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第5話 地図の白を歩く

 笑いがようやく静まり、三日月亭の夜が呼吸を取り戻す。


「……死ぬかと思った」


 ガルドが腹を押さえたまま、天井を見上げて息をつく。耳がぴくりと伏せて、すぐ戻る。

 

 セイルは目尻を指で拭い、テオは水をひと口飲んで喉を整えた。


 胸の内側の薄皮が一枚はがれたみたいに、私の呼吸も軽い。


「——で、これからどうする?」


 笑いの余熱が薄れたころ、私はグラスを置いて切り出した。


「……冒険に出るのは、どうだ」


 ガルドが言った瞬間、卓の空気が少し揺れた。

 その表情は、さっきまでの冗談混じりの彼じゃない。耳がわずかに動き、目だけが真っ直ぐだった。


「子どもの頃、冒険者に憧れてただろ? ただ外の道を歩いてみたいとか、知らない場所を見たいとか……それから、モンスターをみんなで協力して倒したりとかさ」


 ガルドは少し笑った。けれど、それは照れ隠しじゃなく、自分の胸の奥を確かめるような笑みだった。視線は遠くの景色を思い出すみたいに揺れる。


「……俺、いつの間にか忘れてたんだ。今日みたいに並んで戦って、語り合って……やっと思い出した」


 尻尾が小さく揺れる。迷いよりも、期待の色が濃い。


「……外に?」


 セイルが問い返す。声は慎重だったが、その目は光を宿していた。


「たしかに……ぼくも村を出たとき、怖さと同時にわくわくしてる自分もいた……気づいたらそれを隠す方ばかり覚えてたけど」


 言い終えたセイルは、ふっと口元をゆるめた。笑っているというより、長いあいだ胸にしまい込んでいた気持ちをやっと言葉にできて、少し照れくさくなったような苦笑いだった。


 テオが腰の袋から小物を一つ取り出し、ころんと卓に転がした。


「僕も……工房じゃ作って試すだけ。でも、本当は外に出してみたかった。風に当てたり、陽の下に置いたり……そういうの、ずっと心の底で憧れてた」


 テオは言葉の最後で少し目を伏せ、指先で金具をそっとなぞった。まるでその仕草自体が、まだ見ぬ外の光に触れてみたい気持ちの名残を表しているようだった。


 気づけば、視線が私に集まっていた。

 胸の奥が少し熱くなる。


「私も……」声が自然に出た。


「最初に“楽しそう”って思ったの……きっとこういうことだったんだと思う。知らない景色を見て、“わぁ”って思うだけで、十分な理由になる気がする」


 口にした瞬間、胸の奥がふわっと軽くなる。子どもの頃に抱いていた漠然とした憧れを、今ここでやっと形にできた気がした。


 言葉が落ちたあと、静かな間が訪れる。けれどそれは重さじゃなく、胸の奥をふくらませる間。


「……行き先はどうする?」


 セイルが皿の位置を少し整えながら、周りを見渡す。声は落ち着いていたけれど、指先の動きにはほんの少し高揚が混じっている。


「北は峠に雪が残ってる」


 テオが短く言った。言葉に冷えが宿っているようで、彼の吐く息まで白く想像できる。


「雪道は装備が追いつかないかもね」私は首を横に振った。


「西は巡回が多いから混むだろうな……」


 ガルドが短く言う。耳がわずかに伏せていて、人混みの様子を思い浮かべているのが伝わる。


「東は湿地で道が悪い」


 テオの指先が金具を一度撫でた。湿気で錆びる未来を思い浮かべているのかもしれない。


「……じゃあ、南はどうだ?」


 光が差したような瞳でガルドが少し身を乗り出す。


「空気が乾いてるし、道もわりと平らだって聞いたことがある」


「……ありだね」セイルが軽く頷く。


「僕も賛成」


「私も。最初の一歩にちょうどいいかもしれない」


「じゃあ、まずは最初の目的地を——」

 

 私が言いかけたとき、扉の鈴がころんと鳴った。

 


     ◇


 


 二組の冒険者が、エールを片手に私たちの斜め後ろの卓に腰を下ろす。そして、すぐに彼らの声が低く流れ始める。

 


「おい、知ってるか? リベラの話」


「あぁ、なんでも“指導冒険者”ってやつがいるらしいな」


 リベラ村。ここから南へ半日ほど歩いたところにある村。私も名前だけは聞いたことがある。


「若いのを連れて実戦で鍛えるんだと。こないだ指導を受けたやつら、数日でオークを仕留めたってさ」


 一人がニヤリとしながら声を落とすと、相棒はグラスを傾けて喉を鳴らし、半信半疑といった顔をした。


「まじかよ。俺たちは冒険者になって数年は苦戦してたってのに……」


「しかも、ギルドの受けもいいんだと。“知見のある熟練者に一時的に依頼”って扱いらしい」


「そりゃ、正式に依頼って名目なら実績にもしっかり残る。羨ましい話だな」


「あぁ、ただ……相当きついらしいぜ。へばったら休ませるんじゃなくて、立てなくなるまで走らせたって話だ」


「……うわ、地獄じゃねぇか。俺だったら三日もたねえ」


 想像しただけで背筋が寒くなったのか、その声には少し怯えが混じっていた。


「ポーションの使用も自分の判断じゃダメらしい。全部、指導役の裁量次第だってよ」


「それ、下手すりゃ命に関わるんじゃ……」


「だろうな……」


「まぁ、実力がつくならってやつの気持ちもわかるっちゃわかるが……」


「……頭じゃ分かるけど、実際やらされるのはごめんだな」


「あぁ、強くなりたいなら、多少の無茶は仕方ない……ってやつか」


「“多少”の基準が違いすぎるだろ」


 笑い交じりの声も、次第に低くなっていく。エールの泡が弾ける音だけが、やけに耳に残った。


「……まあ、所詮は噂だ。どこまで本当かなんてわかりゃしない」


 一人が肩をすくめ、グラスを揺らす。中身はもう半分も残っていない。


「そうだな……それに、指導を受けたやつら、なぜか成果は口にしても中身は妙に濁す。詳しいことは滅多に話さねぇらしい」


「結局のところ、経験したやつにしか真相はわからないってことか」


 最後の言葉は、ため息のように酒場の空気へ溶けた。笑い声が戻るまで、ほんの一瞬だけ、周りのざわめきが薄れる。



     ◇



 私たちは顔を見合わせる。言葉にする前に、目で少しだけ意見を交わした。


「——どう思う?」


 私が声を落とすと、セイルが静かに答えた。


「噂は風だよ……気まぐれで簡単に変わる」


 短く言ってから、少し間を置く。


「でも、リベラ村って、遠すぎず近すぎず、最初の目的地にはちょうどいいかもね」


「……確かにな」ガルドが頷く。


 耳がわずかに揺れ、声には素直な期待がにじんでいた。


「峠や湿地に比べりゃ行きやすいし、村なら補給もできる」


 彼は少し笑い、エールをひと口あおる。


「……それと」


 ガルドの声が真面目に戻る。


「厳しい指導を否定するつもりはないが、押さえつけるだけの“指導”なら、通路を狭めるだけだ」

 

 視線が低く落ち、言葉に迷いが滲む。


「本当に鍛える為なのかどうか……確かめたい自分もいる」


 テオが淡々と重ねる。


「“強くなりたいなら多少は”って、便利な言葉」

 

 小さな金具を指先で転がしながら、目は動かさない。


「でも、その“多少”を誰が決めて、どこで線を引くのか……それを誤れば危険にもつながる」


「……うん、そうだね」

 

 これは、とても難しいことで……だからこそ、安易に押し付けていいものじゃないから。


「私たちにとっても、ただの噂じゃなくて……大事なのは自分の目と耳で確かめることだと思う」


 口にしながら、自分の胸の奥に小さなざわめきを感じていた。

 

「実力がある人なのは確かみたいだし、話だけでも聞ければ、行く価値はあるはずだよね」


 

 誰かを当てにして待つのは、もう昨日までで十分。これからは、自分で見て、感じで、自分で選んでいきたい。


 


     ◇



 

 話は具体に降りていく。

 私がメモ帳を開き、流れを順番に書く。


「明日、まずはギルドで討伐報告と換金。ワイバーンの尾は証明に出す。受領証は私が持つね」


ガルドが頷く。


「出立は?」


「九時にギルド前で集合。朝は無理に早くしない。報告を終えてからリベラ村へ向かおうか」


 三人が順に『了解』と返す。



 返事は、今夜の締めにちょうどよかった。


 

 明日のことを思うだけで、心が前へと歩き出そうとする。抑えるより、口にしてしまった方が楽だと感じるくらいに。


「……なんだか、わくわくするね」


 こんな子どもみたいな言葉が漏れたのは、小さい頃、地図の白い部分を指でなぞって、「ここには何があるんだろう」って思っていた時と同じ気持ちだったから。


 「あぁ……ただ“明日が来る”ってだけで、こんなに心が弾むのは久しぶりだ」


 ガルドが短く笑う。耳がぴんと立ち、尻尾もゆらゆらと揺れている。


「うん。もちろん油断するつもりはないけど……ぼくも同じ気持ちだよ」


 セイルがグラスを傾け、透明な液面を灯りに透かした。淡い影が指先に揺れる。


「……三手で荷造りする」

 

 テオがぼそりと告げる。言葉は短いのに、その声音には確かな熱があった。指先で金具をなぞる仕草も、どこか誇らしげ。


 笑いが静かに広がる。

 声は大きくない。けれど、この卓に集まった四人には、もうそれだけで十分だった。


 



 明日の地図が胸の奥に広がっている。そこには空白が残っているけれど、それは不安ではなく、余白。自分たちで描き込んでいける、始まりの余地。


「じゃあ、明日、九時」


 私の言葉に、三人が頷く。

 同じ方向を向いた視線が、見えない結び目でそっと繋がった気がした。

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