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第52話 価値を求めた美しさ

 さっきまで「揺るがない女王」の象徴みたいだったその手は、今は鎖飾りをぎゅっと掴んでいる。震えを誤魔化すみたいに金属の輪を指先で忙しなくいじっていた。


 彼女は喉の奥で短く息を呑み、ぐい、と顎を持ち上げる。


 ——いつもの仮面を、かぶり直そうとしている。


 豪華な鎖飾りを握り直し、もう一度あの完璧な笑顔を作ろうとする。けれど、口角を持ち上げる筋肉の動きがどこかぎこちない。まるで、壊れかけた人形が無理やり動いているみたいな、不自然な微笑みだった。


「私の美しさはこの街の誰もが認めているわ」


 早口で言葉を積み上げていく。


「だからこそ、みんな私についてきた。私が示す『美』こそが正解で、それ以外は——」


「今までと……調子が違う……」


 前列の誰かが、小さく呟いた。


 たったひと言。


 けれど、その小石が落ちたみたいな音が、静かな水面に波紋を広げていくように、会場の空気を揺らした。


「なんか……必死じゃない?」


「うん……いつもの余裕が……」


 別の席からも戸惑い混じりの囁きが漏れ始める。


 私の目に映るアルミダは、確かにさっきまでとは違っていた。


 完璧に見えた化粧の端が汗でわずかに崩れ始めている。ファンデーションの境目がうっすらと浮き、地肌との差がじわりと滲み出ている。


 瞳の光も、「見せるためのもの」から、「何かに縋りつくためのもの」に変わっていた。


 まるで、今にも足場から滑り落ちてしまいそうな人が、必死に縁にしがみついている——そんな危うさが全身から滲んでいる。



     ◇



 観客席のあちこちから、ぽつぽつと本音が漏れ始めた。


「前から、ちょっと怖いと思ってた……」


「でも『美のため』って思い込んでた」


「雫がないと不安になるの、やっぱおかしいよね……?」


 一人が口を開くと、それをきっかけに、堰を切ったように声が重なっていく。


「鎖の重さ、本当は苦しかった」


「でも外したら『美しくない』って言われそうで……」


「みんなと同じじゃないと、置いていかれる気がして……」


 自分の首元を押さえる手。空になった小瓶をぎゅっと握りしめている手。膝の上で固く組まれた指先。


 それぞれの仕草に、「本当はそう思っていた」時間の長さが滲んでいる。


 アルミダの笑顔が目に見えて引きつった。


 観客の視線が変わっていくのが分かる。今みでの「崇拝」から、「評価」と「疑い」へ。神様を見るような目から、同じ舞台に立つ人間を見る目へ。


 その変化に耐えきれなくなったのか、アルミダはついに感情をむき出しにした。


「やめなさい!!」


 鋭い叫びが会場中に反響する。ヒールが感情的に床を打ち、乾いた音がビリビリと空気を震わせた。


「正しいのは私で、間違っているのは今のアナタたちよ!!」


 スポットライトの下で、アルミダの顔がはっきりと浮かび上がる。


 きれいに引かれていたアイラインの端がわずかに滲み、黒い筋となって頬に落ちていた。真っ赤な口紅も、叫んだ拍子に形が崩れ、左右のバランスがほんの少しだけずれている。


 さっきまで「完璧」の象徴だったその顔が、今はただ、必死で取り繕おうとしている大人の顔に見えた。


 ——完璧だったはずの仮面が、少しずつ剥がれ落ちてきている。


 私は息をひとつ飲んでから一歩前に出た。


「……それは違います」


 自分の声が思っていたよりもはっきり響き、アルミダが反射的に噛みついてくる。


「何がわかるの!? あなたに!」


 拒絶と否定の刃が真っ直ぐ私へと飛んでくる。

 

 怖さも、痛みも、ちゃんとそこにある。

 ——でも、この痛みごと、ここに立ちたい。


 私は足を止めなかった。むしろもう一歩、前へ。


「……あなたも、本当は分かっているはずです」


 まっすぐアルミダの目を見つめ、逃げないで見つめ返す。


「これは、本物じゃないって」


 観客の誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。


 下地の見えるほど強く引かれた口紅のラインが、きゅっと歪んだ。


「ちっ、違う! 私は美しい! 誰よりも!」


 必死の否定は、もう威厳なんて欠片もない。ただの悲鳴みたいに舞台の上で浮いている。


 そして、追い詰められた獣のように叫ぶ。


「私は、美しくなくちゃいけないの!」


 会場が、しん、と静まり返った。


「でないと……私に価値なんてないじゃない!!」


 その言葉は怒鳴り声なのに、どこか「泣き声」に近かった。


 観客席のあちこちで息が止まる気配がした。


 ——「美しさ」へのこだわりは、美学じゃない。


 もうそれは、「生きていていい理由」にすり替わっている。美しくなければ、この場に存在してはいけない。そんな、息苦しいほどの強迫観念。


 胸がきゅっと締め付けられる。


 私は、小さく問いかけた。


「……どうして、そこまで?」


 責めるためじゃなく、本当に知りたくて。




     ◇




 アルミダは最初、その問いを乱暴に跳ね除けた。


「関係ない」


 短く、吐き捨てるように。


「昔の話よ」


 視線を逸らし顎を上げる。見下ろす角度を無理やり作ろうとする。


「今は、私が選ぶ側なの」


 言葉は強いけれど、その芯に力がない。さっきまでなら会場を黙らせたであろうその言葉が、今はただ空中をすべっていった。


 観客の視線。リサの潤んだ瞳。ガルドたちの、こちらを信じている目。そして、私の視線。


 それらに囲まれて、アルミダの防壁が少しずつ削られていくのが見えた。


「……昔の話よ」


 同じ言葉をもう一度繰り返したとき、その響きはさっきとは違っていた。強がりというより、自分に言い聞かせているみたいな声。


 アルミダは小さく息を吐いて、ゆっくりと話し始めた。


「私は……地味で、人見知りで、気弱で」


 声が、かすかに震えた。


「いつも端っこにいた。集まりでも、どこでも隅の方」


 ひとつ、喉を鳴らして唾を飲み込む。


「話しかけられるのが怖くて、でも、話しかけられないと『いないみたい』で……。どっちに転んでも、居心地が悪かった」


 その言葉に、客席のどこかで誰かが小さく身じろぎする音がした。


「そんな私にも、分け隔てなく声をかけてくれた人がいた……」


 アルミダの瞳が、遠くのどこか——過去の一点を見つめる。


「優しくて、誰にでも平等で……。でも、『誰にでも』だからこそ、余計に特別で」


 ふっと、唇の端だけが柔らかくほどけた。懐かしいものを抱きしめるみたいな表情。


「気づいたら、あの人の声を待つようになっていた。自分でも、いつからか分からないうちに」


 ほんの少しだけ、声に熱が戻る。


「でも、彼が選んだのは別の女性だった」


 そこで、アルミダはぎゅっと拳を握りしめた。


「私が選ばれなかったのは、私が美しくなかったから」


 断定するように、確信を込めて言い切る。


 言い切らなければ、自分の中の何かが崩れてしまうかのように。だからこそ、強く。


 ——でも、それは本当に「事実」だったんだろうか。



     ◇



 アルミダは少しヒステリックな息の乱れを混ぜながら続ける。


「地味で、埋もれるような自分じゃ、選ばれるわけがなかった」


 声がかすかに裏返る。


「だから私は『目立つ美しさ』を選んだのよ。派手で、強くて、誰にも負けない美しさ」


 両手を大きく広げて、今の自分をまるごと示す。


「そして、同じ鎖、同じ服、同じメイクを『標準の美』として配れば、自分より上の誰かは現れない」


 その言葉に観客がざわめいた。


「みんなを同じ線まで引き上げておけば、その少しだけ上に立つ私が『一番』になれる」


 ——「横並びに揃えた」の裏側にあるのは、誰かを押しのけるための残酷さだけじゃない。


 二度と、自分が下にならないようにするための、必死の算段。


「そうやってやっと手に入れたのよ。『美しい私』を」


 アルミダは震える声で締めくくった。


 その「美しい私」に、どれだけの孤独と、怖さを塗り込めてきたんだろう。


 私は静かに問いかける。


「……その人は、本当に『アルミダさんの見た目だけ』で、選ばなかったんでしょうか」


 アルミダが即座に言い返す。


「そうに決まってるわ!」


 けれど、その声にははっきりとした迷いが混じっていた。


「あの子の方が華やかで、周りの目を惹いた。私は地味で、影みたいな存在だった」


 私はできるだけ優しい声色で、でも確実に指摘する。


「そう『思った』んですね」


 アルミダの瞳が、びくりと揺れる。


「でも、その人がそう言葉にしたわけじゃないですよね?」


 アルミダはそこで言葉を失った。


 視線が一瞬宙をさまよい、それから足元の板を見つめる。ヒールの先が小さく震え、ぎゅっと板を噛む。


 ——確証のない「傷つけられ方」ほど、後から何度も、自分で自分を刺し直してしまう。


 「美しくなかったからだ」と結論を出してしまえば、理由がひとつにまとまる。

 けれど、そのたびに自分の価値を自分で削っていくことにもなる。


 その痛みが、アルミダを今の姿にまで変えてしまったんだ。



     ◇



 私は一歩だけ距離を詰める。


「……じゃあ、アルミダさんはどうして、その人を『好きになった』んですか?」


 できるだけ責めないように。

 でも、逃げ道を塞がないように。


 会場が静まり返る。

 「今それを聞くの?」という戸惑いと、「でも聞きたい」という好奇心が、空気の中で渦を巻いた。


 アルミダは最初、「そんなこと今関係ない」と言い放とうとした。けれど、喉が詰まって音にならない。


 その代わりにゆっくりと、震える声がこぼれ出た。


「私が……うまく話せなくても、急かさずに待ってくれた」


 目元に、うっすらと光が滲む。


「……周りから外れて座っていた私にも、当たり前みたいに声をかけてくれた」


 涙が一筋、頬を伝い落ちていく。高価な化粧が、その上から崩れて細い線を描いた。


「派手でも華やかでもない私を、『そこにいる一人』として、ちゃんと見てくれた」


 語れば語るほど、アルミダの表情が変わっていく。


 ——今の自分の理屈と、好きだった理由が噛み合っていない。


 その矛盾に自分自身でも気づき始めている。


「私が好きになったのは……」


 アルミダが、ぽつりと呟く。


「その人の優しさで……誰も見ていないところでも変わらない態度で……」


 そこまで言って、アルミダは目を見開いた。


 彼女が好きになったのは、「表面的な美しさ」なんかじゃない。


 不器用な自分にも向けられた、変わらない優しさ。

 端っこに座っている自分にも、「いる」として数に入れてくれる眼差し。


 それを、「美しい」と感じたはずなのに——今の彼女は、まるで逆方向に走っている。


「なのに私は……」


 力の抜けた声がこぼれる。


「“選ばれなかった理由”を、全部見た目のせいにして……。自分で自分を、いちばん最初に『美しくない側』だって決めて……」


 その続きは、声にならなかった。


 私は静かに言葉を置く。


「アルミダさんが『美しい』って感じたその人を、『見た目だけで人を選ぶ人』だってことにしてしまったら……」


 一呼吸だけ置いてから、続ける。


「その人のことも、昔のアルミダさん自身のことも、少し悲しくしてしまうんじゃないでしょうか」


 責める言葉ではなく、ただ、自分の大事な記憶まで「醜いもの」にしてしまわないでほしい。そんな私の願い。


 アルミダは反論しようとして口を開いた。


「私は……」


 けれど、その先がどうしても続かない。


 かつて絶対だと信じていた「見た目の美しさ=価値」の方程式が、頭の中で音を立てて崩れていく。その崩れ落ちる音を、きっと本人が一番よく聞いている。


 


 ——今、彼女自身が“自分の矛盾”に指先で触れた。


 

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