第8話 揺れる草むら、揺れる心
南へ下るほど緑が濃くなり、野草の背が少しずつ高くなる。小川の流れが緩み、石橋の苔は厚みを増す。
「空気、少し湿ってきたね」
セイルが髪を耳の後ろへ払う。
「土の粒が細かい。靴底の減り方、変わる」
テオは足元を見て、さっと判断を置く。
「匂いも濃い。獣の気配が重なる前の匂いだ」
ガルドの耳が一度だけ立ち、すぐ戻る。
「この先、リベラの畑が見えるはず——」
「待て」
ガルドがぴたりと止まり、低く短く言う。私たちも歩を止める。ガルドの視線の先、膝の高さまで草木が生い茂ってる帯が揺れた。
「……右、手前。三」
セイルが囁く。風が教えているのだと思う。
次の瞬間、茂みから三つの影が飛び出した。緑色の肌、黄色い歯。ギラギラとした瞳。
冒険者にとっての最初の壁と言われているゴブリン。
それが三体。一体は槍、一体は石を詰めた袋、もう一体は錆びた刃物を持っている。
ガルドが一歩前に出て、私は彼の足元に“返し”の結び目を置いた。セイルは矢羽を指で弾き、弦が一度鳴る。テオも腰袋に手を当て、いつでも道具を取り出せるようにしている。——準備完了。
槍のゴブリンが低く突っ込んでくる。ガルドは身体を半身に捻り、視界を塞がない角度のまま、槍の軸を前腕で流す。
「ガルド、態勢を崩して隙をつくる」
私はガルドへ再び襲い掛かろうとしているゴブリンの足元に“返し”の結び目とは反対の“緩み”の結び目を置く。多くの生き物は、想定した事象と異なる事象に遭遇したとき、簡単に崩れ、動揺する。
踏みしめた地面が、突然先ほどより深く沈み込んだことに焦って態勢が崩れ、槍の突きは地面へと突き刺さる。
「ナイスだミナ」
その顔目掛けてガルドの膝が入る。前歯が音を立てて砕け、槍を握っていた手から完全に力が抜けた。
「残りの右の二体、警戒してるね」
セイルの声。石袋のゴブリンが腕を振り上げ、威嚇するようにこちらを睨みつけ、もう一体は刃を低く構えて様子を伺っている。
「痺れ袋、投げる。ミナ、届く輪、頼む」
テオが腰の袋から小さな布包みを取り出した。乾かした痺れ草の粉を詰めた即席の袋——彼はそれを痺れ袋と呼び、慣れた手つきで私に見せる。
「了解」
私は進路の空気に小さな結び目をふたつ置く。ひとつは投げ軌道を保つ支点、もうひとつは着地点のすぐ手前で粉を前に押し出す“押し”。風は弱い。流れは読める。
「今」
テオが痺れ袋を投げる。包みは結びに沿って伸び、二体の足元の真ん中で弾けた。淡い黄緑の粉がふわりと広がり、私は“押し”で霧を敵側へ寄せる。石袋の腕が鈍く止まり、刃の足運びがもつれる。
「効いてる。二体とも痺れ」
テオが短く告げる。
「まかせろ」
ガルドが踏み出し、痺れに膝が抜けかけたゴブリンの懐に入り、鉤爪で手首を払って武器を落とさせ、そのまま肩口に一撃を落とす。体重が沈み、土が鈍く鳴った。
「セイル、そっちは頼んだ」
ガルドの声にセイルが短く答える。
「うん」
セイルは弓ではなく腿の鞘から短剣を抜いた。痺れで隙を晒した背へ静かに回り込み、呼吸の合間を一拍だけ待つと、肋骨の隙間へ短く真っ直ぐ突き入れる。
刃は深く刺さらず、必要十分の深さで止まる。そのまま沈むように倒れた。
私は一度、周囲に感覚の輪を広げる。音、匂い、風、変化なし。
「終わったな」
ガルドが肩の力を抜き、セイルが短剣の血を布で拭って鞘に収める。テオは痺れ袋の残りを仕舞い、散った粉の流れを目で追って安全を確かめた。胸の奥にさっきまであった緊張が静かに剥がれていく。
「セイル、短剣……前もいけるんだね」
私が言うと、セイルは少しだけ肩をすくめた。
「矢は有限だからね。明確な隙が見えた時はこっちを使うこともあるよ。風が“抜ける”って教えてくれる時は特に」
「判断、良かった。消耗、抑えられた」
テオが簡潔に頷く。
「なるほどな。前も後ろも“埋めた”経験が生きてるわけだ」
ガルドが笑い、尻尾が一度だけ揺れた。セイルは少し照れたように目を細める。
「……でも基本は弓。無理はしないよ」
「もちろん。無理は誰もさせない」
私は頷き、布を出す。
「証明、取ろうか」
耳を切り取り、布で包んで紐で結ぶ。鉄の匂いが短く立って、すぐ土に吸われた。
◇
「——すみません!」
前方から声。見上げれば、路の曲がり角の先に三人組の冒険者。服は泥で汚れ、肩当ては擦れてほつれ、ひとりは膝を軽く引きずっている。顔色は悪くないけれど、目の奥が急いでいる。
「危ないから、まずは止まって」
私は手のひらを見せる。三人はその場で足を止めた。息は上がっているが、敵意はない。
「ぼ、僕たち——始まりの剣っていうパーティです。僕はリオ、こっちがフェナ、こっちがバーン」
短く、でも礼は崩さない自己紹介。三人とも若い。装備の統一感がなく、袋の縫い目が新しい。
「余白の四人です。私はミナ」
私が言うと、三人の目が一瞬だけ揃って揺れた。まるで言葉を探すように彼らは視線を落とす。
「その……お願いが……あります」
フェナが一歩出て、深く頭を下げる。髪が土に触れそうで、ギリギリのところで止まる。
「ゴブリンの耳を……譲って、いただけませんか」
バーンが続ける。声は小さいが、切羽詰まっている。
「討伐報酬の二倍を出します。あの、手持ちを全部——で、でも必ず返すので……!」
リオは懐から袋を出そうとする。手が震えているのは、恐怖ではなく焦りに近い。セイルが一歩だけ前に出て、穏やかに言う。
「どうして、そんなに急いでるの?」
三人は顔を見合わせた。リオが口を開くが、言葉が続かない。
「……その、必要で。今すぐ、どうしても」
「事情は——」
フェナが言いかけて、唇を噛む。バーンは視線を地面に落としたまま、拳を握る。
私たちは短く目を交わす。言葉のない相談。でも、たしかに私たちはその一瞬で話し合っていた。
「君たちは、リベラで活動してる?」
私が訊ねると、三人はすぐに頷いた。
「はい……その……少し前に、リベラで冒険者になりました」
「うん、わかった」
私は結ばれた耳の包みを持ち上げる。紐の結び目を一つ解いて、布で包まれた右耳を三枚渡す。
「お金はいらない。その代わり——いつか、話せると思った時でいい。私たちに、君たちの話をしてほしい。私たちもリベラに少し滞在する予定だからさ。もちろん無理強いはしないよ」
三人は固まったように動きを止めた。視線が揃って、もう一度揺れる。リオは喉で音を鳴らし、フェナは拳をほどく。バーンが小さく、でもはっきり言った。
「……ありがとう……ございます」
フェナがもう一度深く頭を下げる。額が土に触れる前に、私は一歩寄って止めた。風が一枚、草を撫でる。
「急いでるんだね」
「……はい。すみません」
三人は袋を受け取り、紐を固く結ぶ。結ぶ手つきは慣れていない。
「気をつけて」
セイルが短く言う。ガルドは顎だけで頷く。
「……はい!」
三つの声が揃って、三人は足早に去っていく。まるで何かに追われているみたいに。
「はぁ……あの噂も、あながち間違ってない可能性が出てきたな」
ガルドは、小さいため息と共に言葉を吐き出す。
「震えが風に乗って、こっちまで伝わってきたよ」
セイルが空を見て言う。
「多分、限界が近いサイン」
テオが淡々と続く。
「うん……私たち、なんだか全くの無関係ではなくなっちゃったかもね」
言いながら、胸の奥がわずかにざわついた。言葉のやり取りも先ほどの数分のみ。共に戦ったわけでもない。けれど——確かにあの三人の震えや焦りを受け取ってしまった。それは結び目のようにほどけず、心に残り続けている。
「距離はもう少し。油断しないように行こう」
「了解」
「了解」
「了解」
風に揺れる草の匂いが濃くなり、視界の奥に畑の端が見え始める。
この道の向こうで、どんな答えが待っているのか——胸の奥のざわめきと期待を抱えたまま、私たちは歩みを止めなかった。
——リベラの村は、もう近い。




