48話 静かな機能美
——守ってくれた背中のあと、風が通って、今、空気がやっと「普通の呼吸」に近づいてきた。
でも、まだ完全に緊張が解けきったわけじゃない。祭りの高揚感というよりは、ふわふわとした不安定さが残っている。何かが変わり始めている予感と、まだ変わりきらない現実が混じったような空気。
テオは見た目にはいつも通りだった。顔色も変わらないし、呼吸も乱れていない。外から見ると「一番落ち着いている人」に見える。
でも、私は気づいていた。ポケットの中で小さな金具や工具を触る回数が、いつもより明らかに多い。それがテオなりの緊張の表れだった。
「テオだけズルいくらい落ち着いて見えるな」
ガルドが言った。
「交戦状態ではない。危険度、低」
テオがいつもの調子で返す。
「でも『見られる』危険度はそこそこ高いよ?」
セイルが苦笑しながら指摘すると、テオが一瞬だけ黙った。わずかに視線をそらす。その仕草が「それは確かに」と言っているよう。
マリーがテオの前に来た。
「さっきも言ったけど……テオさんの服、着てくれて本当に嬉しいです」
「機能性、高い。実用的」
テオの評価は簡潔だった。でもマリーは小さく笑った。
「そう言ってもらえるの、すごく嬉しいです。テオさんに『便利』って言ってもらえるの、多分一番の褒め言葉だから」
——「便利」が、ちゃんと「褒め言葉」として受け取られる場面って、今までテオにはあまりなかったんじゃないかな。
そんなことを思いながら、二人のやり取りを見守った。
「テオさんが歩いてくれたら、『役に立つって、ちゃんと美しい』って……きっと伝わります」
その言葉に、テオがほんの少しだけ目を見開いた。
「確認、開始」
小さく呟いた声には、いつもと違う響きがあった。データを集めるためじゃなく、何かを確かめたいという、小さな挑戦の意志。
◇
アナウンスが響く。
「仕立て屋マリーの作品、三人目のモデルです——」
名前が呼ばれ、テオが一歩を踏み出した。
黒幕の隙間から覗くと、テオの服がよく見えた。
濃紺からグレーへのグラデーションが美しい上着。ラインはすっきりしているのに、腕回りや腰回りには動く余裕がちゃんとある。一見シンプルだけど、よく見ると細部まで計算されている。
ポケットが多いけれど、全部が意味のある位置にある。手を入れやすい高さ、小物が落ちない深さ、縫い目も全て補強済み。ボタンや金具の位置も機能とデザインを両立させている。
最初の数歩は歩幅も歩行リズムもほぼ一定だった。顔もまっすぐ前、姿勢も教科書のようにまっすぐ。まるで計測器が歩いているような正確さ。
「あれはあれでスゴいな」
「ちょっと怖いかも?」
観客の囁きが聞こえる。
——ガルドが「守る一歩」、セイルが「風の一歩」なら、今のテオは「計測する一歩」。
でも、このままだとテオ本人の大事にしているものが伝わりきらない気がして、胸が少しざわついた。
◇
中央に差しかかったあたりで、テオの足が一瞬だけ止まりかけた。
「あれ?」
観客から小さなざわめきが起きる。
きっとテオは今、足音の反響、ポケットに入った道具の重さ、布の触感、観客の視線——それら全てを「データ」として受け止めているみたい。
そして、次の瞬間。
テオの歩き方が変わった。
足の運びは正確なまま、でも身体の重心のかけ方が違う。まるで工房で作業している時のような、慣れた現場を歩く職人の動き。床の状態を確かめるような、でも迷いのない足取り。
ポケットに触れる手つきも、無意識に位置と収まりを確認する仕草になった。
見た目の印象が、「計測されている側」から「現場を整えてくれる人」に変わっていく。
観客の反応も変わった。
前列に座っている荷運びの男や、道具屋、魚屋など、働く人たちの視線が集まり始める。
「あのポケット、道具入れやすそうだな」
「肩の動きやすさ、現場向きだぞ」
プロ目線の囁きが聞こえる。
主婦層からも声が上がった。
「汚れが目立ちにくそう」
「動きやすいのに、だらしなく見えない」
生活に根ざした、実感のこもった声。
そして、テオがステージの端に近づいた時に小さなハプニングが起きた。
観客席側で、子どもが「見て見て」と言うようにオモチャを振った拍子に、それが手からすっぽ抜けた。軽い音を立ててステージの床に落ちると、コロコロと転がっていき、中央付近まで転がり出てしまった。
テオは歩みを崩さず、すっとポケットから薄い革切れを取り出した。
使い込まれて少しだけ艶の出た小さな作業用マット。
自然な動作でオモチャを拾い上げ、その革をステージの縁にそっと広げてから転がらないよう真ん中にオモチャを置いた。
派手に目立とうとしているわけじゃない。ただ「必要だからやる」という、ごく自然な動き。
でもその瞬間、観客の目にポケットの位置や開き方、取り出しやすさが自然に入った。
「今、全然もたつかなかった」
「ポケット、ちょうどいい高さなんだ」
「引っかかりもなかったな」
感心した声があちこちから聞こえる。
「ありがとう、お兄さん!」
子どもが嬉しそうに言った。親が恥ずかしそうに頭を下げる。
「……こういう美しさも、いいね」
親の呟きが、小さく響いた。
テオは軽く会釈するだけで特に表情は変えない。でも、その仕草が過剰にへりくだらない、自然な礼として映った。
◇
ステージ正面のアルミダを、私はちらりと見た。
マリー、ガルド、セイルの時とは違う表情をしている。直接の敵意というより、価値観のズレに戸惑っているような顔。
「美は人前で飾るもの。裏方の機能は見えないところに押し込めておくべき」——そんな考えが、わずかに顔に滲んでいる。
でも、観客の一部が「役に立つからこそいい」と囁いているのを聞いて、眉がほんの少しだけ動いた。
テオは最後まで速度を崩さず、きっちりとステージ端まで歩き切った。
終わり際にテオは、作業場で一日の仕事を締める職人のようにポケットの上から中身の収まりを指先で確認し、それから静かに一礼してステージを降りていった。
拍手が起きた。
ガルドの時ほど「頼もしさ」はなく、セイルの時ほど「楽しさ」もない。でも、別種の温かさがあった。
「こういう服も欲しい」
「うちの息子に着せたい」
「現場用にいいな」
生活に根づいた感情が、拍手に混じっていた。
◇
テオが戻ってきた。
一見いつも通りだけど、耳の先がわずかに赤い。襟元を少しだけいじっているのも、微妙な「照れ」のサインだった。
「おい、なんか『現場感』がすごかったぞ」
ガルドが言った。
「ステージってより、仕事場みてぇだった」
「うん、安心した」
セイルも頷く。
「あれなら『着たい人』絶対出てくる」
「テオが歩いてるの、見てるだけで『この服で動いたらミスしなさそう』って思ったもん」
私の言葉に、テオは一拍置いてから答えた。
「……歩行データ、悪くなかった」
さらに小さく付け足す。
「観客の視線、拒否ではなかった。……多分」
それが彼なりの「楽しかった」「悪くなかった」という感情表現なんだろう。
マリーが駆け寄ってきた。
「テオさん……すごく、安心しました」
彼女の目には涙が浮かんでいる。
「私の服が『役に立てる場所』で見てもらえたの、初めてだから」
テオはマリーを見つめ、短く告げた。
「こちらこそ。……良い、道具」
——テオの中で、「服」が道具としても、見せるものとしても、ちゃんと認められたんだ。
「ミスしなさそうな服」って、見た目よりずっと贅沢な美しさ。そんなことを思いながら私は小さく微笑んだ。
◇
黒幕の向こうは、さらに空気が落ち着いていた。でも、どこか期待を含んだざわめきもある。
「守る服」「軽やかな服」「動ける服」ときて、観客も「次はどんな服だろう」と自然に思い始めているようだった。
進行役の声色も変化していて、「最後のモデル」の紹介に向けて熱を高めている気配がする。
スタッフが声をかけてきた。
「四人目のモデルさん、準備をお願いします!」
みんなの視線が私に向いた。
守られて、風が通されて、整えられた道。
震えも不安も楽しさも全部抱えたまま、その真ん中を——私は自分の足で歩いていく。




