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第47話 風を連れて歩く

 ガルドが戻ってきた直後も、黒幕の向こうからはまだ拍手とざわめきが続いていた。


「……生きて帰ってきた感じするな」


 ガルドが半分本気の冗談を言いながら、額の汗を乱暴に拭った。大きな胸板が上下しているのがそこからでも分かる。


「すごく似合ってました」


 マリーが改めて言うとガルドの耳がさらに赤くなる。尻尾が落ち着かなく揺れていて、さっきまでの堂々とした背中とのギャップに思わず笑いそうになった。


 ——ガルドの一歩が、確かに空気を変えた。


 張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩んだような。でも、まだ完全にはほぐれていない。ぴん、と弦のように張りつめた空気の隙間に、今度は“風”が通る。


 スタッフが再び声をかけにきた。


「二人目のモデルさん、そろそろ位置についてください」


 セイルの肩がぴくっと跳ねた。でも、すぐにいつもの笑顔でごまかす。


「……ねえミナ、今からちょっと逃げるってアリ?」


「ナシ」


 私は即答した。


「風は逃げないでしょ」


「うわ、かっこつけてるけど実は厳しい」


 セイルが苦笑いを浮かべる。口元は笑っているのに指先だけ少し強張っているのが見えた。


「心拍数測、俺よりお前の方が絶対上がってるぞ」


 ガルドがからかうように言った。


「推測値、プラス三十パーセント」


 テオが真顔で付け加える。


「ねえ、テオはちょっと黙ってて!?」


 セイルが慌てて手を振った。こんなやり取りも、いつも通りの私たちで少し安心する。こうして騒いでくれているおかげで、「ステージに出る」っていう現実の怖さが、ほんの少し薄まった。


 マリーが一歩前に出てセイルの前に立った。


「さっきも言ったけど……セイルさんが歩いてくれたら、きっとみんな、ちょっと息がしやすくなると思う」


 静かだけど真っ直ぐな声。その言葉を聞いてセイルの表情が変わった。冗談めかした笑みの下に、いつもの“風を読む目”が戻ってくる。


「……なら、ちゃんと深呼吸させてこないとね」


 少しだけ息を吐きながら、セイルが言った。


 セイルはいつも、「逃げ道」や「風の流れ」を読んで危険を察知し、安全な道を示してくれる。戦闘でも旅の道でも、彼が一度「こっち」と言えば、安心してその道を選べた。


 ——だから今回も、この広場に“逃げ道”じゃなくて、「吸い込める風」を通してくれる。


 期待と不安を半々で抱きながら、私はセイルの背中を見送った。




     ◇




 アナウンスが響く。


「仕立て屋マリーの作品、二人目のモデルです——」


 名前が呼ばれ、セイルが深呼吸をしてステージへ向かった。


 黒幕の隙間から見ていると最初の二、三歩はほんのりぎこちなかった。「完璧なモデルウォーク」の教本が、まだ足に残っているのかもしれない。


 背筋を伸ばしすぎて腕の振りが少し不自然。普段のセイルの歩きじゃなくて、「セイルが頑張って“セイルじゃない歩き”をしている」みたいな感じ。


「今度は細身の人?」


「さっきの人とはだいぶ違うね」


 観客のざわつきが聞こえる。好奇心と比較の視線が一斉にステージ上の細い影に向けられていた。


 セイルの衣装は、薄い緑のシャツに風をはらみやすい生地のベスト。袖が少し広がっていて、歩くたびにひらりと揺れる。ズボンも動きやすい形で膝や腰のあたりにほんの少し余裕がある。


 ——「見せるための」服というより、動いて初めて完成する服だ。


 そう思った瞬間、真ん中あたりまで来たところで、セイルがふっと肩の力を抜いた。


 あ、今完全に「教本」を手放したんだって、私にはわかった。


 背筋の張り方が変わる。まっすぐすぎる線が少しだけしなやかに。


 次の瞬間にはセイルの歩きが変わった。足の運びが旅のときの「気楽な足取り」に近くなる。道の硬さを確かめながらも、どこか余裕を残したステップ。


 自然で、軽やかで、見ているだけで胸の中の空気が軽くなっていくような歩き方。


     ◇


 セイルが歩くリズムに合わせて、広場の風の流れが変わっていくような感じがした。


 ステージの布飾りが少し揺れ、観客の髪がふわりと持ち上がる。誰かのスカーフが少しだけふわっと浮く。海から吹いてくる風と、セイルの動きがどこかで重なっているみたいだった。


 本当に風が強くなったのか、それともセイルの歩きがそう見せているのかは分からない。でも——空気が確かに動いている。


 ステージ脇に鎖をたくさんつけた若い女の子がいた。首元だけじゃなく、腕や腰にも細い鎖が巻かれている。たぶんアルミダ派の「見本」として目立つ場所に座らされている子だ。


 セイルとその子の視線が合った。


 セイルがほんの少しだけ肩をすくめて、いたずらっぽく小さく手を振った。大げさなポーズでも決めた笑顔でもない、ごく自然な「やあ」のジェスチャー。


 まるで「堅苦しいのは疲れるよね」と言っているみたいな、共犯者を誘うような仕草。


 女の子が一瞬ぽかんとして、それから、堪えきれないみたいにぷっと笑いをこぼした。肩が小さく揺れる。その笑い声につられるように隣の子がくすっと笑い、さらにその隣の子が表情を緩める。


「さっきの人は『守ってくれる感じ』だったけど、この人は……」


「一緒に歩けそう」


「こういう軽い感じの服もいいな。動きやすそうだし、なんか楽しそう」


 観客の声が変わっていく。


 さっきまで「比較」や「品定め」の目だった視線が、「自分が着るとしたら」という想像を含んだ目に変わっていく。服を見る目線に、「もし自分だったら」という風が混じり始めていた。


 少し離れた場所で、一人の女性が自分の鎖に手を伸ばしていた。首に二本巻かれた鎖の一番外側の一本に指がかかっている。


 外す勇気まではないみたいで、指先で触れては離れ、また触れては離れを繰り返している。喉もとで小さな金属がかすかに鳴った。


 ——今日だけは、一本外してポケットにしまってみようかな。


 そんな迷いが、その仕草から伝わってきた。結局、彼女はその場ではまだ鎖を外さなかったけれど、その迷いそのものが確かに変化の証だった。


 そして、セイルがステージ中央でターンした時——


 生地をはらむように、ひときわ大きく風が起きた。ベストの裾がひらりと舞い、袖口が柔らかく膨らむ。


 その風で、ステージ脇に立てられたアルミダのポスターの端が、ペラッとめくれた。


 その下から、昔の街の祭りのポスターが少しだけ顔を出す。紙の色が少し黄ばんでいて、印刷も少し古い。でもそこに写っている人たちは、今と同じように笑っていた。


 鎖も雫もない、普通の笑顔の人たちが写っている古いポスター。


「あれ……昔の祭りの……」


 誰かが小さく呟く。


 アルミダ陣営のスタッフが慌ててポスターを直したけれど、もう見た人は見てしまった。目に入ったものは、もう「なかったこと」にはできない。


 この街にも鎖のない時代があったという記憶が、ほんの一瞬だけ顔を出した。


 ——風って、誰かの背中を押す時もあれば、めくれちゃいけないものをめくる時もある。


 でも、今はそれでいい。

 

 隠されていた街の「記憶」が、風にめくられて少しだけ光を浴びたことに私は確かな手応えを感じた。




     ◇



 セイルがステージの端まで来る頃には、もう完全に「自分の歩き方」になっていた。


 足取りは軽いけれど軽薄じゃない。ちゃんと地面を踏んでいるのに、どこか「いつでも飛び出せる」余白を残している。


 最後の一歩を踏み出す時、セイルはわざと少しだけ軽く跳ねるように歩いて、ベストの裾をひらっとさせた。子どもみたいな無邪気さと大人の余裕が混じった、セイルらしい締めくくり。


 観客から自然な笑いと拍手が混ざった反応が起きた。


 ガルドのときよりも、「楽しかった」「空気が軽くなった」という感じの、温かい拍手。


 ——さっきまで張り詰めていた空気が少しずつほぐれていく。


 セイルがバックステージに戻ってきた途端、ドッと膝が抜けそうになった。壁に手をついてしゃがみ込みそうになりながら、大きく息を吐く。


「はぁぁ〜〜〜……生きてる……」


「お前、戦闘より疲れてねえか」


 ガルドが笑いながら言った。


「発汗量、想定以上」


 テオが冷静に観察結果を述べる。


「だからそれ、毎回言わなくていいから……」


 セイルが疲れを滲ませた顔で静かに抗議した。耳の先がほんのり赤く、髪も汗で少し額に張り付いている。


 マリーが駆け寄ってきた。


「セイルさん、すごく……軽やかでした」


 彼女の顔には安堵と喜びが浮かんでいる。緊張の名残りで少し強張っているけれど、その目はしっかり笑っていた。


「見てるこっちまで、息しやすくなりました」


 それを聞いて、セイルが「でしょ?」と笑った。その笑顔は、さっきステージで見せた“作り物じゃない笑顔”と同じだった。


「ちゃんと、風通してきてくれたね」


 私が言うとセイルは満足そうに頷いた。


「うん。あとはこの風が止まらないうちに、次に繋いでもらおうかな」



     ◇



 黒幕の向こうから聞こえてくる音が、また少し変わっていた。


 さっきよりも、笑い声が混ざっている。でも、その笑いは「馬鹿にする笑い」じゃなくて、「ほっとした笑い」。張り詰めた肩が少し落ちた音がするような、そんな笑い。


 ステージの上では進行役が何かを繋いでいるらしく、観客と軽い掛け合いをしている声が聞こえる。さっきよりも声のトーンが柔らかい。


 スタッフが次の出番を告げに来た。


「三人目のモデルさん、準備お願いします!」


 全員の視線が、自然とテオに向いた。


 テオは表情を変えない。でも、さっきまで指先でいじっていた小さな金具を、そっとポケットにしまった。その仕草が、彼なりの「覚悟」の合図に見えた。


「……次、僕」


 静かな確認の声。いつもと変わらない平坦な口調だけど、言葉の端に小さな熱が宿っているのを私は聞き逃さなかった。


 守る背中のあとに吹いた風が、今、しんと落ち着いていく。


 その静けさの真ん中へ——次は、テオの一歩が踏み出される。

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