第53話 女王じゃない、ただ一人の人
静寂の中で、やけにくっきりとした音が耳に届いた。
ポタ、ポタ。
ステージの板を叩く小さな水の音。アルミダのヒールの横に、濃いシミがじわりと広がっていく。
——これは、汗じゃない。
今、目の前にいるアルミダは、もう「見下ろす側」の視線を持っていない。焦点を失った瞳から涙が溢れている。アイラインとマスカラが黒い筋となって頬を伝い、真紅の口紅も震える唇に引きずられて、もう「完璧な線」とは呼べない形に歪んでいた。
ひとつひとつ崩れていくたびに、「女王」という仮面が剥がれ落ちていく。
街を縛っていた人。みんなを苦しめていた人。
でも今は、ただ、どうしようもなく泣いている一人の大人にしか見えない。
観客席も、ただ黙って見ていた。誰もすぐには責めないけれど、擁護もしない。
ただ、この瞬間を目撃しているだけ——そんな空気だった。
◇
肩が小刻みに揺れていた。
アルミダの喉がひくひくと震え、押し殺そうとした息が何度も詰まっては漏れ出していく。きつく結んでいた唇も、もう言葉を止める堤防にはなりきれないみたいで、震える隙間から声が漏れ始めた。
「もう黙っていられない」と、自分自身に負けたみたいな——そんな崩れ方だった。
アルミダの口から勝手に言葉が溢れ出す。
「……振り向いてほしかった」
その一言で、私も観客も息を呑む。
「あの人に、っていうより……」
震える声で続ける。
「……次に、私が誰かを好きになったとき、その人にだけは振り向いてもらえるような……そんな、私になりたかった」
その「次に」という言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
——まだ、過去の人に縋ってるわけじゃない。
あの痛みを起点にして、「次こそは」と、未来を上書きしようとしていたんだ。
「『誰か一人にちゃんと見てもらえる自分』が欲しくて……」
そこにあったのは、幻みたいな理想の「誰か」じゃない。
名前も顔も決まっていない、いつかの「誰か」。
次に好きになる人の姿は、まだどこにもいないけれど、その人に向けた「見ていて」が、ずっと心の中をぐるぐる回り続けていたんだろう。
「もう二度と、『ああ、やっぱり私じゃないんだ』って……気づきたくなかった」
喉の奥で、しゃくりあげる音が混ざる。
「だから、次に誰かを好きになったときの私が、『一番』でいられるようにって……そう思って」
私は心の中で少しだけ頷いた。
今の彼女のやり方を肯定するわけじゃない。けど、その願い自体は——痛いほど分かる。
私だって、あのギルドで。
「いてもいなくても同じ」みたいに扱われた日々を思い出してしまう。
誰か一人でいいから、「あなたがいい」と言ってほしかった。
それを、「綺麗」とか「価値」とかに結びつけてしまう気持ちも分かってしまうから、余計に苦しい。
◇
「……自分のことが、大嫌いだった」
アルミダは床を見つめたまま続けた。
「地味で、怖がりで、声も小さくて……鏡を見るたび、そこに映ってる自分を、『また同じね』って、諦めることしかできなかった」
私の胸の奥で何かが小さく鳴った。
言葉にはしないけどその感覚は知っている。
「どうせ私なんて」って、自分より先に自分を切り捨てる癖。
「だから、『美しい私』になれたら……自分のことを、嫌いじゃなくなるって思った」
声が震える。
「誰かに……誰でもいいから、『綺麗だ』って、『ここにいていい』って言ってほしかった」
観客席のあちこちから息を呑む音や、小さな呟きが漏れた。
「分かる……」「私も……」
そんな言葉が、ほんのかすかな音量で重なっていく。
アルミダはさらに核心へと進んでいく。
「だから……街の美しさを全部、私に結び付けた」
震える手で自分の鎖をぎゅっと掴む。
「鎖も、服も、雫も……全部、『アルミダ様のおかげで』って言われるように」
涙がまた一筋、頬を伝った。
「そうすれば毎日、誰かが私の価値を確認してくれる。『アルミダ様がいるから、私たちは綺麗でいられます』って」
——「支配の仕組み」としての恐ろしさ。
でも同時に、「毎日『ここにいていい』って言ってもらいたかった人」の寂しさが、胸の奥にずしりと沈んでくる。
私は何も言わず、ただその言葉を受け止めた。
◇
アルミダがふと顔を上げ、客席をぐるりと見渡した。
その瞳に映るもの——縛りつけるような鎖をつけた首。雫の空瓶を握りしめる手。安心と苦しさが混ざった表情たち。
その光景を見た瞬間、アルミダの顔がさらに歪んだ。
「……ごめんなさい」
最初は、ほとんど聞き取れないくらいの声。
それが何度も繰り返されて、大きくなっていく。
声と一緒に、体の中心がほどけたみたいに、アルミダは堰を切った。
肩を大きく上下させながら、嗚咽を押し殺すことも諦めて、ぐしゃぐしゃに泣く。きれいに整えられていた髪も前に滑り落ち、涙と一緒に頬に張り付いていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ステージの上に涙の音と、くぐもった泣き声が重なった。
謝罪の中身が、具体的な言葉になって溢れ出した。
「……あなたたちの不安を、私のために利用した」
震える声。
「……雫で、考えないようにさせた」
自分の指先を見下ろす。
「……鎖で、選べないようにした」
鎖飾りが、きしりと鳴った。
「『美しくないあなたには価値がない』なんて——」
そこで、言葉が一瞬詰まる。
「私自身が言われたくなかった言葉を、あなたたちに向けてきた」
……きっと、その謝罪を聞いても、すぐに「許す」とはならない。
むしろ、「今さら」って、そんな言葉が湧いてくる可能性の方が高い。
でも、「謝る側」になったことで、彼女自身がいちばん重さに押しつぶされかかっているのが見えた。
アルミダの膝が、がくんと折れる。豪華なドレスの裾が床に広がり、鎖がちりんと鳴った。それはもう、女王の姿勢じゃない。
「私は……この街を縛りました」
床に手をつきながら震える声で言う。
「たくさんの人を……苦しめました」
顔を上げて、観客席を見渡した。
「だから——私を……裁いてください」
その言葉に会場がざわめく。
「私がいたせいで歪んだものは全部、私ごと……」
乱れた髪の隙間から、かすれた声がこぼれる。
「私に残ってるものなんて……もうこれしか」
そこで、力が抜けたみたいに言葉が途切れた。
自分で自分に「価値はもうない」と言い聞かせて、最後の役目のように「罰される自分」にしがみつこうとしている——そんな風にも見える。
——でもそれは、ある種の「逃げ」のように、罰を受けて終わりにすることで、その後の「生きて償う時間」から目を逸らそうとしているみたいに聞こえた。
ガルドは腕を組み直し、何かをぐっと飲み込んだみたいに顔をしかめている。
セイルは腕を組んだまま、じっと様子を見ている。
テオは相変わらず表情を変えないけれど、その視線は鋭くアルミダを捉えていた。
◇
観客席が揺れ始めた。
「そっ、そうよ、雫をやめられなくなったのはアルミダ様のせいだ!」
「鎖を外したら、『価値がない』みたいに言われた!」
「罰を受けるべきだ!」
怒りの声が上がる。
当然の怒りだと思う。
その言葉には、これまで我慢してきた時間の長さと、飲み込んできた悔しさが詰まっている。
でも、別の声も混じっていく。
「でも、私は……あのとき、本当に救われた」
「自分を嫌いだった頃、鎖をつけてもらって、初めて『綺麗』と言ってもらえた」
「全部嘘だったとは、思いたくない」
——誰かが怒る権利もあるし、「救われた」って言う権利もある。どっちも間違いじゃない。
断罪だけで終わらせたい人もいるし、終わらせたくない人もいる。
私一人の答えじゃ、到底足りない。
アルミダはその揺れを聞きながら、どんどん自分を低い位置へ押し込んでいく。
「私に、生きている資格なんて——」
その言葉が完全に出る前に、小さく息を吸う気配がした。
マリーだ。
ステージの前で、両手をぎゅっと握りしめている。その手は震えているけれど、瞳には確かな決意が宿っていた。
「マリー……」
私が小さく呼ぶと、マリーは一瞬だけ私を見て、こくんと小さく頷いた。
それから一歩ステージに上がり、ドレスの裾が板の上でささやかな音を立てる。
「……私も、アルミダ様に傷つけられた人間です」
震える声で、でもはっきりと言う。
会場が静まる。
「怖かったし、今でも許せないって思うことがあります」
マリーは深く息を吸った。
その肩の上下が、すぐ隣からでも分かる。
「それでも、ここで『終わり』にするのは……違うと思います」
アルミダが涙で濡れた顔を上げる。
「だって、終わりにしてしまったら——」
マリーは一瞬言葉を探して、それでも続けた。
「『どう償うべきだったのか』を、もう誰にも見せられなくなるから」
ステージの上の空気が、ぴんと張り詰める。
マリーは一歩ずつ、アルミダに近づいていく。
私の肩が無意識にその背中を追って前に出そうになるのを、なんとかこらえた。
「雫をやめられない人たちが、やめられるようになるまで、一緒に支えること」
マリーの視線が客席の空瓶に向く。
「鎖じゃなく、そのままの自分を受け入れられる服を作ること」
自分の胸元の刺繍にそっと触れる。
「『揃える』ためじゃなくて、一人ひとりの違う綺麗さを見つけて、今度はそれを広めること」
マリーの声が少しずつ強くなっていく。
「それが、アルミダ様にできる償いだと……私は思います」
その言葉には、怒りも、悲しみも、諦めも、全部含まれていた。
それでもなお、「終わり」じゃなくて「これから」を選ぼうとしている人の声だった。
そして、最後にこう言った。
「私は……アルミダ様にもう一度、『美しさ』の仕事をしてほしいです」
その言葉に観客がざわめく。
「ただし今度は、私たちの『違い』を揃えるためじゃなくて——」
マリーは涙で霞んだ目のまま、まっすぐアルミダを見る。
「違ったまま、一緒に立てる場所を作るために」
胸が熱くなる。
隣で聞いているだけの私の方が、足を震わせてしまいそうだった。
アルミダは言葉を失ったままマリーを見上げていた。
さっきまで終わりを望んでいた人の目に、初めて戸惑いが浮かぶ。
◇
会場の空気が、また揺れ始めた。
「償わせる……?」
「でも、どうやって……?」
「……それの方が、ずっと重いかもしれない」
断罪を望む声と、償いを求める声と、まだ何も決められない沈黙が同じ空間に並んでいる。
ガルドは腕を組んだまま、ふっと短く息を吐いた。
セイルはどこか複雑そうな笑みを浮かべて空を仰ぐ。
テオは変わらず無表情だけど、その目の奥にだけ、かすかな興味の光が揺れていた。
リサはトレイを抱えたまま、袖口をきゅっと握りしめている。
その目は、もう「女王」ではなく、一人の人間としてのアルミダを見ていた。
——簡単な答えなんて、どこにもない。
それでも、マリーの震える声が示した道だけは、「揃っていない」ままの私たちが一緒に歩ける道に見えた。
女王と、街と、そして私たち自身の「これから」を決める道に。




