第54話 外す為の雫
マリーの言葉の余韻が、まだステージの上に漂っている。
さっきまでの怒号は消えて、代わりに息をひそめたような不安だけが会場全体に溜まっていた。重たい霧みたいな沈黙。誰もが何かを待っているのに、誰も最初の一言を言えずにいる。
私は客席に目を向けた。空になった小瓶、まだ半分残っている輝きの雫。テーブルの上、足元、手の中——いろんな場所に散らばったそれらが、ステージの光を受けて鈍く光っている。
——心の話をしている間ずっと、誰も「これ」のことを口に出していなかった。
後方席のあたりから、おそるおそるした声が上がった。
「……あの、じゃあ、雫は……?」
その一言が堰を切る合図になった。
「私、もう何杯も飲んでて……体とか、おかしくなってないんですか?」
「やめたくても、飲まないと手が震えるんです」
「今からやめたら、もっとひどいことになったりしない?」
あちこちから、不安の声が溢れ出す。首元を掻く人、腕をさする人、空瓶を落ち着きなくいじる人。みんな、自分の体の中にある「何か」を、今さらみたいに意識し始めている。
——依存性って言葉が、さっきからずっと胸の奥に棘みたいに刺さっている。
もし私が同じ立場だったら、真っ先にそこが怖いと思うだろう。
さっきまでの「美しさ」の話が、急に自分から遠くなってしまいそうな空気が、じわじわ広がっていく。
◇
テオがステージ手前の境界から、静かに一歩前に出た。
さっきから一歩も動いていないと思っていたのに、気づいたら前に立っている。視線が自然と彼に集まり、空気がすっと緊張で張り詰めた。
「まず、大前提」
テオの声が無駄のない調子で会場に響く。
「輝きの雫、即死性の毒じゃない。短期間で臓器、破壊する成分、入っていない」
観客席から、ほっとしたような息が少しだけ漏れる。
「でも」
テオは続けた。
「気分の高揚、もたらす成分、不安を鈍くする成分。長く摂取すると、体、『それがある状態』を普通、認識する」
会場が、ぴたりと静まり返る。
「やめた時、不安のリバウンド、眠りづらさ、体のだるさ、気分の落ち込み。出る可能性、高い」
テオは淡々と続けた。
「雫の成分、違和感があった。少しずつ、材料集めて、分析していた」
そう言って、懐から小さな小瓶を取り出す。透明な液体が、照明を受けてかすかに揺れた。
「だから、今日、間に合わせた」
会場がざわめく。
「雫の依存性、『なだらかに切る』調整液。試作品」
テオは瓶を掲げて見せる。
「飲めばすぐ、全部楽になる魔法の薬じゃない。でも、離脱症状、弱める。少しずつ、体を元に戻すサポート、できる」
「助かる道があるんだ」と、一瞬、希望の光が見えた気がした。
けれど次の言葉が、その光に影を落とす。
「……問題、ある」
一拍置く。
「設備、ない」
短い言葉なのに、その重さだけで会場の空気が揺れた。
「試作品レベル、作れる。でも、街全体の人数分、到底無理。僕一人で作れる量、一日せいぜい数十本」
広い会場を見渡してしまう。数十本なんて、焼け石に水だ。
会場がざわつく。
「じゃあ、飲めない人はどうするの?」
「順番を決めるの? 先に飲んだ人だけ助かるの?」
——「助かる、助からない」って言葉が、この場所に似合わないくらい重く響いた。
このままでは、「雫の有無」を巡って、また新しい線引きが生まれてしまう。
◇
「あの人だけに全部頼るっていうのは……」
「順番待ちの間に、もし具合が悪くなったら?」
「もう雫は飲みたくないのに、怖い……」
観客たちの不安が、どんどん膨らんでいく。
もう「商品」としての雫じゃない。「今も自分の体の中にあるもの」としての雫への恐怖が、みんなの表情を曇らせていた。
——さっきまで、雫は「鎖の象徴」だった。
でも今は、「鎖を外した後に残る痣」みたいに見えてきている。
私は思わず一歩前へ出かけて、足を止めた。
——私が何かを言ったところで雫の量は増えない。
今必要なのは、心を支える言葉だけじゃなくて、この街全体に行き渡る「仕組み」だ。
横目にアルミダの姿が映る。まだ膝をついたままだけど、握りしめた手に、さっきとは違う力がこもり始めているのが分かった。
◇
アルミダが、ゆっくりと立ち上がった。
足元はまだふらついているけれど、それでもステージ中央まで歩いてくる。さっきまで「裁いてください」と膝を折っていた人と、同じヒールの音とは思えない。
観客席のざわめきが少しだけ収まった。
「……雫を作らせていた工房があります」
アルミダの声は震えていたけれど、はっきりと届いた。
「街の一角にある、雫の調合場、倉庫、流通のための馬車や人員」
一度、ぎゅっと目を閉じてから続ける。
「そこで使っていた設備、材料の供給ルート、運ぶ人間……全部、今日からテオさんに預けます」
会場がどよめいた。
「雫はもう……作らせません。その代わり——『雫を手放すための飲み物』だけを作ります」
アルミダは自分の胸に手を当てた。
「私も……工房の管理から外れません。今度はあの場所で、自分のしたことを見届けながら、最後まで片付けます」
テオが一瞬だけ目を細める。
「勝手な真似、させない」
冷たい声で条件を出した。
「配合、量、全部、僕の指示に従う。記録、全部つける。隠し事、しない」
「……はい。分かりました」
アルミダは即答した。
「それでいいです。あなたたちの『監査』の下で動きます」
——「美を選ぶ側」だった人が、「誰かにやり方を決めてもらう側」に立とうとしている。
それが彼女にとって、どれだけプライドを削る選択か。でも、だからこそ重い意味がある。
マリーが前に出た。
「私も工房に入ります」
きっぱりとした声。
「前みたいに『ただ従う側』じゃなくて、一緒に『どう直すか』を考える側として」
リサも続く。
「……雫を勧めてきたのは、この手だから」
震える手を見つめる。
「今度は『やめるための雫』を届ける手になりたい」
——償いって、「一人で背負うこと」じゃなくて、「どうやって背負わせるかを周りが決めること」でもあるんだ。
◇
会場の端で固まっていた、祭典の司会役の人がおずおずとステージに上がってきた。
今日の主役の一人になるはずだった人が、今は一番困った顔をしている。
司会が震える声で、けれどはっきりと宣言した。
「本日の『美の祭典』一日目は、これをもって終了とします」
会場がざわめく。
「そして——明日予定していた二日目の催しは、一度『延期』とさせてください」
ざわめきが大きくなる。
「延期……?」
「じゃあ、もうやらないの?」
「楽しみにしてたのに……」
司会は深く息を吸って続けた。
「今のままの状態で、美の祭典二日目を開催するだなんて……私には言えません」
握りしめた手が、ほんの少しだけ震えている。
「雫をやめるための調整液が行き渡り、みなさんが自分の足でこの会場に足を運べるようになるまで——二日目は、少しだけ取っておきたいんです」
——「やめるための時間」を先に用意するっていう選択。
きっと、祭典の成功よりも誰か一人の顔色を優先してきたこの街にとって、すごく勇気がいる決定だ。
テオが横に並んで、短く補足した。
「このあと、工房、見に行く。設備の安全確認、どれくらいの速度で、調整液作れるか、試算する」
淡々とした口調で続ける。
「一度に全部、変える、無理。だから——順番と、優先順位、決める」
そして、テオは当面の動きを説明した。
「会場の外、広場の一角、今夜から相談の場、作る。調整液、今ある分、そこに持って行く」
「医療的に急を要する人、依存の度合い、重いと判断される人、優先」
「すぐ飲めない人には、基本的な生活面のケアと、雫を少しずつ減らすための計画表、用意する。いきなりゼロ、しない」
——「全部一気に助けます」って言えないのは、きっと悔しい言葉だ。
でも、だからこそこの約束は、逃げじゃないように聞こえた。
アルミダも震えながら、みんなに向かって告げる。
「今夜から、私の屋敷と工房を、雫のことで悩んでいる人たちに開きます」
涙の跡がまだ残る顔で、でも真っ直ぐに。
「泊まる場所が必要な人は、遠慮なく来てください。……今まで『選ばれた人』だけが通れた扉を、全部、外に向けて開きます」
——「特別な人だけが入れる場所」だった屋敷が、「困っている人のための場所」に変わる。
それが、この街の価値観をひっくり返す一歩目だ。
◇
ステージの片付けが始まった。
モデルたちの鎖が、ひとつひとつ外されていく。外された鎖はその場で捨てられるのではなく、「どう処分するかを、みんなで決めるための箱」にまとめられていく。
輝きの雫の小瓶は全て回収され、「工房で調整液の材料として再利用できるか、順番に調べる」と説明された。
——「美の祭典」一日目は、「揃えられた美しさを競う日」じゃなくて、「その土台を壊す日」になった。
ステージの上から消えていくのは、ドレスでも装飾でもなく、「当たり前だと信じていたルール」の方だった。
ステージ裏に戻る通路で、みんなと簡単に言葉を交わす。
「……祭りが終わるどころか、これからが本番って顔してんな、この街」
ガルドが腕を組みながら言った。少しだけ、苦笑に近い息が漏れる。
「ね。『舞台裏』の方が騒がしくなりそうだよ」
セイルが軽く肩をすくめる。
「工房、見に行く」
テオが振り返った。
「……みんなも、手伝ってほしい」
「もちろん」
マリーが即答する。
「もう、『おすすめの仕方』を間違えたくないから……」
リサが小さく拳を握る。その手の震えは、さっきまでの恐怖じゃなくて決意の方だと分かった。
私は頷いた。
「当たり前だよ。みんなでやろう」
口に出した瞬間、その言葉が自分の背中にも乗った。
◇
——今日、このステージは「壊すための場所」だった。
雫も、鎖も、「揃った美しさ」も。たくさんのものが崩れて、泣いて、謝って、まだ答えの出ていない罪だけが残っている。
二日目の美の祭典は延期に、
でもそれは、諦めたからじゃない。ちゃんと、自分の足でステージに立てるようになるまでの時間を、みんなで決めて取ったってことだ。
しばらく、この街の主役になるのは——ドレスでも装飾でもなく、工房の煙と、少しずつ雫を手放していく人たちの息遣い。
本当の意味での「二日目」は、もう少し先。
その日、このステージに並ぶのはきっと、「揃えられた美しさ」じゃなくて、「揃っていない私たちの美しさ」。
この目に映るのは、そんな光景だって私は信じてる。




