第56話 揃っていない美しさが並ぶ日
工房の煙の匂いが、この街の朝にすっかり混ざりこんでいた。
港の潮、パン屋の香ばしい香り、その奥でかすかに薬草と火の匂い。最初は異物だったそれが、「今日も工房に火が点いている」という合図に変わっている。
——そして今日は、美の祭典二日目の日。
開催が決まった夜を思い出す。
テオ、司会役、街の代表者たち、医師たち、それからアルミダ。大きなテーブルを囲んで、調整液の生産量、相談所と避難所の受け入れ人数、緊急時の動ける医師の数……紙に並んだ数字を一つずつ確かめていった。
結論はぎりぎりだった。
広場の掲示板に「美の祭典・二日目 開催」と貼り出されたとき、街は不安と期待の入り混じったざわめきに包まれた。
「雫、半分まで減らしたから……行けるかな」
「今日は飲まずに来てみた。途中で辛くなったら、相談テント行きゃいいだろ」
そんな声を、朝の通りでもう一度聞く。
私は鏡の前で自分の服の裾をつまんだ。
着ているのは初日とは違う服。
マリーが二日目のために仕立ててくれた、落ち着いた色のワンピース。
あとは、会場へ行くだけ。
◇
ステージは初日と同じ場所なのに、空気はまるで違っていた。
照明、幕、客席——見た目は変わらないのに、今日は鎖の擦れる音が一つもしない。
代わりに聞こえてくるのは、咳払い、椅子の軋む音、緊張した笑い声。
司会役の女性がステージ中央に立ち、深々と頭を下げた。
「本日は、『美の祭典』二日目にお集まりいただき、ありがとうございます」
彼女はゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「延期のあの日から、工房が動き始めました。広場の相談所や、屋敷の避難所も、毎日誰かの夜を支えています」
「本当は、祭典なんてやっている場合じゃない、そう思われる方もいるでしょう」
一瞬、会場が揺れた。
「それでも——私たちは、この祭典を“揃えるための場”から、“揃っていないまま並ぶための場”に変えたいと思いました」
「鎖も、同じ化粧も、同じドレスも、もういりません」
「一人ひとりが選んだ服、一人ひとりの『こうありたい』を見せ合うための二日目です」
客席のあちこちで囁き声が上がる。
「本当に、鎖なしでいいのかな……」
「今日、雫飲まずに来た……顔、やつれてない?」
「ポケットに調整液入れてきた。具合悪くなったら、すぐ飲めばいいさ」
雫を減らして、少し痩せた頬に、それでも笑みを浮かべる人たちがいる。
——綺麗ごとに聞こえても、おかしくない宣言。でも、この数日間、吐いたり泣いたりしながら雫を減らしてきた人たちがここに立っているなら。
私は、今日の二日目を、綺麗ごとで終わらせたくないと思った。
◇
「では、小さなグループごとに、ステージに上がっていただきます」
司会の声に合わせて、子どもたちや家族連れが何組かステージに出ていく。笑顔もぎこちなさも、それぞれ違う。
そのあと——聞き覚えのある名前が呼ばれた。
「老漁師のエレナさん、パン屋のルドミラさん、花屋のリナさん……それから、『マリーさんの服』を着てくださっている皆さん」
客席がざわつく。
袖から見守る私の前で、エレナさんがゆっくりステージに出た。
生成りのドレス。母親の古い写真を元に、マリーが今の彼女の体に合わせて仕立て直した一着。
首元にはレースの襟だけ。鎖は見えない。背筋を伸ばした姿は、派手さよりも、何十年も海を見てきた人の強さを湛えていた。
「これは、母が結婚式で着たドレスを、マリーさんが“今の私に似合う形”に縫い直してくれた服です」
エレナさんは照明の中で微笑む。
「派手じゃないけれど、今の私にはこれがいちばん誇らしい」
同年代の女性たちから、「懐かしい」「綺麗」という声が新しい波のように広がった。
次に、パン屋の女将——ルドミラさん。
小麦色の肌に、動きやすいエプロンドレス。鎖は二つから一つに減り、その一本も布の陰に隠れている。
「朝、パンを捏ねるときに邪魔にならない服をお願いしました」
彼女は前を向いて笑う。
「これを着ていると、雫じゃなくて小麦粉の匂いで落ち着く自分を思い出せるんです」
三人目、花屋の娘——リナさん。
肩が楽なワンピースと薄いエプロン。そのあちこちに小さな花の刺繍。鎖はまだ残っているが、その上からマリーのリボンが首元で結ばれていた。
「鎖を全部外すのは、まだ怖いです」
リナさんは正直に口にする。
「でも、この服を着ると、『雫がなくても花を束ねられるかもしれない』って、少しだけ思えます」
客席のいくつもの喉が、ごくりと動いた。
ほかにも、「マリーの子ども服を覚えている」というお母さんや、「また服を頼める日を待っていた」という人が、短い言葉とともにステージに立っていく。
それぞれの服に、それぞれの生活の匂いが乗っていた。
『私にはこう生きたい毎日がある』という形が、布と縫い目になって揺れている。
——結局、“美しさ”って、服の形そのものじゃない。
誰に作ってもらったか。どんな気持ちで袖を通しているか。どんな一日を歩くために選んだか。
そういう時間が全部、縫い目に染みこんでいるものなんだろう。
「なお、今ステージに立っている方々の服は、すべてこの街の仕立て屋・マリーさんの手によるものです」
司会の一言で、客席からひときわ大きな拍手が起こった。
その拍手は、ステージの上の人たちだけじゃなく、袖で立ち尽くしている一人の仕立て屋へも届いている。
◇
表の祭典の裏で、日常はいつも通り続いていた。
広場の端では、相談テントが開いている。具合が悪くなった人は椅子に座り、医師が様子を見ている。
工房では、テオたちが無理のない本数だけ調整液を作り続けていた。火は落とさない。そのことが何より大事だと、みんな知っている。
ステージ袖では、マリーが衣装係として走り回っていた。
裾を踏みそうな人の服を直し、緩んだリボンを結び直し、落ちそうになったボタンを慌てて留める。
ステージから戻ってきた人たちが、「ありがとう」と頭を下げるたびに、マリーは戸惑ったように笑った。
でも、司会に名前を呼ばれたせいで、客席の視線を意識しているのが分かる。いつもの手際がほんの少しぎこちない。
「ねえ、マリー」
私はそっと声をかけた。
「……なに?」
「マリーも、出てみない?」
「えっ、私? 私は……縫う側だから」
いつもの言い訳をしようとした口が、途中で止まる。
そのタイミングで、ステージを終えた三人——エレナさんたちが袖に戻ってきた。
「マリーさん」
エレナさんがドレスの裾を押さえながら歩み寄る。
「こんな服を、もう一度着られる日が来るなんて思わなかったわ。あらためて、本当にありがとう」
「作ってくれた人の顔を、ステージからちゃんと見たかったです」
ルドミラさんが言い、リナさんが続ける。
「今度は、マリーさん自身がその服を着て立つところも、見てみたいです」
言葉だけ残して、三人は袖を離れていった。
マリーは、その場に立ち尽くしたまま、視線を足元に落とす。
「……出ても、いいのかな」
「いいに決まってるよ」
私は笑って答えた。
「だって今日は、“揃えるための日”じゃなくて、“揃っていないまま並ぶ日”なんだから」
「……そうだね」
マリーが小さく息を吐く。
少し離れたところで、リサが出番の人を案内していた。
「次の方、こちらです。段差、気をつけて」
出入りをさばきながら、時々ステージの方を見ている。その目は、以前アルミダの影に立っていた頃よりずっとよく動いていた。
「アルミダさんは?」
テオが短く答える。
「……もうすぐ、こっちに来る」
祭典のために工房を止めるんじゃなくて、工房を確かめてから祭典に来る。
——その順番を選んだことが、何より大きい。
そう思った時、控えめな足音が近づいてきた。
◇
「……ミナさん、マリーさん」
リサの声。
振り向くと、彼女の後ろに少し遠慮がちに立っているアルミダの姿があった。
以前のような宝石で塗り固めた姿ではない。
シンプルなラインの長めのドレス。街の色に馴染む深いグレーとワインレッドの間みたいな色で、光の当たり方によって表情が変わる生地。
メイクも控えめで、目の下のクマが完全には隠れきれていない。そのぶん、素顔の骨格と瞳の色がはっきり見えた。
髪は複雑なセットではなく、後ろでシニヨンにまとめている。顔周りだけ柔らかく下ろされた髪が、ほんの少し揺れている。
鎖は一切なく、耳元の小さなピアスと、胸元に一つだけ留められたブローチ。
——過剰な飾りじゃなくて、きっと自分で選んだ一点。
「……アルミダ様、ここです」
リサが、そっと声をかける。
「一緒に、ステージに立ってほしいんです」
アルミダは、足先に視線を落とし、かすれた声が漏れる。
「私に……ここに立つ資格なんて——」
その言葉と一緒に、指先がわずかに震えたのが見えた。今まで何百人もの前に立ってきたはずの人が、たった数歩ぶんの距離を怖がっている。
このまま袖の陰に隠れてしまう背中だけは、きっとあとから思い出したくないと思った。
「“選ぶ側”じゃなくて、“並ぶ側”としてなら」
私は言葉を挟んだ。
「ここにいてほしいです」
マリーも、覚悟を決めたみたいに口を開く。
「今日、このステージには……みんな、それぞれの想いを抱えて立っています」
彼女は自分のワンピースの裾をそっと握る。
「だから、その真ん中から逃げないでほしいです」
四人の立ち位置が、その一瞬で少しだけ変わった気がした。
敵と被害者、支配する側とされる側、という形から、「同じ列に並ぼうとしている人たち」の方へ。
そんな空気が、ほんのわずかに流れた。
「次は——」
司会の声がステージから届く。
「今日の祭典を支えてくれた人たちにも、ステージに上がっていただきたいと思います」
ざわめきが起こる。
「工房、相談所、そして今日の服を作ってくれた人たち——」
客席の視線が、一斉に袖のこちら側を向いた。
ガルドが顎をしゃくって笑う。
「ほら、出番だぞ」
セイルも、楽しそうに手を振る。
「行ってらっしゃい、“裏方代表”」
私は息を吸い込んで、一歩、足を前に出した。
ミナ。マリー。リサ。そしてアルミダ。
四人で、ゆっくりとステージへ歩み出す。
マリーは、自分の服を着ている人たちの間を通り抜けるたびに、胸がいっぱいになったみたいに表情を歪めていた。
リサは視線を正面に向けるのに精一杯で、それでも逃げずに歩いている。
アルミダは、以前の「女王の歩き方」とは違っていた。
歩幅は小さく、でも一歩一歩を自分で選んで踏みしめている。
ステージ中央で四人が横並びになる。
照明に照らされて浮かび上がったのは、統一感のあるシルエットじゃない。
丈も色も、布の質感も違う四つの輪郭が、ただそこに並んでいた。
「こちらが、今日の工房と相談所を支え、そして多くの衣装を作ってくださった皆さんです」
司会が簡単に紹介をして、そのあと視線をアルミダに向けた。
アルミダは、ほんの少しだけ目を閉じてから、一歩前に出た。
「……私は」
会場が静まり返る。
「これまで、この街の“美しさ”を、自分の都合で決めつけてきました」
そのままの声が意外と遠くまで届いていく。
「鎖も、雫も、私にとっては、『都合のいい街』を作るための道具でした」
客席のあちこちで息を呑む音がした。
「今日、ここに立つ資格は……本当はありません。許されるとも思っていません」
ひと呼吸置いて、彼女は続ける。
「でも——自分が壊したものから逃げたくないって……」
瞳が、まっすぐ客席を見た。
「……ここからどれだけ長くかかっても、私が傷つけたものを見届けるために、このステージに立たせてください」
静寂。
「まだ許せない」という、小さな声がどこかで漏れた。
それはきっと正しい感情だ。私だって、全部を簡単に流してしまえるわけじゃない。
それでも、誰も彼女をステージから追い出そうとはしなかった。
ぽつ、ぽつ、と控えめな拍手が聞こえる。
最初に手を叩いたのは、老漁師の妻——エレナさんだった。
その隣で、ルドミラさん、リナさんもそっと両手を合わせる。
その拍手が少しずつ周囲に広がっていく。
まだためらいが混じった拍手。でも、確かにそこにある音。
リサはアルミダの斜め後ろで小さく頭を下げていた。
私は横目でその横顔を見ながら思う。
——それでも、ここに立ったこと自体が、今のアルミダの“本当の美しさ”の一部なんだろう。
司会の合図で、四人は軽く一礼して、横並びのままステージ袖へ戻っていった。
「……立ってくださって、ありがとうございます」
袖に戻ったところで、リサが小さく言った。
「お礼を言う立場じゃないでしょう」
アルミダは自嘲するように息を吐く。
「ここから先、どれだけ嫌われても、工房に毎朝行くわ。それが、今の私にできることだから」
「じゃあ、私も」
マリーが短く言った。
「何度でも針を持ちます」
言葉はそれだけ。でも、その声の奥には、「あなたが毎朝そこに行くなら、私も毎晩ここで縫う」という意味が入りきらないくらい詰まっていた。
「……じゃあ」
私は笑って、三人を見回した。
「明日もまた、“走り続ける一日”だね」
それに誰も、反対はしなかった。
◇
「本日の締めくくりとして——」
司会の声が最後の空気を整える。
「今日ステージに上がった人のうち、体調に問題がない方だけで構いませんので、もう一度、前に出てきてください」
ざわめきと一緒に人々が立ち上がる。
子ども、おばあさん、若い女性、工房で働き始めた元モデル、エレナさん、ルドミラさん、リナさん。
マリー、リサ、アルミダ、そして私。
みんなが、無理のない位置で横一列……というより、ゆるい半円みたいな形に並ぶ。
背丈も服も、鎖の数も、完全にバラバラだ。
布の色も柄も、髪型も、みんな違う。
「今日の祭典は、誰が一番美しいかを決める場所ではありませんでした」
司会が、ゆっくりと言葉を置いていく。
「自分で選んだ服でここに立った——その事実を、今日の“二日目”として、この街の記憶に残したいと思います」
少しだけ声が震えた。
「来年、再来年、またここで並ぶ時」
司会は、ステージに並ぶ人たちを見渡す。
「今日より少しだけ身軽になっていられたら嬉しいです」
大きな花火も、派手な演出もない。
代わりにあったのは、長く続く拍手と、人々のざわめきだった。
「また来年も、こんなふうにできるといいね」
「うん、その時はもっと鎖減らして来たいな」
「来年は、完全に外してみせるわ」
そんな声を交わしながら帰っていく人たち。
一方で、「今から相談所、まだやってる?」と工房やテントの方へ向かう人の姿もある。
祭典が終わっても、やることは終わらない。
裏に戻ると、ガルドが大きく伸びをして、にやりと笑った。
「美の祭典……悪くねえな」
「そうだね」
セイルが、手帳をパラパラめくりながら言う。
「“来年のチラシ”、どう書こうかもう考えちゃうね。『揃わない美しさ大歓迎』とか?」
「明日も、工房、同じ時間に開ける」
テオが短く告げる。
「……祭り終わっても、やること、減らない」
「うん、知ってる」
私たちは顔を見合わせて同時に笑った。
◇
ここにあるのは、完璧に揃った姿じゃなくて、揃わないまま隣り合った私たちの横顔。
あのステージで並んだ一列を、きっと私はずっと忘れない。
これで「完成した二日目」になったわけじゃない。
たぶん今日が、この街にとって本当の意味での“一日目”なんだと思う。
鎖をつけた女王じゃなく、自分の足でステージに立ちにきた一人の人と、その隣に並んだみんなの姿を。
いつかまた迷った時、今日の光景を思い出せたらいい。




