第61話 赤灯台の影
仕事を終えた人が帰っていく一方で、別の人が「これから」を始める。店の戸が閉まり、代わりに窓の灯りが一つずつ増えていく。酒場の入口が開き、潮の匂いに混じって油と煙と甘い香草の匂いが流れ出す。
人の目線も変わる。
夜が深くなるほど「誰がいるか」を見る目になる。視線が落ち着かなくなるというより、落ち着かせようとして逆に尖っていく。
「……で」
私は歩き出しながら言った。
「赤灯台裏。案内して」
「え、えぇ……」
リーダーが喉を鳴らす。声を出した瞬間、テオの手がほんの少しだけ強くなるのが分かった。
「道、間違えないでね」
セイルがにこにこしたまま追い打ちする。笑顔なのに、目がぜんぜん笑っていない。
「間違えたら、どうなるんだ?」
ガルドが平然と聞く。冗談みたいな口調なのに、冗談に聞こえない。
三人組が同時にびくっとした。
「ま、間違えないっす!」
中肉中背が先に答える。リーダーが慌てて頷き、大男が「うん!」と大きく頷いてから、しまったという顔をした。
私たちはそのまま三人の後をついていく。
港の大通りを外れて、少し細い路地へ。石畳の目地に潮がしみて、靴底が微かに吸いつく。昼間よりも匂いが濃い。魚と油と、濡れた木材と、どこかの台所の煮込みの匂い。
「な、なぁ……」
大男が振り返りかける。
ガルドが肩を押さえたまま低い声で言った。
「前見て歩け」
「……はい」
少し歩いて、通りの灯りがまばらになったところで、リーダーが小声で言った。
「……ナイトクルーには……近づかねぇ方がいい」
「なら、なんで近づいたの」
私が返すとリーダーの首が縮んだ。
「……あれは……真似しただけで……」
「本物は……見張りもいるっす」
中肉中背が、早口で補足する。
「見張りっていうか、普通に立ってるだけなんすけど……目が合うと、終わりっす。港の人間に見えるのに、港の人間じゃない目してる」
「港の人間に見える?」
セイルが首を傾げる。
「作業着とか、縄とか、手袋とか……。あいつら、紛れてるっす。だから余計に怖い」
大男が震える声で付け足す。
「俺ら、実はもう……すれ違ったかもしれない」
その言い方が、嫌に現実的だった。
私は歩きながら港の灯りを横目で見た。夕方に見た“普通”の顔が、夜になると別の顔を持つ。そんな街は、きっとどこにでもある。けれど、目の前で生活を踏みにじられたばかりの今は、その「どこにでもある」が妙に腹に落ちない。
路地を二つ曲がったところでリーダーが自信ありげに言った。
「赤灯台なんて港の目印だ。誰でも知ってる」
言いながら足が止まる。
左右を見比べる。
さらに奥を見て、もう一回左右。
しばらく、沈黙。
私は内心で「方向音痴?」と呟いた。
ガルドがその沈黙を拾ったのか、あくびみたいに言った。
「おい、迷ってるんじゃねぇか?嘘ついたら沈めるぞ」
「うそじゃねぇ!」
リーダーが裏返った声を出す。
「うそじゃねぇけど……その……道が……似てんだよ!」
中肉中背が泣きそうな顔でリーダーの袖を引く。
「兄貴、今、そういうこと言わない方が……」
リーダーの顔が赤くなる。
「うるせぇ! 事実だろうが!」
セイルが微笑んだまま穏やかに言った。
「道……間違えないでね」
「分かってる!」
リーダーは必死に前を指差し、ようやく歩き出した。
しばらくして視界が開ける。
港の灯りの列の先、少し高いところから見下ろす形で、赤い灯台が見えた。
光が一定の間隔で回っている。赤い輪が夜の空気を切り取って海の上をなぞり、港の端をなで、また戻る。
灯台の裏側——その方向だけ人影が濃い。はっきり見えないのに、いるのが分かる。暗がりに沈んでいる倉のあたりに静かな動きが集まっている。
「……ここまで」
私は足を止めた。
「ここから先は来なくていいよ」
「え、置いてくの?」
中肉中背が思わず声を上げた。すぐに口を押さえる。大男も「えっ」と小さく漏らす。リーダーは強がる顔を作ろうとして、作りきれなかった。
ガルドが短く言った。
「むしろ帰れ。巻き込まれる」
「でも……」
リーダーが言いかける。
私は息を吐いて、真っすぐ見た。
「もう、こんなことしないで」
リーダーの目が揺れた。
「次に誰かを選んで踏むなら、今度は守らない」
脅しじゃなく、線引きとして言ったつもりだった。三人組は気まずそうに頷く。自分たちが何をしたのか、その全部が顔に出ている。
去り際に中肉中背が思い出したみたいに小声で言った。
「……見張りの合図、指笛っす」
「指笛?」
セイルが聞き返す。
「短く一回。で、離れてるやつが返す。……合図の返しが早いんす。目線も、回ってる」
大男が続ける。
「出入りは……灯台の光が、一回だけ強くなる時に増える。……あれ、たぶん合図」
「灯りが一回強くなるタイミング」
私はその言葉を頭に刻んだ。
リーダーが最後に、震える声で言う。
「……見つかったら……どうなるか……」
「だから、帰れ」
ガルドが押し返すように言った。
三人組は何度も振り返りながら、暗い路地へ消えていった。
残ったのは、赤い光と、潮の匂いと、遠くの足音。
◇
私たちは物陰に身を寄せた。
積み木みたいに積まれた木箱の陰。灯台の光が回るたび、影が伸びて、縮んで、形を変える。
灯台裏の倉の前には人がいる。
それは、想像していたよりずっと多い。
二、三人じゃない。荷運びをしている者、入口で立っている者、少し離れた場所で歩き回っている者。作業着に紛れて、港の一部みたいな顔で動いている。
でも、目線のリレーがある。
一人が見て、別の一人が受け取る。死角に立つ位置が決まっている。人の流れを自然に分断する立ち方をしている。
指笛が短く鳴った。
すぐに少し離れた場所で、返しの指笛。
音は小さいのに、やり取りは鮮やかで無駄がない。
テオがぽつりと言った。
「……訓練、されてる」
その一言が妙に重い。
出入りは、灯台の光が回って、赤い輪が倉の壁をなでた直後に増えた。
一瞬だけ灯りが強くなる。確かに、ほんの少しだけ世界が赤くなる。
そのタイミングで、荷が運び込まれる。人が入る。人が出る。
“夜税”は、現場の一部だ。
裏に流れがある。港を回す流れとは別の、夜の流れが。
——このままぶつかるのは……違う。
見張りの人数。動きの統率。出入りの規模。
今ここで踏み込んだら、こちらが「何も知らない」まま飲まれる。
ガルドが息を吐いて、低い声で言った。
「……正面からぶつかるのは得策じゃねぇな」
「うん」
セイルが小さく頷く。
「出入口、複数ある。見張りもいる。今は情報が足りない」
その口調が、船酔いしていた人と同じとは思えないくらい落ち着いている。
テオが短く切った。
「規模大きい。無茶、ダメ」
私は小さく息を吐いた。
「今夜は……踏み込まない。まず筋」
ガルドが口の端だけ上げる。
「筋、ね」
「うん。筋」
自分に言い聞かせるみたいに繰り返した。
その時、セイルが小声で言う。
「……今日、吐かなかった。えらい」
「じゃあ、確かめてやろうか?」
ガルドが即座にセイルを揺らそうと手を伸ばす。
「ちょっ、それは話が違うから!」
私は思わず口元を押さえた。笑うと、気配が漏れそうだったから。
「静かにして。聞こえる」
私が囁くと、セイルが「はーい」と口だけで返事する。
テオは無言で頷く。
赤灯台の光が回るたびに、倉の影が濃くなる気がした。




