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第46話 守る背中の歩き方

 観客席からステージ袖へ案内される道は思っていたより長かった。


 スタッフが慌ただしく走り回っている。「予定変更です! 職人ステージ前倒し!」という声が飛び交い、黒い幕の向こうから観客のざわめきが絶え間なく聞こえてくる。


 さっきまで観客だった自分が、今は「見られる側」の通路を歩いている。足元の板が軋む音も、息をする音も、全部がやけに大きく響く。



 黒幕の隙間から覗くと、まだざわついている観客席が見えた。


 さっきマリーが「飲みません」と告げたステージ中央にはもう誰も立っていないのに、その周りだけ空気がまだ揺れているみたいだった。装飾の金と赤と紫が朝の光を受けてぎらついているのに、観客席の色は少し落ち着いて見える。


 鎖をたくさんつけている人もいれば、一本だけ残している人もいる。さっきまでほとんど同じ方向を向いていた視線が今はあちこちに散っていて、それぞれがそれぞれの考えを探しているようだった。


 耳を澄ませると、「本当に飲まなかったね」「でも、あの子かっこよかった」という声が少しだけ混じって聞こえてくる。


 広場全体が大きく息を吸ったまま、まだ吐き出せずにいる——そんな感じだった。




     ◇




 ステージ裏の控えスペースで私たちは小さく輪になった。


 マリーはステージから降りてきたばかりで、頬はまだ少し青いけれど、その目はしっかりと前を見ていた。さっきまでステージの真ん中にいた人なのに、今は私たちと同じ高さで息をしている。


「……ちゃんと、言えた」


 マリーが、胸の前で握っていた手をゆっくり開きながら言った。握りしめていた手の甲には、さっき瓶を強く掴んでいた時の赤い跡が残っている。


「怖かった。足も震えて……でも、『飲みません』って言えたよ」


 その声は震えていたけれど、後悔の色は一つもなかった。

 

 むしろ自分で自分に驚いているような、そんな響きだった。


「巻き込んじゃって、ごめんね、じゃなくて……」


 マリーは言い直すみたいに息を吸い込む。


「一緒に、立ってくれてありがとう」


「こっちこそ、ありがとうだよ」


 今度は少しだけ間を置いてから私は言った。


「マリーがあそこで『飲まない』って言ってくれたから、私たちの出番もちゃんと意味を持てるんだもん」


 喉の奥が少し熱くなる。昨日までだったら絶対に言えなかった言葉だ。


「よくやったな」


 短く、でも重みのある声でガルドが続けた。


「一番ヤバい場所で一番ヤベぇ選択したんだぞ。あんなん普通、足すくんで何も言えなくなる」


 ぶっきらぼうな言い方なのに、その下にあるのが尊敬だって分かる。


「……うん」


 マリーが、照れたように笑った。少しだけ肩の力が抜ける。


「マリーが道を開けてくれたんだ。あとは任せろ」


 今度のガルドの言葉は、いつもの戦いの前と同じ、頼れる声だった。


 肩幅の広い体を少し前に出して輪の前側に立つ。その姿は戦いの前に盾を構える時と同じだったけど、今は手には何も持っていない。


 代わりに、マリーの作った服——深い色の上着とズボンが彼の体にぴたりと馴染んでいる。

 胸元の刺繍が、まるで「ここから先は俺が守る」と宣言している紋章みたいに見えた。


 黒幕の隙間を覗いていたセイルが、こちらに振り返る。


「風、変わったよ」


 セイルはそう言ってから、マリーに笑いかけた。


「マリーが一発で空気をかき回してくれたからだね」


 マリーの目が少しだけ潤む。


「観客の視線、固定から分散に移行」


 テオが、いつもの調子で淡々とまとめる。


「アルミダだけを見ていた状態から、互いを見始めてる。計画……上出来」


 最後の「上出来」に、ほんのわずかだけ柔らかさが混じっていた。


 マリーは一度、大きく息を吐いた。


 それから、私たち一人ひとりの顔を順番に見つめる。覚悟を確かめる、というよりは、「ちゃんとここにいるんだ」と確かめ直すみたいな目だった。


「ガルドさん」


 最初に、マリーはガルドの方へ向き直った。


「……いつもみたいに、前に立ってください」


 その言葉はお願いというより信頼の宣言だった。


「マリーの服を壊さねえ程度にな」


 ガルドが、照れ隠しみたいに鼻を鳴らす。


「……おう」


 そう言いながらも、耳が少しだけ後ろに寝ていて、本音では緊張しているのが分かる。


 次にマリーはセイルを見る。


「セイルさんの服、私……作りながらずっと思ってたの」


「え?」


「歩くたびに、ちゃんと風が通るようにしたいなって。だから……」


 マリーは、セイルの袖のあたりをそっと摘まんだ。


「風を連れて歩いてください。みんな、少し息がしやすくなるように」


 セイルはふっと笑った。さっきまでの張りつめた横顔が少しだけ柔らかくなる。


「うん。じゃあ、ちゃんと換気してくるよ」


「換気……」


 思わず笑いそうになったけど、その軽口がありがたかった。マリーも小さく肩を震わせて笑う。


 そして、テオの方へ向き直る。


「テオさんの服はね……」


 マリーは言葉を探しながら、テオの上着のポケットに視線を落とした。


「見た目はシンプルだけど、触ってみるとすごく落ち着くの。きちんとしてて、無駄がなくて。でも冷たくない」


「……機能性重視」


 テオが小さく相槌を打つ。


「うん。その“ちゃんとしてる感じ”が、安心になると思うの。だから……テオさんが歩いてくれたら、『こういう美しさもあるんだ』って、きっと伝わる」


 テオは瞬きを一度だけして、「了解」とだけ答えた。その一言に彼なりの嬉しさが滲んでいる。


 最後に、マリーは私の方を向いた。


「ミナ」


 名前を呼ばれただけで、何かが込み上げてくる。


「……ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」


 それは、さっきステージの上で言った「飲みません」と同じくらい覚悟のこもった声だった。


「ミナが、“飲まなくてもいい道”を一緒に考えてくれたから、私……今日、あそこに立てた」


「そんなの——」


 私は思わず言いかけて、言葉を飲み込む。否定するのは簡単だけど、マリーがそう受け取っているのなら、それをまるごと否定したくはなかった。


「私も、マリーがいてくれたからここにいるよ」


 代わりにそう返す。


 泥だらけの畦道で、「冒険者になりたい」と言った私の話を笑わずに聞いてくれた、あの時の声と今の声が胸の中で重なった。



     ◇



 スタッフが近づいてきた。


「職人ステージ、マリーさんの店のモデルの方々は順にお呼びします。最初のモデルさん、準備してください」


 ガルドの肩がビクッと跳ねた。明らかに力が入りすぎている。


「大丈夫? 盾忘れてない?」


 セイルが冗談めかして聞く。


「忘れてねえよ! 今日は盾いらねえ日だろ!」


 強がりが空回りしている。こんなに緊張してるガルドを見るのは初めてかもしれない。


「心拍数、平常時プラス二十パーセント」


 テオが淡々と報告する。


「おい、測るな!!」


 ガルドのツッコミにみんなが小さく笑い、少しだけ空気が和らぐ。


 


 出番直前、ガルドが私に小声で言った。


「なあミナ、もし俺がド派手に転んだら笑えよ」


「うん、全力で笑う」


 私は答えた。


「でも、多分笑いながら誇らしくなると思う」


 ガルドは照れたように耳を動かし、深呼吸をした。胸が上下するたびにマリーの服の布がわずかに揺れる。

 その揺れが、これから歩き出す彼の心臓の鼓動をそのまま形にしているみたいだった。



     ◇


 


 アナウンスが響く。


「続いて、仕立て屋マリーの作品です。モデルは——」


 名前を呼ばれ、ガルドが一歩踏み出した。


 黒幕の隙間から私はステージを見守る。


 最初の一歩は重かった。板が小さくきしみ、大柄な体に会場が一瞬ざわめく。「でかい」「怖そう」という声も混じっていた。


 ——戦いに出る時の一歩より、ずっと重たそうに見えた。


 でも、その「重さ」はただの緊張だけじゃない気がした。自分だけじゃなく、マリーの想いも、この街の人たちの迷いも、一緒に背負っているからこその重さ。


 ガルドの服は、深い色合いの上着と、しっかりとした生地のズボン。肩にはさりげない補強が入っていて、胸には守護の紋章のような刺繍が施されている。派手ではないけど、一目見ただけで「強い」と思わせる形をしていた。


 最初はその大きさに圧倒されていた観客も、歩みが進むにつれて声を潜めていった。


 途中でガルドの歩き方が変わった。


 姿勢を整え直し、「守る」歩きに切り替わる。胸を張るけど威圧じゃない。一歩ごとに「ここを通っていいよ」と道を示すような、そんな歩き方。


 いつも戦場で私たちの前に立つ時と同じ、でも今は剣も盾も持っていない。

 ただ、自分の体とマリーの服だけを連れて歩いている。


 観客のざわめきが、少しずつ変化していく。


「……なんか、怖いっていうより」


「安心する感じ……しない?」


 そんな声が混じり始める。


 小さな子どもが母親の服の裾に隠れかけた。鎖の音と歓声に圧倒されて、目に涙を溜めている。けれど、歩く途中でガルドと目が合う。


 ガルドがほんの少しだけ口元だけで笑った。大きな体に似合わないくらい不器用で小さな笑顔。でも、それが逆に優しく見える。


 子どもの表情が「怖い」から「なんか頼もしい」に変わっていく。裾を掴む手が少しだけ力を緩めたのが見えた。


 その子の母親は、首に細い鎖を一つだけつけていた。さっきまでは、他の誰かと同じように見えたその鎖が今はやけに目立って見える。


 ガルドが通り過ぎたあと、母親がそっとその鎖に手を伸ばす。


 一瞬ためらい、子どもの頭を撫で、小さくため息をつき——


 カチャン。


 音を立てて、一本外した。


 鎖が彼女の手から離れてポケットの中に落ちる。その小さな音が、私にはやけに大きく聞こえた。


 ——たった一本。でも、その一本にはこの人の何年分もの我慢が詰まっているかもしれない。


 ガルドの一歩が、その一本を外させたんだ。


 観客から声が漏れ始める。


「……なんか、安心する」


「ああいう服、悪くないわね」


 一部の男性も、「あれなら俺も着てみたいかも」と囁いている。美が女だけのものじゃないことを、みんなが少しずつ思い出し始めている。


 ステージ正面に座るアルミダの表情を私はちらりと見た。口元は笑っているのに目だけが少し冷たく細められている。笑顔のまま視線だけを横に滑らせ、隣のスタッフに何かささやく姿が見えた。


 ガルドは振り向かず、まっすぐ前だけを見て歩き切った。


 最後の一歩を踏み出した瞬間、ガルドの足もとから見えない線がステージの端まで引かれたように感じた。その線は、「ここから先は、お前たちの好きに歩け」と言っているみたいだった。


 観客からの拍手が起こる。最初はまばらだったのが少しずつ大きくなっていく。


 それは「美しさ」に送られた拍手。そして、「こんなふうに前に立つ人がほしい」という拍手にも聞こえた。



     ◇



 ガルドがステージ裏に戻ってきた。


 耳が真っ赤で、尻尾が落ち着かない。大柄な体がさっきより少しだけ軽く見える。


「お、おう……どうだった?」


 半分ビビりながら聞くガルドにセイルが笑った。


「うん、バッチリだったよ」


「安定感、最高値。観客の目線、安心感にシフト」


 テオも珍しく褒めた。手帳を閉じて短く頷く。


「ね、『転んだら笑う』って言ってたけど、全然笑えなかった」


 私は言った。


「すごくよかったよ」


 ガルドは照れくさそうに頭を掻いた。耳がさらに赤くなる。


 

 ステージから聞こえてくる音が、少し変わっていることに気づいた。次の案内アナウンスの声色がさっきよりわずかに柔らかい。観客席のざわめきも、ただ「見る側」から、何か別のものに変化している。


「さっきの人みたいな服がいい」


「鎖ばっかりじゃなくても……」


 黒幕の隙間からそんな声が聞こえてくる。


 スタッフが再び現れた。


「続いて二人目のモデルさん、準備をお願いします!」


 セイルが立ち上がった。風を吸い込むみたいに大きく一度息を吸い、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。


「……さ、風を回してこようか」


 冗談めかした口調だけどその目は真剣だった。


 マリーがこじ開けて、ガルドが広げたその隙間に——今度は、セイルが風を通しに行く。

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