第62話 内緒の顔
私は半歩だけ距離を取って振り返る。笑顔は作らない。手は自然に下げたまま、いつでも動ける位置に置く。
フードの男は、こちらの警戒に気づいたらしく、両手を軽く上げて見せた。
「待って、落ち着いて。剣も抜かないし、触りもしない。……怪しいものじゃない」
その言い方が逆に怪しい。
私は目を細めたまま返す。
「フードで顔を隠しているのに、“怪しくない”は無理があると思います……」
「うっ」
男が言葉に詰まった。少し困ったみたいに頭の後ろを掻く仕草。
「それは……そうなんだけどさ。今は、顔を出す方が面倒になるんだ」
「面倒、ですか」
私が一歩も近づかないのを見て、男はそれ以上詰めてこない。距離感が妙に“慣れている”。
⸻この人、追跡の動きも含めて、素人じゃない。
私は路地の外の音も確認する。衛兵の足音、被害者の女性の声、遠ざかる群衆。今の場に“第三者”が残っていないことを確かめてから、質問を投げた。
「……あなた。ナイトクルーの人間ですか?」
フードの下で男が瞬きを一つした。
「違う」
即答だった。迷いのない言い方。
男はゆっくりと両手をこちらへ向ける。手のひらではなく、手の甲。
「ほら。見て」
私は目だけで追う。
手の甲に印はない。手首も、袖を少し上げて見せる。そこにもない。
「たしかに……ないですね」
「……それで信じるの?」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「少なくとも、“今のところ”は大丈夫です」
⸻“今のところ”と付けたのは、相手を疑い続けたいからじゃない。ただ、確かめられることは、確かめてから進みたい。
「今のところ、って言い方」
男は苦笑したけれど、嫌そうではない。
「大胆なんだか、用心深いんだかわからないね」
「この街に来てから、より一層そうならざるを得なかったので」
私は視線を逸らさずに続ける。
「さっきの件……私の動きに気づいたと言いましたね。なぜ分かったんですか?」
「足の運びが、一瞬だけ変だった」
男は路地の石畳を指先で示す。
「滑ったわけでも、躓いたわけでもない。……まるで、“ほどけた”みたいに見えた」
私は内心で舌を巻く。鋭い観察眼、それと言葉選びも妙に正確だ。
「……なるほど」
その答えで、この男が“ただの通りすがり”ではないことが確定した。気づける目がある。
なら、私が聞くべきことは決まっていた。路地裏の空気を一度喉の奥で落ち着かせてから、私は話題を真っすぐ切り替えた。
「……ナイトクルーについて、何か知っていますか?」
男は少しだけ顎を引いた。
「どうしてそんなことを?」
当然の疑問だ。私は短く息を吸う。
「昨夜、見ました。夜税で店が踏みにじられるところを」
言葉を選びすぎると嘘になる。だから、率直に続ける。
「目の前で踏み躙られているのを見て……見過ごすことはできません」
男が、ふっと息を吐いた。笑いではない。
「称賛されたいからじゃなく?」
一瞬、胸の奥がちくりとした。疑われたというより、“そういう動機で動く人間”をこの人が何度も見てきたのだと分かったから。
だからこそ、私は迷わず言える。
「違います」
即答したつもりだったけれど、男はさらに踏み込んでくる。
「じゃあ、さっき⸻何も言わずに立ち去ろうとしたのはどうして?」
私は少しだけ眉を寄せた。
「……騒ぎを大きくしたくなかったので」
「それだけ?」
男の声が柔らかいのに刺さる。
そして、男は私の返事を待つ前に言った。
「あれは、僕一人の手柄じゃない」
胸の奥に、微かな引っかかり。
「君の助けがあったから、捕まえられた。……僕はそう思ってる」
私は否定しかけて言葉を止めた。
「でも、誰も気づかなかった」
何故か、その言葉には確かな重みがあった。
ただ“気づかない”ことが、こんなふうに責められる日が来るなんて思わなかった。
まるで、それ自体が罪みたいに……いや、違う。責められているんじゃない。問われているんだ。
「気づかないってことは、“なかったこと”になるのと同じだ」
フードの影から覗く目が、まっすぐこちらを射抜く。
「それは、嫌じゃないの?」
嫌、かどうか。
私は一瞬だけ考える。
「……嫌かどうか、で言えば」
私は言葉を選んだ。
「私は、知られなくていいです」
男が瞬きをした。
私は続ける。
「助けたことを誰かに認められたいわけではありません。私がしたかったのは、“取り返す”ことであって、“拍手”ではないので」
男が口を開きかけ、静かに閉じた。
私はさらに言う。
「あの女性が無事なら、それで私は十分です」
沈黙が落ちる。
男の吐息が、ほんの少しだけ熱を帯びた気がした。まるで、眩しいものを直視してしまった人が、目を細めたまま声を探すみたいに。
「……そっか」
小さな声。
けれど、そこに妙な熱があった。
「そういう答え、久しぶりに聞いた気がする」
男は少しだけ姿勢を整え、真面目な声に切り替える。
「分かった。ナイトクルーのこと、知ってる範囲で話す」
私は警戒を解かないまま頷く。
「……お願いします」
「その前に」
男は周囲を一度見回した。
路地の出口、屋根の影、窓。誰もいないことを再確認するように。
「僕の姿を見せる」
「……今さらですか」
「今さらだから、だよ」
男はフードの縁に指をかけた。
「一つだけ約束して。僕がここに居たことは、言わないで」
「……分かりました」
即答はできなかった。でも、この人は少なくとも今、私に敵意はない。敵意がない者に“わざわざ顔を見せる”のは、覚悟が要る。
彼はフードを外した。
街灯の薄い光が髪に落ちる。
金色の髪が風を拾って柔らかく揺れた。影の中でも分かる整った輪郭、澄んだ青い瞳。表通りの灯りの下に立てば、すぐに人目を集めてしまいそうな、目立つ“顔”。路地裏の湿った石畳や、さっきまでの騒ぎの余韻が、急に背景みたいに薄く見えるほど。
私は、つい⸻口から漏らした。
「……綺麗な顔ですね」
男が固まった。
次の瞬間、信じられないものを見るみたいに目を瞬かせる。
「……それだけ?」
「え?」
私としては、まず素直に出た感想を言っただけだった。むしろ、ここから何か警戒の言葉を続けるべきか迷っていたくらいで。
男は口元を押さえて、肩を震わせた。
「ほんとにそれだけ?」
「……はい?」
私がきょとんとしたままでいると、男はとうとう堪えきれなくなったみたいに笑った。
声を殺しているのに、楽しそうなのが分かる。堰が切れたみたいに呼吸が乱れている。
「……あの。何かおかしかったですか?」
私が真面目に聞くと、男は笑いながら首を振る。
「おかしくない。全然おかしくない。……ただ、そう来るとは思わなかっただけ」
「そう来る、とは」
「普通、もっとこう……ね?」
男はまだ笑いを残した声で言う。
「君、僕の顔を見て最初に出たのがそれなんだ」
私は少しだけ視線を泳がせた。
「その……失礼でしたか?」
「失礼じゃない」
男は笑いながら否定し、少しだけ息を整えた。
「じゃあ、自己紹介しようか」
フードを畳むように手に持ち、男は言った。
「アル。……ただのアルでいい」
「アルさん」
私は一歩だけ丁寧に頭を下げる。
「私は、余白の四人というパーティーのミナと申します」
「余白の四人の……ミナ」
アルはその名を、忘れないように確かめるみたいにゆっくり繰り返した。視線が一瞬だけ宙を泳ぎ、次の瞬間には私の顔に戻ってくる。
それは、頭の中の“引き出し”に、確実にしまい込むような仕草だった。




