってみせる。作りものじゃない笑いが、ちゃんと出た。
「ありがと。行こう」
門柱の影が足もとを横切る。風は湿っている。けれど冷たくはない。柵の内側は狭いのに、空は広く見えた。
看板に「白鷺亭」の字を見つけ、私たちは歩き出した。声は大きくない。けれど、それで十分だ。
軒先の白い布の余白が風で揺れる。
——ここで、何が“支え”で、何が“重し”なのか。それはまだ、今の私たちにはわからなかった。
第10話は、本日の20時に投稿予定です。




