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第57話 鎖の鳴らない港から

 この街の朝の音は、いつの間にか「非常事態」から「生活」の方へ重心が傾いていた。


 工房の煙の匂いも、相談テントのざわめきも、最初は張りつめた警報みたいだったのに、今はパンを焼く音や、網を直す漁師の声と同じ列に並んでいる。


 マリーの服も、少しずつ街に混ざってきた。


「それ、よく似合ってるね」

「動きやすそうだね」


 それぞれの布と縫い目をまとった人が、すれ違いざまにそんな言葉を交わしている。首元にはまだ鎖が残っている人もいるけれど、レースの襟やリボンがその上に重なっていて、「それだけがすべて」じゃないことを主張していた。


 工房の前には、空になった調整液の瓶がきちんとまとめて積まれている。飲み切って、洗って、戻して——その繰り返しが、もう誰か一人の「決意」じゃなくて、この街の「習慣」になりつつあった。


 テオは街の薬師たちと何度も話し合って、レシピと注意点を書き残していく。


「ここまでは、自分たちだけで判断、だめ」


 そう言って、限界の線を何度も指差していた。


 ガルドに教わった青年たちは、今では工房と広場の荷運びや列の整理を当たり前の顔でこなしている。


「おっさん、そっちは任せろ」

「はいはい、押すな押すな!」


 少しの口の悪さも、見事に受け継がれていた。


 セイルの案内板と手引きは街のあちこちに貼られている。


「雫を減らすのが不安になったら、ここに」

「倒れそうになったら、遠慮なく座って」


 柔らかい字で書かれた矢印が、迷った人の足を自然とテントへ向かわせていた。


 ——まだ「安心」とまではいかない。それでも。


 私たちがいなくても、この街は自分の足で立とうとしている。


 そもそも私たちは冒険者で、この街に根を張りに来たわけじゃない。


 潮風を吸い込みながら、そんなことを考えた。



     ◇



「さてと。次は、どっちに行く?」


 宿の食堂の隅。擦り切れた地図をくるりと回しながら、セイルが顔を上げた。


 テーブルの上には、テオとセイルがかき集めた航路と街道のメモが広がっている。パンくずとインクと、旅の相談の匂い。


「西の沿岸をずっと回るルートもあるし……」


 セイルの指が、海沿いの線をなぞる。


「東の山を越えて内陸に入る手もある。けど……」


 指先が、ふいにある名前の上で止まった。


「ここ。交易都市エルナート


 地図の端、海のずっと向こう。いくつもの矢印と線が交差する場所。


「ここからだと、エルナート方面の船が一番出てるし、補給もしやすい。せっかくなら、海を渡りたいよね」


 セイルが楽しそうに言う。


「荷物と人が集まる街ってことは、飯も酒も情報も悪くねぇってことだ」


 ガルドが腕を組んでうなる。


「それに……」


 窓の外に目をやり、にやりと笑った。


「あっちなら、また知らねぇ景色が見れそうだ」


「エルナート、賛成」


 テオが短く言う。


「違う空気、必要」



 地図のその名前を見つめながら、私も息を吸う。


 この街で、雫と鎖の“当たり前”を見てしまったあとだからこそ、他の街の“当たり前”も、きっと前とは違って見える。


 でも、最初から「何かを変えに行く」つもりで向かうんじゃない。


 私たちは、あくまで旅人で、冒険者だ。


 知らない景色を見に行って、その街の人たちの話を聞いて——もしまた、ここみたいに誰かの「苦しい声」にぶつかったら、その時に考えればいい。


「じゃあ」


 セイルがペンを走らせる。


「エルナート行きの船を一本押さえちゃおうか。出航は……二日後くらいがちょうど良さそうだね」


「荷物は軽めにな」


 ガルドが口の端を上げる。


「どうせ途中で、また変なもん増える」


「工房と相談所の引き継ぎ、二日で終わらせる」


 テオが手帳を閉じる。


「こっち側の仕事は、ここまで」


「じゃあ私も」


 私は椅子から立ち上がる。


「話しそびれてる人たちに、ちゃんと挨拶しておかないとね」


 この街はもう、自分たちで「最初の一歩」を踏み出した。


 なら私たちは、まだ一歩目を踏み出していない、別のどこかへ——


 冒険者らしく、ただ、次の場所として向かうだけだ。




     ◇





 二日後の朝、私たちはいつもより少しだけ軽い荷物を背負って港へ向かった。


 服にはまだ工房の薬草と、屋敷のスープの匂いがかすかに残っている。この街で過ごした日々が、生地の繊維に染みこんでしまったみたいだ。


「ミナさん!」


 声に振り返ると、エレナさんが手を振りながら駆け寄ってきた。


 生成りのドレスの上に、海風避けの実用的な上着を羽織っている。あの日のステージの一着が、ちゃんと「日常仕様」になっていた。


「もう、行っちゃうのね」


「ええ」


 うなずくと、彼女は海の方を見てから、私たちに視線を戻した。


「ここから先は、私の海は自分で見てるから」


 くっきりとした目で笑う。


「あんたたちは、あんたたちの海を見つけておいで」


 その言い方が、なんだか母親みたいで、胸の奥がじんわり温かくなった。


「ミナちゃーん!」


 今度は粉まみれのエプロンドレス姿で、ルドミラさんが走ってくる。


「ほら、これ!」


 紙袋をどん、と押しつけられた。中には焼きたてのパンがぎゅうぎゅう詰まっている。


「船で食べて。変な薬なんかより、こっちの方がよっぽど元気出るから」


「ありがとうございます」


 心からそう言うと、彼女は鼻を鳴らした。


「次帰ってきたら、ちゃんとお代取るからね」


「はい、その時はちゃんと稼いで戻ってきます」


 笑い合っていると、小さな影が一つ近づいてきた。


「これ……」


 リナさんが、掌サイズの花束を差し出してくる。首元のリボンは、前よりも鎖をしっかり隠していた。


「戻ってきた時には、今よりもう少し鎖減らして待ってます」


「うん。じゃあ、その約束を楽しみにしてるね」


 手を振って別れ、私たちは港の先端へと進む。


 そこに、マリーが立っていた。


 仕立て屋のエプロン姿。でも、布の選び方や身につけ方に、以前より「自分の好み」がにじんでいる。顔を上げる角度も、少しだけ変わった気がした。


「……来たね」


「うん」


 私が答えると、マリーは「ちょっと待って」と言って、小さな包みを差し出した。


「これ」


 開くと、中には手作りの髪紐が入っていた。


 私のワンピースや、工房で使っていたエプロンの余り布で作られた細い布紐。何重にも縫い込まれていて、少し引っ張ったくらいじゃびくともしない。


「戦うときも、誰かの話を聞くときも」


 マリーが、少し照れ臭そうに視線をそらす。


「髪が邪魔だと困るでしょ。これを結んでるときくらい、自分のことも少しは整えてあげて」


「……うん」


 喉の奥がきゅっと詰まる。


 私はその場で髪を後ろでまとめ、髪紐をきゅっと結んだ。指先に伝わる縫い目の感触が、やけに頼もしい。


「どう?」


「似合ってる」


 マリーは、ほんの少し目を潤ませながら笑った。


 結び目を指でなぞぐと、そこだけほんの少し熱を帯びている気がする。

 

 この街で過ごした時間ごと、後ろからそっと背中を押されているみたいで、思わず背筋を伸ばした。





     ◇



 甲板では船員たちが縄を外し、最後の荷を積み込んでいる。波止場と船のあいだを行き来する掛け声に、私たちの靴音が混ざる。

 マストの影がゆっくり伸びて、港の石畳の上に四人分の影を並べていた。



「じゃあ、そろそろ——」


 船へと続くタラップに足をかけようとしたときだった。


「待ってください!」


 甲高い声が波音を突っ切って届いた。


 リサが息を切らせて走ってくる。もう側近ではなく、港に遅刻しそうな普通の女の子みたいな走り方だった。


「はぁ、はぁ……間に合った……」


 私たちの前まで来ると、彼女は深く頭を下げる。


「あの……今まで、たくさんの人を騙してきた側にいた私が、こんなふうに見送るのもおかしいかもしれませんけど……」


 肩が小さく震えている。


「それでも、言わせてください」


 一度、息を整えてから続けた。


「ごめんなさい。そして……ありがとうございました」


 「ごめんなさい」は、この街の人たちに向いていて。

 「ありがとう」は、私たちに向いているのが分かった。


「謝る相手は、きっと私たちだけじゃない」


 私はゆっくりと言葉を選ぶ。


「でも、それをちゃんと自分で選んで言いに行けるなら……それで十分だと思うよ」


「顔上げろ」


 ガルドが、ぼりぼりと頭をかきながら言う。


「下向いてちゃ、謝るのも感謝するのも半分しか届かねぇぞ」


 リサが、おそるおそる顔を上げる。


「……はい」


「それに」


 セイルが肩をすくめる。


「あの日ステージに立った時点で、君はもう“こっち側”の人だよ」


「こっち側……?」


「鎖を外すのに、震えながらでも一歩踏み出した側」


 それ以上、重たい言葉は乗せない。リサはきゅっと唇を結び、小さく「はい」とうなずいた。


 少し遅れて、ゆっくりとした足音が近づいてくる。


 アルミダだった。


 あの日のステージと同じように、飾りを落としたシンプルな服装。鎖のない首元が、潮風をまっすぐ受け止めている。


 彼女は私たちの前で立ち止まり、静かに頭を下げた。


「この街にしたことも、あなたたちを巻き込んだことも……どれだけ謝っても足りないと分かっています」


 顔を上げる。以前より少しだけ、表情の作り方を忘れたみたいな顔だった。


「それでも、あなたたちがいなければ、私はきっと一生、あの鎖を“正しいもの”だと思い込んでいた」


 一瞬だけ、視線がかすめる。


「だから……酷く身勝手な言葉だけれど」


 ほんの少しだけ、唇の端が揺れた。


「ありがとう」


「ここから先、どう見られるかは、この街の人たちが決めることです」


 私は穏やかに返す。


「でも、毎朝工房に来る姿を見ている人は、きっと増えていきますよ」


 アルミダは、意外そうに瞬きをしたあと、ふっと小さく笑った。


「次会うようなことがあれば」


 波の音に紛れそうな声で言う。


「もう少しだけ、あなたたちに胸を張って会える自分でいたいわ」


「じゃあ、その時のために」


 マリーがぽつりと言った。


「私も、針を持つのやめません」


 リサが一歩下がり、姿勢を正す。


「……いってらっしゃいませ」


 アルミダは「さよなら」とも「またどこかで」とも言わず、ただ深く一礼した。


 再会を約束しない。でも、完全に切り離すわけでもない。そんな距離感のまま、私たちはタラップを登っていく。




     ◇




 甲板に出て、私は最後尾で港を振り返った。


 鎖の鳴らない波止場は、まだ少しだけ不思議。


 それでも——そこにいる人たちの姿は、確かにこの街のものだった。


 エレナさんは生成りのドレスの上からショールを羽織り、波止場の端から手を振っている。


 ルドミラさんはエプロンドレス姿のまま、粉だらけの手でさっきの袋をぶんぶん振り回していた。


 リナさんは、小さな花を周囲の子どもたちに一本ずつ渡しながら、片手を高く掲げている。


 マリーは仕立て屋のエプロン姿で、私の髪に結ばれた髪紐を見て、小さく頷いた。


 リサは進行係の腕章をつけたまま、背筋を伸ばしてこちらを見ている。


 アルミダは鎖のない首元で、まっすぐこちらに向けて深い一礼をしていた。


 服も、立ち位置も、表情も。全部バラバラで、全部この街の“今”だった。


「見て」


 セイルが肘でつついてくる。


「最初に来たときと、全然違うね」


「ああ」


 ガルドが短く答える。


「どこ見ても、誰かが自分の仕事してる顔してやがる」


「記録には残せない数値、また増えた」


 テオが手帳をぱたんと閉じた。


 

 あの日のステージのように、揃わないまま並んでいる人たちの姿を見ていると——


 “綺麗に出来上がった街”じゃなくて、“綺麗になろうとしている街”の方が、今の私にはずっとまぶしく見える。


 船が波を切って離れていく。


 小さくなっていく港の輪郭と、それぞれの場所から手を振る人たち。


 その上を風が通り過ぎていく。新しい匂いを、遠くから少しだけ運んできた。


 ——次は、《エルナート》。


 マリーにもらった髪紐を、もう一度きゅっと結び直す。


 揃わないままの旅路を、もう少しだけ続けてみようと思った。

これにて第3章は完結となります。

ここまでお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございました。


次章となる第4章の投稿開始は《12月15日(月)》を予定しております。


それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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