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第49話 それぞれの結び目

「四人目のモデルさん、準備をお願いします!」


 そのさっき聞いたはずのスタッフの声が、頭の中で何度も反響している。


 手のひらがじっとり汗ばむ。指を握ったり開いたりしても、ぬるりとした感触は消えてくれない。

 喉はカラカラで、唾を飲み込もうとしても途中で引っかかってうまく落ちていかない。


 足なんてもう自分のものじゃないみたいだった。膝から下だけふわふわ浮いていて、ここで歩き出したらそのままどこかに転がっていきそうな、頼りない感覚。


「心配すんな。道はもうできてる」


 ガルドが私の肩をどすっと叩く。骨まで響くくらいの重み。けれどその衝撃で、ふわふわ浮いていた足が一気に床に引き戻された。


「お前は真ん中歩いてくりゃいい」


「うん……なんか、急に実感湧いて来ちゃって」


 思わず苦笑いが漏れる。


「深呼吸、三回。はい、吸ってー」


 今度はセイルが、わざと大げさなジェスチャーで指揮を取る。両手を頭の上まで持ち上げて、胸をぱんぱんに膨らませて見せながら。


「吐いてー。もう一回、吸ってー……そうそう。ほら、空気、ちょっと入ったでしょ」


「……さっきよりよくなったかも」


 息を吐きながら答える。


「ありがと、変な呼吸の先生」


「変なは余計。あとでちゃんと料金請求するからね?」


 セイルの軽口に、喉の奥のこわばりが少しだけほどけた気がした。


「転倒リスク、低。歩行ルート、障害物なし」


 テオが淡々と報告しながら、私の靴紐と裾の長さを最終チェックする。しゃがみ込んで指先で地面を撫で、段差の位置まで確かめてくれる、その仕草は“作業前点検”そのものだった。


「靴紐、結び目安定。裾、許容範囲」


「……テオにそう言われると、ほんとに転ばなさそうな気がしてくる」


「そうなるように調整済」


 短い言葉。でも、その一言に、何度も足元を見てくれた時間が詰まっているのが分かる。


 最後に、マリーが私の両手を包むように握った。


「あのワンピースはね、ミナの『結び目』を見てもらうための服だから」


 温かい手のひらから、彼女の体温と一緒に想いが伝わってくる。


「綺麗なポーズしなくていい。ミナが『ほどきたかったもの』と、『結び直したいもの』を、そのまま連れて歩いて」


「……うん」


 喉が詰まりそうになりながらも、なんとか声を出す。


「全部置いていくんじゃなくて、ちゃんと連れてく。……そういうの、やってみる」


 マリーの瞳は、あの地下工房で“本当の服”を作り始めた時と同じ、まっすぐな光を宿していた。


 ——みんなが開けてくれた道の、最後のコマに乗るプレッシャーはある。


 でも、それ以上の熱がこの胸に。




 地味で……空気みたいで。昔の私は、それをどこか頭の片隅で「直さなきゃいけないところ」だと思っていた。みんなの視界の端っこでぼんやりしているのが“らしい”って笑われて、その「らしさ」を飲み込むしかなかった自分。


  

 それでも今は、その“地味さ”ごと切り捨てるんじゃなくて、「ここまで生きてきた証拠みたいなものだ」と思えるようになった。人混みの中で空気になってしまう瞬間も、誰かの話を黙って聞いている時間も、全部ひっくるめて——それが私の輪郭なんだって。


 その輪郭を、今日は隠さずに見せてみたい。


 「普通でいい」でもなく、「特別になりたい」でもなくて。


 「ああ、ああいう人もいていいんだ」って、誰かが自分を許す時の材料みたいになれたらいい。私を見て、「ああでも生きてていいんだ」って、どこかの誰かがほんの少しだけ思ってくれたらいい。


 そんなわがままが胸の奥で小さく、でも確かに熱を持っていた。



     ◇



 黒幕の隙間から、そっと観客席を覗く。


 鎖が減った人がさっきよりさらに増えていた。一本だけ、あるいは全く付けていない人も、あちこちに点々と見える。その首元にあたる光がどこか軽やかだ。


 逆に、ステージの装飾はますますギラギラしていた。金と赤と紫の飾りがこれでもかと光を跳ね返し、アルミダ側が「もっと強く」と必死に光量を上げているのが分かる。


「さっきの服、よかったね」


「なんか……楽になった」


 観客の素直な声があちこちから小さく漏れている。一つに揃えられた歓声じゃなくて、それぞれの場所でそれぞれが勝手に呟いている、バラバラな声。


 ——前は、「同じに揃ってないと怖い」だけだった。


 でも今は、「違うままで立てる場所が欲しい」って、ちゃんと言葉にできる。


 ここで歩かなかったら多分一生、自分のことを「脇役」って呼び続けちゃう。


 その未来を想像したら、今この瞬間の方がまだずっとマシに思えた。


 私は仲間たちに向き直る。


「ガルド、一番前の背中、すごい頼もしかったよ」


「おう」


 ガルドが照れたように耳を動かす。短い返事に、でも全部が詰まっている。


「セイルの風でステージが換気されたよ」


「どういたしまして。追加で香り付きの風もサービスしといたから」


「いらない匂い混じってないといいけど」


 軽口を返すと、セイルが「ひど」と笑う。その何でもないやり取りが、さらに呼吸を楽にしてくれた。


「テオ、転びそうなとこ、全部先に直してくれたみたい」


「当然の処置」


「……ありがと。そういう『当然』に、何回も助けられてる」


 テオは「了解」と小さく頷いた。目が、ほんの少し丸くなっている。


「マリー、この服借りるね。ちゃんと『返し』に戻ってくるから」


「うん、待ってる」


 マリーが小さく頷いた。

 その笑顔が、背中にそっと手を添えてくれるみたいだった。


 私は息を整えて黒幕をくぐった。




     ◇




 アナウンスが響く。


「仕立て屋マリーの作品、四人目のモデルです——」


 自分の名前が呼ばれる。足が自然に前へ出る……はずだった。


 最初の数歩、明らかに緊張しているのが自分でも分かる。


 背筋を伸ばしすぎて、肩がぎこちなく強張っている。足元の板の感触が薄くて、どこに重心を置けばいいか分からない。視線は前に向けているつもりなのに、どこにも焦点が合わず宙を泳いでいた。


「無難ね」


「普通かな」


「さっきまでの方がインパクトあったかも」


 小声で交わされる囁きが、耳の端をかすめる。


 ——あ、ダメだ。これじゃ、きっと……。


 誰にも見つからないように、正解だけなぞって歩いていた時の私。無意識にするようになった目立たない歩幅。自分のことは誰よりも後回しにしておくのが安全だと信じ込んでいた頃の足取り。


 「自分として立つ」ことなんてしてこなかった。そのつけがこの本番できているみたいにだった。


 ちょうどそのタイミングで、観客席から別の声が聞こえるり


「あの子、なんだか私みたい」


 控えめな服装の女性が、隣の人に小さく呟いていた。


「なんか……こっちまで緊張してきた」


 見られる側としての評価が容赦なく耳に入ってくる。


 さっきまで胸にあった小さな熱が、一瞬で冷や水をかけられたみたいにしぼみかけた。


 ——やっぱり「普通」で、「無難」で、「つまらない」って言われる。


 ここでまた、いつものみたいに笑って誤魔化して、何もなかった顔してステージを降りれば——きっと誰も私のことなんて覚えてない。


 それでもきっと、明日の朝になったら、「やっぱりちゃんと立ってみればよかった」って、また後悔する。



 喉の奥まで、昔の自分の言い訳がせり上がってきた。


 ——私はそういう役だから。私は目立たなくていいから。私は……


 その「私は」のあとに続く言葉を、今度こそ変えなきゃいけないのに。



     ◇



 ふと視線を落とすと、自分のワンピースが目に入った。


 胸元と裾に施された結び目の刺繍。


 マリーが、「これはミナの術だよね」と、一針一針、糸を通してくれた模様。布の上で糸と糸が絡み合って、ほどけそうでほどけない小さな輪を作っている。


 ステージの光を受けてその糸がかすかにきらめいた。


 その瞬間、視界の端に観客席の一角が映る。


 一人の少女がいた。


 鎖を一本だけつけて、俯きがちに座っている。誰の視線も正面からは受け止めきれなくて、でも完全には目を逸らしきれない——そんな中途半端な姿勢。


 ああ、と胸の奥で何かが鳴った。


 あれは私だ。




 「目立たないね」と笑われた記憶。


 本当は「目立たなくていい」んじゃなくて、「目立っちゃいけない」って言われているように聞こえていたこと。


 「冒険者になりたい」と話した時に、真っ先に笑わなかったマリーの横顔。


 村を出て、夢と現実の段差につまずいて転んだ。床にこぼれた涙を誰にも気づかれないまま拭き取ったあの夜。


 それら全部が、今の私の足元に重なっている。


 ——あの子に、「ここまで来なくていいよ」とは言いたくない。


 でも、「こっちまで来ても大丈夫だよ」って、いつか胸を張って言えるようになりたい。


 そのためには、まず自分がここで立つしかない。


 「正解の姿勢」でなくていい。


 ——私として立つ。今日だけは、それをやめない。


 背筋は伸ばしたまま、肩の力をほんの少し抜く。胸の位置を“自分が落ち着く高さ”に下ろす。


 深呼吸を一つ。


 歩くテンポに旅のときのリズムを混ぜる。


 ガルドの大きな足音。セイルの軽いステップ。テオの一定の歩幅。


 その全部と一緒に歩いてきた時の、自分の足取りを思い出す。朝焼けの道、ぬかるんだ路地、坂道。誰にも見られていないところで、ちゃんと前に進んできた足のリズム。


 今、そのリズムをステージの上に持ち込む。


 観客を見る視線も、上からでも下からでもなく、「同じ高さ」を意識した。怖くてそらしたくなる目線を、ほんの少しだけ踏み堪えて、一人ひとりの輪郭を確かめる。


 一歩歩くたびに、まるで一本の糸が広場の空気に縫い込まれていくような感覚があった。


 足元で、影とスカートの裾が輪のように揺れる。その輪が何度も何度も、小さな結び目みたいな形を作ってはほどけていく。


 ほどけてもいい。何度だってまた、結び直すことができるんだから。



     ◇



 観客の反応が、少しずつ変わり始めた。


「さっきまでより、なんか自然」


「派手じゃないのに……どこか惹かれる」


「あの刺繍、なんだか落ち着くわね」


 バラバラに漏れる声の質が、さっきまでの「品定め」から、「自分の感想」に近いものへ変わっていく。


 鎖を一本だけ残していた少女が、それを指先でなぞった。しばらく無言で見つめてから、ふっと小さく笑う。


 その笑みは諦めでも服従でもなく、「もういいか」と肩の力を抜いた人の笑顔だった。


 そして、そっと外す。


 「これが正解」と宣言するような勢いじゃなくて、「今日はここまででいいや」と、自分で自分に許しを出したみたいな仕草で。


 逆に、まだたくさん鎖をつけている人もいた。


 「今日は無理」と思っているのが、その表情から分かる。でも彼女は自分の鎖をまじまじと見つめていた。今まで一度もちゃんと見たことがなかったものを、「これはなんだろう」と確かめ直すような目で。


 外せない鎖を握る手。


 外した鎖をポケットに入れる仕草。


 何もつけていない首元を、少しだけ誇らしそうに撫でる人。


 ——みんな、みんな、自分の「結び目」を持ってる。


 私だけが特別なわけじゃない。ほどきたくてもほどけないもの、結び直したくても怖くて触れないもの。それぞれが、それぞれの首元に、胸の奥に。


 


     ◇



 ステージ中央で、私は一瞬だけ立ち止まった。


 自分の胸元の刺繍にそっと指を添える。結び目の感触を確かめるように、布越しにその線をなぞる。


 それから、観客席に向かって深く一礼した。


 ——あなたの結び目を笑わない。


 言葉にはしなかったけど、その約束をできる限り全部込めて。


 空気がさらに一段階変わった。


 泣きそうになって口元を押さえる人。目を伏せて自分の膝を見つめる人。ポケットの中の鎖をぎゅっと握りしめる人。


 誰かはそっと笑って、誰かは眉をしかめて、誰かはただ黙って見ている。


 その反応の「バラバラさ」そのものが、この場所の新しい多様さとして立ち上がってくる。


 私は最後の一歩を踏み出し、ステージ端へと向かった。


 ——今引いた線の上に、みんなの足が乗り始めている気がする。


 観客から拍手が起きた。ぴったり揃った拍手じゃない。タイミングも音の大きさもバラバラな、でも熱のある拍手。


 「綺麗」よりも、「好き」「分かる」に近い空気。一部には、涙ぐんで拍手する人の姿も見えた。


 ステージから降りようとした、その瞬間——


「待ちなさい、あなた」


 アルミダの声が響いた。


 スポットライトが再びステージ中央に集まる。アルミダがゆっくりと立ち上がり、ヒールの音をカツ、カツ、と響かせながらステージへ上がってくる。


「アルミダ様が直々に?」


「褒めるのかな、それとも……」


 観客がざわめいた。さっきまでとは違う種類の緊張の混じったざわめき。


 心臓がドクンと跳ねる。喉の渇きが一瞬ぶり返す。


 でも、不思議と——さっきより足元はぶれていなかった。板の感触がちゃんと足裏にある。膝も、さっきまでみたいに笑ってはいない。


 アルミダが近づいてくる。舞台用に完璧に整えられた笑顔。その口角は美しく上がっているのに、目だけはまったく笑っていなかった。


「とても興味深い『ショー』だったわ」


 甘い声が毒のように耳に入る。言葉の表面は褒めているのに、奥底では何かを値踏みしているような響き。


「少しだけ、お話しましょうか。ここで」


 アルミダの視線が私を逃がさないように絡みついてくる。


 私はステージから完全に降りることをやめ、アルミダと向かい合う位置に立った。


 守られた背中も、吹き抜ける風も、整えられた足場も——全部、ここに繋がっていたんだ。


 そして今、私は一人でアルミダの前に立っている。

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