第55話 走り続ける一日
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まぶたの裏をじんわりと赤く染めた。
体はまだ重い。昨日の疲れが肩と腰にべったり張り付いている。でも、頭の中はもう工房のことを考え始めていた。
——昨日、みんなで工房を見に行った。
重たい扉に差し込まれた鍵をアルミダが震える手で回す音。ギィと軋んで開いた先に広がっていた、輝きの雫の匂いがまだ濃く残る調合場。
テオが器具や釜を一つずつチェックして、「使える」「危険」「要修理」と仕分けしていく姿。ガルドが「ここ、危ねぇな」と踏み板の弱い箇所を指摘して、セイルが「広場から来た人、迷わないように案内板がいるね」とメモを取っていた。
昨夜は、危なくないかの確認と最低限の片付けだけで精一杯。遅くに解散して、それぞれの宿に戻った。
——いよいよ今日から、この工房が本当に「動く」。
◇
工房前に着くと、もうみんなが集まっていた。
マリー、リサ、ガルド、セイル、テオ、そしてアルミダ。朝の空気がまだひんやりとしている中、それぞれの顔に昨日とは違う緊張感が浮かんでいる。
「今日の段取り、説明」
テオが簡潔に切り出した。
「チェックした設備、東側の部屋と三番釜、使う。西側、しばらく封鎖」
みんなが頷く。
「原料の仕分け、抽出、調整、瓶詰め。この順番」
テオは役割分担を告げていく。
「ミナ、マリー、リサ。ラベル貼り、記録、広場への説明補助」
「ガルド、原料と瓶の運搬、広場への箱運び」
「セイル、広場の案内表示、注意書き、順番札の準備」
そして最後に、アルミダを見た。
「アルミダ。工房全体の段取り、元従業員の呼び戻し、供給ルートと人員の再編」
アルミダは黙って頷いた。昨日までの豪華な装飾は全て外され、髪も後ろで一つにまとめている。その姿はまだ見慣れない。
——昨日の夜までは「ただの元・雫工房」だった場所が、今日から「雫をやめるための工房」になる。
ここで動くもの全部が、誰かの「やめたい」に繋がっている。その重みと、少しだけ誇らしい気持ちが、胸の中で静かに混ざった。
◇
工房の中は、すぐにバタバタし始めた。
テオが昨夜「使える」と判断した釜の前に立ち、無駄のない動きで調合を始める。計量、加熱、撹拌。全ての動作が正確で、迷いがない。
——昨日まで輝きの雫を作っていた器具が、もう当たり前の顔で新しい調整液のために動いている。
私とマリーとリサは、完成した調整液の瓶にラベルを貼る作業に追われた。
「番号、日付、推奨摂取量……あ!」
リサが慌てて文字を書き直す。
「注意点の文言、『急にやめないでください』じゃなくて、『徐々に減らしてください』の方が、怖く聞こえないかも」
マリーが文面を考える。
「瓶がどんどん増えてる……手が足りない!」
私は本数と順番を管理しながら、必死で手を動かした。
アルミダは、慣れない現場作業に戸惑いながらも、必死に動いていた。高価だったはずの服の袖に薬液のシミがつき、慌てて拭く姿。棚の在庫を数え直しながら「以前は数字なんて気にしてなかった」と小さく呟く声。
豪華な装飾の代わりに、インクや薬液のシミが増えていく。それが彼女の「償い」の形なんだろう。
ガルドは原料袋や瓶箱を担いで、工房と裏口を往復していた。
「おい、そこ通路ふさぐな」
「それ足元滑るぞ、気をつけろ」
口は悪いけど、その全部が「誰かが怪我しないように」という配慮から来ている。
時々、テオがチェックに回ってくる。
「ラベル、『子どもは飲まないこと』追加」
「記録、こっちの表にまとめ直す」
淡々とダメ出しされる。言い方は刺さるけど、根っこは「誰かが困らないように」なんだって知っている。
◇
一定数の調整液が溜まったところで、私とガルドが箱を抱えて広場へ運んだ。
昨夜テオとセイルが準備したとおり、広場には相談テントや簡易ベッド、順番待ちの札が並んでいる。もう何人もの人が列を作って待っていた。
「明日から仕事、ちゃんと行けるかな……」
手の震えが止まらない若い女性が、不安を吐き出す。
テオの説明を思い出しながら、私はできるだけ分かりやすく伝えた。
「離脱症状は少しずつ和らいでいきます。この計画表を見てください。一週間目、二週間目って、段階的に……」
別の場所では、雫のおかげで残業をこなしてきたという中年の男性が、椅子に腰を落としていた。
「やめたら『仕事ができない自分』に戻るのが怖いんだ」
「いてもいなくても同じ」と思っていた日々を思い出しながら、私は彼の話をじっくり聞いた。
子どもを連れて来た母親もいた。
「自分だけ雫を飲んでいて、子どもに言えなかった」
涙を流しながら打ち明ける彼女に、マリーとリサも合流して話を聞く。
「一緒に減らしていきましょう」
「もう隠さなくていいんです」
——「雫をやめる」って、体の問題だけじゃない。
その人の働き方も、家族との関係も、全部一緒に変えていくことなんだ。工房で瓶を詰めるのも必要、広場で話を聞くのも必要。どっちも時間が足りなくて、息が切れそうになる。
◇
そんなふうに、工房と広場と屋敷を行き来する一日が、あっという間に過ぎていった。
そして——同じような日が、二日、三日と続いた。
気づけば、「アルミダが一番早く工房に来ている朝」が、もう当たり前になっていた。
アクセサリーは全て外し、髪をきっちりまとめ、地味なエプロン姿でボトル洗いや在庫整理を黙々とこなしている。外から覗きに来た街の人が、「本当に働いてる……」とひそひそ話す声が聞こえることも増えた。
——許すかどうかは、まだ別問題。
でも、「見られている場所で働く」のを自分で選んだことだけは、本物だと思う。
ガルドは荷運びだけじゃなく、広場で倒れそうな人の介抱や、暴走しそうな列の整理もこなしていた。
「無理に立ってるくらいなら、いったん横になれ」
「倒れたら順番も何もねぇんだよ」
口は悪いけど、その奥にある優しさがちゃんと伝わっている。
セイルはメモを元に、張り紙や案内板を次々と仕上げていく。
「雫を急にやめないで」「困ったらここに」
読みやすく、ちょっと柔らかい文章で、必要な情報を的確に伝えている。
マリーとリサは、工房でのラベル作業、広場での説明、屋敷の部屋割りと寝床準備を、一日中行き来していた。
「客を飾る側」だった二人が、今は「客の生活を支える側」に回っている。その姿に、じんわりと胸が温かくなる。
◇
アルミダの屋敷も、「避難所」として機能し始めていた。
大広間に並ぶ簡易ベッド。薄暗い中で聞こえる小さな寝息。キッチンで作られる簡単なスープを、リサがトレイに載せて走り回っている。
私もトレイ運びや片付けを手伝いながら、泊まっている人たちと短く言葉を交わした。
「明日は、少し楽になるといいですね」
「ありがとう……本当に」
工房では、テオが今日の生産本数を集計していた。紙に並ぶ数字が、一本一本に顔がついているように見える。
アルミダが明日の原料搬入の手配を確認し、ガルドは最後の荷物を運び終えて壁にもたれて座り込んだ。セイルはまだ明日の広場用の案内文を書いていて、マリーは記録帳を整理している。
ひと段落ついたところで、私とマリーとリサの三人が、工房の片隅で温かいお茶を一口だけ飲んだ。
「二日目、いつになるんだろうね」
マリーがぽつりと呟く。
そこでリサが、ふと漏らした。
「二日目、ちゃんと開けるようになったら……」
カップを両手で包みながら続ける。
「皆さんにも、もちろんステージに立ってほしいけど……」
少し躊躇ってから、でも言い切った。
「……できれば、アルミダ様にも立ってほしいんです」
私とマリーは、一瞬固まった。
リサは慌てて手を振る。
「い、今までみたいな感じじゃなくて」
でも、本音を続けた。
「鎖も雫もない、本当のアルミダ様で……。それを、この街のみんなに見てほしい」
「あの人が、ちゃんと変わろうとしてるところも、ちゃんとステージから見せてほしい」
——傷つけられたのに、そんなことを言えるリサの優しさ。
いや、優しさだけじゃない。頑固さも混じっている。
「二日目のステージ」に、アルミダも一緒に並ぶかもしれない光景が、頭の中にぼんやりと浮かんだ。まだ割り切れてはいないけれど、それを「見てみたい」と思った自分に、少し驚く。
◇
——今日も、走り続けるためだけに費やしたみたいな一日だった。
工房の煙も、広場のざわめきも、屋敷の寝息も。ぜんぶ、雫を「やめる」ための音。
美の祭典の二日目は、まだカレンダーのどこにも書かれていない。
でも、それは消えたって意味じゃない。そこにちゃんと立てる自分たちになるための、少し長い準備期間。
リサの言った「本当のアルミダさんでステージに立ってほしい」という言葉が、頭のどこかで何度も反芻される。
いつか——この工房じゃなく、あのステージの光の下で。
鎖でも雫でもない、「揃っていない私たちの美しさ」と一緒に立てる日がくる。
今はまだ、走り続けることで精一杯だけど……それでも、そんな景色を信じていたいと思う。




