第58話 港町エルナート
船が桟橋に横づけされる最後の揺れを足の裏で受け止める。
甲板を走る靴音、きしむロープ、滑車の軋む音。潮と魚と油の匂いが一気に濃くなって、荷役たちの怒鳴り声が飛び交う。
——ああ、ちゃんと着いたんだな。
そう思ったところで、すぐ足元からうめき声が上がった。
「……地面が、まだ揺れてる……」
振り向くと、セイルが甲板にへたりこんでいた。背中を柱に預けてぐったりしている姿は、ただの「酔った人」だ。
「……揺れてるのはたぶん、セイルの視界だけだよ」
「おい」
横から影が伸びて、がしっとセイルの肩をつかむ。
ガルドが心底楽しそうに口の端を上げていた。
「これ以上ない“地に足ついてねぇ顔”してんぞ、お前」
「……ぼくの頭蓋骨の中だけ、まだ外洋なんだってば……」
セイルはしおれた声で抗議する。
「じゃあしばらく船に置いてくか。エルナートの石畳は、お前にはまだ早ぇな」
「やめて、そのまま外洋に連れてかれる未来しか見えないから……」
テオが少し離れたところから、じっとセイルの顔色を観察していた。
「顔色、悪い。薬は要らない?」
「……今なに飲んでも出てくる気しかしないから、やめとく……」
「それもそう」
テオはあっさり引き下がる。心配しているのか、ただ観察しているのか、相変わらず読み取りづらい。
「ほら、立って。荷物だけでも降ろさないと」
私はセイルの腕をつかんで引き上げる。
「うぅ……地面、頼むから逃げないで……」
「逃げないから安心して」
四人でタラップを降りると、港の喧噪が一気に近づいた。
石と木が継ぎはぎになった桟橋。滑車で荷箱を上げ下ろししている男たち。香辛料を詰めた袋から立ちのぼるスパイスの匂いと、干物を並べた箱の生臭さ、オイルに浸かった予備ロープの、鼻の奥に残る油臭さ。
いかにも「よくある交易港」という景色が目の前いっぱいに広がっていた。
フィオーレとは、まったく違う匂いがした。
◇
港を離れて、四人で街の中へと歩き出す。
石畳の大通りがまっすぐ伸びていて、その両側に二、三階建ての建物が並んでいた。石の土台に木の壁。どの家も似たような材質なのに、窓の形や看板の色でそれぞれ少しずつ違う顔をしている。
一階には雑貨屋、酒場、布屋、道具屋。二階より上は、洗濯物が干されている住居。
荷車を押す男たち、買い物袋を抱えた主婦、走り回る子どもたち。書類束を胸に抱えて早足で歩く人、昼間から店の前で酒をあおっている人。
どれも特に統一された「美」も「異様さ」もない。
……普通だ。
誰も同じ方向を見ていないし、誰も同じ服を着ていないし、誰も鎖も小瓶もぶら下げていない。
“普通の街”って、逆にこんなに情報量が多かったっけ。
「……なんか……」
隣でセイルが、まだ少しふらつきながら周りを見回していた。
「体調が悪いとかじゃなくて、視界が“平凡”すぎて不安になってきた……」
「贅沢な不安だな」
ガルドが鼻で笑う。
「普通の街に文句つけられる冒険者、あんまりいねぇぞ」
「フィオーレ、特殊事例」
テオが短く言う。
「あれ基準で見たら、だいたいどこも“普通”」
「まあ、そうなんだけどね」
私は苦笑する。
前の街のあれこれは、基準としてはだいぶおかしい。おかしいんだけど——いざ「普通」を目の前にすると、妙に落ち着かないのも確かだった。
通りの角に小さな屋台が出ている。
「お、屋台だ。何売ってるんだろ」
セイルがふらふらしながら近づくと、木の台の上には湯気の立つ鍋と、焼き目のついたパンが並んでいた。
「あったかいパンと、普通のスープだよ」
店主のおじさんが、にこにこと笑う。
「安心して、なんの変哲もないから」
……逆に怖いんだけど。
「“普通”をそんなに推してくる人、初めて見ましたよ」
思わず口から漏れた私の感想に、おじさんは「え?」と首を傾げる。
「ん? 旅人さんは、変わったもん探しに来た口かい? 悪いこと言わないから、エルナートじゃ“普通”でいなさいな。その方が長生きできる」
さらっと物騒なことを言われて、言葉に詰まる。
「……普通ってなんだろうね」
湯気越しに鍋を覗き込みながら、セイルがぼそっとつぶやく。船酔いでぼやけた目のまま、今度は概念の方に酔い始めている。
「いきなり哲学始めんな」
ガルドが肩をすくめる。
「腹減ってるなら一杯もらえ。普通だろうがなんだろうが、温かい飯は裏切らねぇ」
結局、スープとパンを一つずつ買って、四人で分け合いながら歩き出した。
素朴な味のスープは、本当に「普通」で、だからこそ妙においしかった。
◇
「まずは宿でも決める?」
セイルが地図を折りたたみながら言う。さっきより顔色はだいぶマシになってきた。
「そのあとで、情報収集」
「まずは腹、落ち着かせてからだな。宿でも飯でもいい、腰下ろしてから考えようぜ」
「宿、静かなところ、希望」
テオは短く要望だけ伝える。
私がそれぞれの意見をどうまとめようか声を出そうとした、その時だった。
「おっとっと」
前方から、やけに芝居がかった声が飛んできた。
「ここは通行料がかかる通りでしてねぇ、お嬢さん方」
視線を上げると、道の真ん中に三人組が立ちはだかっていた。
細身で口だけ達者そうな小柄な男性。背が高くてガタイはいいけど、目の焦点がちょっと怪しい大男。ちょっと小綺麗にしていて、場の空気を伺っている中肉中背。
——なんというか、「怪しい人たちです」って看板出して歩いてるみたいな三人組。
普通の街の“普通じゃないところ”、最初に出てくるのがこれってどうなんだろう。
いや、小悪党としてはこれ以上ないくらい普通かもしれないけど。
「見ねえ顔だな。旅人さんかい?」
小柄な男が口の端を上げた。
「この通りを安全に歩きたいなら、ちょっと協力してもらえると助かるんだけどよ」
「なぁ頭」
その横で、大男がひそひそ声のつもりで普通の音量でしゃべる。
「こいつら、強そうじゃねぇ?」
「おいバカ、それは心の中だけにしとけって言ってんだろ」
中肉中背が慌てて肘でつついた。
「お客さん、“ここらのやり方”ってのがあんのよ。初めにケチると、後で余計なトラブルになるぜ?」
セイルがまぶしそうに目を細める。
「……ごめん、通行料はまた今度にしてくれないかな。ぼくの三半規管が今それどころじゃない……」
よりにもよって、真っ先に出てくるのがそれなんだ——と、私は額を押さえた。相手のペースを崩しているとも言えるけど、たぶん本人は本気で「今それどころじゃない」と思っている。
「お前の事情、世界で一番どうでもいいだろそれ」
ガルドが呆れた声を出す。
「とにかく、歓迎イベントって事でいいのか?」
「歓迎って言い方やめてよ」
私は小声でツッコむ。歓迎どころか、前の街の「歓迎されないイベント」を思い出して、胃のあたりがひやりとする。あれと同じ規模の厄介ごとじゃないことを心のどこかで祈った。
テオは一歩だけ前に出て、無言で距離を測っていた。まだ戦う空気ではないけれど、いつでも動ける位置。
「べつに大した額じゃねえって」
小柄な男が、わざとらしい善人ヅラで続ける。
「そうだな、その腰に巻いてる丈夫そうな袋と、それから、その横のちょっといい生地のポーチと……あとその飾りなんかも、いらねぇだろ?」
要求が一つ増えるごとに、男の目がわずかに輝きを増していく。最初は「通行料」だったはずの話が、気づけばこちらの持ち物チェックになっている。
「それ、大した額どころじゃないよね……」
セイルが小声でぼやく。
「うるせぇな」
チビが睨みつける。
「いいか? よそ者がこの街で歩きたいなら、最初にちゃんと筋を通すもんなんだよ」
筋、ねえ……。さっきから「普通」とか「ここらのやり方」とか、それっぽい言葉だけは一人前だ。どこの街にもいる、「曖昧な言葉で自分の都合を正当化する人」の典型。
私は一歩、三人に近づいた。
「ねぇ」
呼びかけると三人の視線が一斉にこちらを向く。
「この街の“普通のやり方”って、本当にそれ?」
ほんの一瞬、三人の表情が固まった。
「面倒くさい相手を引いた」という感情が、見事に三つの顔に同時に浮かぶ。
フィオーレとは違う形で、“この街の当たり前”にぶつかるのに——そう時間はかからなさそうだった。




