第62話 フードの男
夜の尖った空気が引くと、港町は驚くほど素直な顔に戻る。
潮の匂いは同じなのに、昨日まで混じっていた“嫌なもの”が薄い。荷役の掛け声が飛び、木箱が滑り、馬車の車輪が石畳を叩く。朝の音は単純で、だからこそ人の生活がそのまま見える。
――昨日の影は、夜にだけ濃くなる。
そう思いながら、宿の一階で四人の顔を見回した。
「昨日見た限り、正面からは無理。まず情報」
私が言うと、ガルドが椅子の背に腕を回したまま頷く。
「なら聞き込みだ。港の筋、店の筋、宿の筋。どっからでも引っかけりゃ糸は出てくる」
セイルは湯気の立つ湯のみを両手で包み、目を伏せて考えるみたいに言った。
「見張りの癖、出入りの時間、出入口……点を増やそう。昨日の“赤い光が強くなるタイミング”も、他の人がどう言ってるか聞きたい」
テオは短く視線だけ上げた。
「印。帳場。倉。確認」
私は頷いた。
「じゃあ、手分けしよう」
指で机を軽く叩きながら割り振る。
「私は街中。聞き込みと空気感。普通の人たちが“夜税”をどう受け止めてるか拾う」
「俺は港と酒場」
ガルドは即答した。荒い情報は、あの人の得意分野だ。
「ぼくは宿と店。噂話の出どころ、辿ってみる」
セイルは穏やかに言うけど、こういう時のセイルはやたら鋭い。
テオは椅子から立った。
「行く」
行動が早い。
私は最後にまとめる。
「夕方、宿で合流。何かあったら無理しない」
ガルドが口の端だけ上げた。
「ああ、いつも通りだな」
「うん。いつも通り」
自分に言い聞かせるように言って、私は外へ出た。
◇
昼のエルナートは“普通”だ。
二、三階建ての建物が並び、干した洗濯物が風に揺れる。井戸端で話す人たちの声。魚屋の前に積まれた箱。パンを焼く匂い。潮と油の匂い。
だけど――目線だけが、昨日のまま残っている。
人が人を見る時、どこか一瞬だけ探る。見ないふりをするのが上手いというか、見ないふりを“覚えた”空気がある。
露店の前で足を止め、私は商品を眺めるふりをしながら耳を澄ませた。
「夜は早く閉めろよ」
「灯台の方は行くな」
はっきり言い切らない。語尾が飲まれる。誰かに見られている気がする、というより、見られている“前提”で話している。
私は一つ息を吐き、次の店へ向かおうと歩き出した。
その時だった。
「泥棒!」
女性の声が、人の流れを裂くように響いた。
次の瞬間、ひったくりらしい男が人混みを割って走ってきた。手には小さな布袋。肩をぶつけても振り向かない。逃げ慣れた足運びだ。
「待て」
その背後から別の影が追う。
フードを深く被った男。体格は細すぎず、走り方が無駄にブレない。街の人たちの間を縫うように駆けていく。
――ただの一般人じゃない。
そう感じるのと同時に、私の足も動いていた。
今の声は昨日の“普通でいろ”とは違う。
◇
ひったくりは細い路地へ逃げ込んだ。
石畳が湿っていて、昼でも影が濃い。壁の間を潮風が抜ける。人通りが減ると足音だけがやけに響いた。
フードの男が追い、私は少し遅れて路地へ入る。
距離はあるけれど、路地は直線じゃない。曲がる角で追いつける。
ひったくりが振り返る。
追う影を確認した瞬間に足が早くなった。
――速い。
正面から追いつくのは難しい。
私は息を整えながら足元に意識を落とした。
派手にはやらない。
“緩み”を一つだけ。
石畳の継ぎ目。そこに、ほんの小さく結び目を置く。
見えない糸をほどくように足運びのリズムを一瞬だけ乱す。
次の瞬間。
「うわっ!」
ひったくりの足が滑ったわけじゃない。
けれど、踏み込みが“抜けた”。
体勢が崩れた拍子で膝が石畳に触れ、布袋が手から跳ねる。
フードの男が一気に距離を詰めた。
背後から腕を取り、逃げる方向を塞ぐ。その動きに無駄がない。
「離せっ!」
ひったくりが暴れるが、フードの男の手は外れない。押さえつけるというより、“逃げる選択肢”だけを消していく動きだった。
ほどなくして、路地の入口から足音が増える。
「何事だ!」
巡回の衛兵らしい二人が駆け込んできた。
フードの男は言葉少なに状況を伝え、ひったくりを引き渡す。衛兵も手慣れていて、縄で手首を固定した。
ひったくりの手から落ちた布袋を、フードの男が拾って女性の方へ戻す。
路地の入口には、さっき叫んだ女性が息を切らして立っていた。髪が乱れて、顔色が青い。
「これ、あなたのですよね?」
フードの男が袋を差し出す。
「あ、ありがとうございます……! 本当に……!」
女性は深々と頭を下げ、何度も礼を言った。
フードの男は軽く頷くだけで、それ以上は求めない。
誰も、私の方は見ていない。
ひったくりが転んだ理由も、誰も探らない。
――それでいい。
私は胸の奥で小さく安堵した。
よかった。
私はそのまま、音を立てないように一歩引き、街へ戻ろうとした。
「……待って」
背後から落ち着いた声がした。
振り返ると、フードの男がこちらを見ていた。フードの影で表情は読みづらいけれど、目だけは真っ直ぐだ。
「今の、君だよね?」
私は一瞬だけ言葉を失った。
フードの男は続ける。
「足元が変だった。偶然じゃない」
――見てた。
しかも、気づいてる。
私はゆっくり息を吸い、相手の距離を測った。
赤灯台の影が頭をよぎる。
それとも……別?
私は、黙ってその男の方へ体を向けた。




