第45話 鎖を断つ声
マリーがステージに上がっていく。
一歩、また一歩。足元がわずかにもつれているのが離れた場所からでも分かった。細いヒールが板の継ぎ目を踏むたび、かすかな軋みがこちらまで伝わってくる。
首の鎖が小さく鳴る。その音はいつもより軽い——鎖の数が減ったからか、それとも彼女の歩みが変わったからか。
耳元で揺れる小さな花のイヤリングだけが、彼女本来の色として光っていた。あれは、地下の工房で埃まみれになりながらも大事に箱から出してきたマリーの「好き」のかけら。
「あの仕立て屋さんだ」
「光栄よね、最初に飲ませてもらえるなんて」
観客席からひそひそと声が聞こえる。羨望と好奇心が混じった視線がステージの上に集中していた。
けれど、鎖を減らした女性たちの表情は複雑だった。期待と不安が入り混じり、手が無意識に自分の鎖に触れている。指先で金属の感触を確かめて安心したいのか、それとも本当は外してしまいたいのか——。
アルミダはステージ中央で待っていた。
スポットライトが彼女を神々しく照らす。金と赤の装飾が光を乱反射させ、彼女の周囲だけ別の世界みたいに眩しく見える。手の動き一つ、笑顔の角度まですべてが計算されているように見えた。
「さあ、マリー」
甘く響く声。アルミダはガラスケースから「永遠の輝き」を取り出した。
瓶を高く掲げ、光にかざす。金色の液体がきらめき観客の瞳に反射した。誰かの目の中にあの金色の光が小さな火種みたいに灯るのが一瞬見える。
「これは救済よ。永遠の美しさ。すべての恐れからの解放」
言葉の一つ一つがまるで聖なる儀式のように響く。祈りでも祝福でもなく、本当は「服従」の言葉なのに。
——これは救いなんかじゃない、悪質な宗教儀式だ。
私の背筋に冷たいものが走る。鳥肌が腕に広がっていくのを感じながら、握る手にぎゅっと力を込めた。
◇
アルミダは優雅にマリーに近づいた。長い裾が床を滑り、光沢のある布が波のように揺れる。
「あなたはいつも私の美を支えてくれた」
褒め言葉のような、でも逃げ道を塞ぐような声。
「だからこそ、あなたには最初にこの『永遠の輝き』を受け取る資格がある」
観客から「すごい」「羨ましい」という声が上がる。誰かがぱちぱちと拍手を始め、それに続くようにまばらな音が増えていく。
でも、一部の人たちは目を逸らした。見ていられないという顔で。首元の鎖をぎゅっと握りしめる仕草がやけに目につく。
マリーは震える手で瓶を受け取った。
その手を見て、私は息が詰まりそうになった。あの手は、地下の工房で丁寧に針を動かしていた手。老漁師の妻のドレスを、愛情を込めて縫っていた手。
真っ白な布に小さな花を一つ一つ刺繍していった時の、あの指先の温度を私は知っている。
——あの手は服を作るための手であって、自分を縛るための手じゃない。
心の中で叫ぶけど声は出せない。ここで叫んだら、きっと全部が台無しになる。
今は、マリーが自分で選ぶ時間。
「どうぞ」
アルミダが促した。
「みなさんの前で、新しい美を」
マリーの喉が上下した。
ごくり、と、小さな音が会場全体に響いた気がする。瓶がゆっくりと持ち上げられ……震えが、そのまま液面に伝わって波紋が揺れた。
唇のすぐ近くまで——。
会場が静まり返った。
息をする音さえ聞こえないほどの静寂。誰も咳払いひとつしない。風鈴みたいに鳴っていたどこかの鎖の音さえ止んでしまったような気がした。
私の心臓の音だけが異様に大きく響く。耳の内側で、ドクンドクンと鈍い音が繰り返される。視界がぐにゃりと歪むような感覚。焦点が合っているのかどうかも分からない。
まるで、時間が引き延ばされていくような。
数秒のはずなのに、ひどく長い。
瓶が唇に触れそうになった、その瞬間——
私の視界の端に、老漁師の妻の姿が映った。観客席の端で彼女はドレスの裾をぎゅっと握りしめている。マリーが作ったあの生成りのドレス。薄い布地が握られたところだけ少しくしゃっとなっている。
彼女だけじゃない。パン屋の女将も、花屋の娘も、みんなが何かを飲み込むように息を止めてマリーを見ていた。その目の中にあるのは、ただの好奇心なんかじゃない。「お願いだから」と祈るような、不器用な期待。
風が吹いた。
海の方角から吹き上げてきた風がステージの幕を揺らし、マリーの耳元で花のイヤリングを揺らす。小さな花が光を受けて一瞬だけきらりと光った。
そして、瓶がピタリと止まった。
「……飲めません」
かすれた声が会場に響く。
私たちのいる場所まで、その細い声がちゃんと届いた。胸の奥を小さな針で刺されたみたいに痛いのに、同時に熱い。
「……なんですって?」
アルミダの笑顔が一瞬固まった。目の奥の光が一瞬だけ揺らぐ。
でも、すぐに優しい表情を作り直す。完璧な仮面がほんの数呼吸で元に戻るのが逆に不気味だった。
マリーは瓶を少し下げもう一度、今度ははっきりと言った。
「私は、この『永遠の輝き』を、飲みません」
その言葉が広場に響いた瞬間、雷が走ったような感覚がした。空気が一度だけ震え、どこかで誰かが息を吸い込む音がやけに大きく聞こえる。
これが、マリーの答え。
彼女が自分の足で踏み出した、一歩。
◇
アルミダの笑顔は崩れなかった。むしろ、より優しげな表情を作った。頬の角度だけがほんの少しだけ上がる。
「緊張しているだけよね?」
柔らかい声。でも、その奥に潜む圧力を感じる。背中を撫でているふりをしながら、首筋を掴んでいるような声。
「怖がらなくていいのよ。みんな、あなたが飲む姿を待っているわ」
——怖がることは醜いこと。そう暗に仄めかしている。
「怖がるな」という言葉で、怖さそのものに蓋をしようとしている。
でもマリーは首を振った。
「怖いからじゃありません」
震えていた声が少しずつしっかりしてくる。声の質が変わっていくのが分かった。最初は自分に言い聞かせるみたいだったのが、今は誰かに届いてほしいという願いに変わっている。
「私は……これに頼ってまで美しくなりたくありません」
観客がざわめき始めた。
前の方の席で「なんてことを」と口を押さえる人もいれば、小さく頷く人もいる。鎖の金属音が、さっきまでの「飾り」ではなく、本当の「鎖」の音に聞こえ始めていた。
アルミダの目が細まった。声はあくまで上品に、でも内容は鋭く冷たい。
「……あなた一人が好き勝手にわがままを言えば、この街全体の調和が乱れるのよ?」
言葉のナイフが静かにマリーに向けられる。表面は磨かれて光っているのに、刃は恐ろしいほど鋭い。
「個性という名の醜さを、あなたはまた撒き散らしたいの?」
一瞬だけ、私の胸の奥もきゅっと縮こまった。昔、私自身が言われた言葉が、遠くの記憶から引っ張り出される。「地味」「目立たない」「空気読め」。世界の“普通”に合わせられなかった時の、あの居場所のなさ。
でも——。
「違います」
マリーは顔を上げた。
涙でにじみそうになっていた目に、今は静かな光が宿っている。
「調和のために、自分を空っぽにしたくありません」
空っぽ——その言葉は、この街の女性たちが密かに感じていた恐怖そのもの。誰かの決めた「美しさ」に合わせるたび、自分の中身が薄まっていく感覚。笑うたびに、本当の気持ちをどこかに置いていくあの感じ。
「みんな同じに揃えるのは」
マリーは続けた。
「美しさじゃなくて、ただの『怖がり』です」
息を呑む音が、今度ははっきりと聞こえた。
会場の空気が変わった。
鎖に手を伸ばす人、雫の瓶を握りしめたまま動けない人。老漁師の妻、パン屋の女将、花屋の娘、そしてリサが、小さく頷いているのが見えた。みんな、今まで喉の奥に押し込めていた言葉を、マリーに代わりに言ってもらったみたいな顔をしている。
「あの子、よく言った……」
「でも、アルミダ様に逆らうなんて……」
囁き声があちこちから聞こえる。賛成と恐怖が入り混じった声。世界がひとつの正解から少しだけずれ始める音。
隣でガルドが、ぎゅっと拳を握る音がした。セイルは、目を細めて風の流れを読むように会場を見渡している。テオは表情こそ変えないけれど、その目だけがいつもよりずっと鋭く動いていた。
アルミダは一歩、マリーに近づいた。
笑顔は保っている。でも、目の奥に冷たい光が宿り、声の端に初めて棘が混じる。
「そう。あなたは……私の手から離れたいのね」
静かな、でも凍りつくような声。
「では——自分で証明なさい。『鎖も、雫もいらない美しさ』とやらを」
アルミダは大きく手を広げた。
「ちょうど都合よく、今日は職人たちのステージも用意されているわ」
その視線が観客席の端にいる私たちを捉えた。氷のような目。視線が皮膚の表面を滑るのではなく、骨の奥まで刺さってくるみたいだ。
「あなたの服がどれほど『美しい』か、皆さまの目で判断していただきましょう」
胸の奥で、何かが「かちり」と鳴った。
——想定より早く、矢面に立たされた。
本当なら、マリーの拒否のあと、少し時間を置いてから職人ステージのはずだった。観客の頭が整理される余裕を少しでも作れるかもしれないと期待していた。
でも、もう逃げる選択肢はない。
私がここで下を向いたら、それこそアルミダの言う「怖がり」になってしまう。
私はゆっくりと立ち上がる。膝が少し震えているのが自分でも分かった。
でも、それでも立ち上がる。
ガルド、セイル、テオも続く。外套の下にはマリーが作った服。私たちの体温と一緒に少し温まって、布が皮膚に馴染んでいる。
マリーの服を着て立つということは、彼女の想いごと前に出るってこと。
鎖の音よりも先に心臓の鼓動が次の一歩を告げる。
足もとに力を込めるたび、胸の中の結び目がきゅっと締まり直されていく感じがした。
私たちの出番は、想定したよりもずっと早くやって来たみたい。
でも——このタイミングで呼ばれたことを、きっとあとで「よかった」と言えるように。
私たちは自分の足で、前を向いて歩き出した。




