第40話 突然の訪問
昼下がりの陽が店の窓を淡く照らしていた。
針の音が静かに響く。私とマリーの前には老漁師の妻のために仕上げたドレスが。私たちは地下の工房ではなく、お店に併設された工房で最後の仕上げをしていた。生成りの布に小さなレースを縫い合わせたその一着は、控えめだけれど穏やかな光を纏っている。
マリーは完成したドレスを丁寧に整えている。最後のボタンホールを確認し、糸くずを一つ一つ取り除く。その指先は慎重に、けれど少し誇らしげに動いていた。
——昨日までの震えとは違う。確かに前へ進もうとしている。
「これで……完成ね」
マリーが小さく呟いた。頬には達成感の赤みが差している。
「うん。すごく素敵だよ」
私が答えるとマリーははにかむように笑った。久しぶりに見る、本物の笑顔だった。
その時だった。
カラン、と鈴が鳴る。
店の入り口から柔らかな声が落ちた。
「あら、相変わらず素敵なお店ね」
その声を聞いた瞬間、マリーの顔から血の気が引いた。手に持っていた針がカタンと床に落ちる。
「ア、アルミダ様……!」
私は反射的に作業台の下に身を隠した。工房と店を隔てるカーテンの隙間から、息を殺して様子をうかがう。
アルミダはゆっくりと店内を歩く。白い手袋の指先でショーウィンドウをなぞり、展示された服を一つ一つ確認していく。その動きは優雅だけど、獲物を探す蛇のようにも見えた。
完璧な笑顔。けれど、笑っているのは口元だけ。目は氷のように冷たく、すべてを値踏みするような光を放っている。
「最近、あなたの様子が少し変って聞いたの」
アルミダは振り返り、マリーを見つめた。
「だから心配で来たのよ」
声には甘い響きがあった。でも、そこに「心配」の温度は一片もない。むしろ、監視しているという冷たい圧力だけが伝わってくる。
マリーは震える足で一歩前に出た。
「お、お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫です」
「本当?」
アルミダの目が細まる。その視線が店内をゆっくりと舐めまわし、やがてカーテンの前で止まった。
「……この奥には何があるの?」
私の心臓が跳ね上がった。カーテンの向こうには、完成したドレスがある。もし見つかったら——。
「な、何も……在庫だけです」
マリーの声がかすれる。震える手を後ろで組み、必死に平静を装おうとしている。
アルミダは一歩、カーテンに近づいた。手を伸ばしかけ——そして、くるりと振り返った。
「そう。ならいいんだけど」
その一言で室内の空気が凍りついた。彼女は知っているのかもしれない。何かを隠していることを。
「それよりね、マリー」
アルミダは腰のポーチから何かを取り出した。小さな瓶。中で金色の液体が揺れている。
「見て。これが『美の祭典』で発表する新商品よ」
彼女は瓶を光にかざした。液体が妖しく輝く。
「『永遠の輝き』——今までの『輝きの雫』とは比べ物にならない効果があるの」
アルミダはマリーに近づき、瓶を差し出した。
「これを飲めば、永遠に美しくいられる。老いも、衰えも、すべてから解放されるの」
——嘘だ。
頭の中で私は叫んだ。それは救いなんかじゃない。もっと強い依存を生む、新しい鎖だ。
「そして」
アルミダは続けた。瓶をマリーの手に押し付ける。
「特別に、あなたに最初の使用者になってもらいたいの」
「えっ……?」
マリーの手が震えた。瓶を落としそうになり、慌てて両手で支える。
「私、私なんかが……」
「遠慮しないで」
アルミダの声が急に低くなった。
「これは褒美よ。あなたはいつも私の言うことをよく聞いてくれる。だから、特別に選んだの」
それは褒美なんかじゃない。新しい“命令”だった。
マリーの喉が小さく鳴る。恐怖で言葉が出ない。震える唇からやっと声が漏れる。
「……こ、光栄です、アルミダ様」
か細い声が押し潰されるように響いた。
アルミダは満足げに微笑んだ。
「いい子ね。祭典の初日、ステージで飲んでもらうわ。みんなの前で」
マリーの顔がさらに青ざめる。公衆の面前で、逃げ場のない状況で——。
「期待しているわ」
アルミダは踵を返して店を出ていく。扉が閉まると同時に鈴が悲しげに鳴り、やがて静寂が訪れた。
私はカーテンの陰から這い出た。
「マリー……!」
マリーは床に膝をつき、両手で顔を覆っていた。肩が激しく震えている。
「ミナ……どうしよう……」
涙が指の間から溢れ、床に落ちて小さな水たまりを作る。
「私、私……また言うこと聞いちゃった。断れなかった」
自分への怒りと、恐怖と、無力感。すべてが混じった声だった。
私はマリーの隣にしゃがみ肩に手を置いた。
近くで見ると、彼女の肩の震えはまるで寒さではなく、罪悪感に耐えるような震え。
——アルミダの声がまだ耳に残っている。
あの「褒美よ」という一言は、締めるように心を縛り……苦しめる。
「マリー、大丈夫だよ。あんなもの飲まなくていい」
「でも、みんなの前で拒否なんて……」
マリーは顔を上げた。その目は真っ赤に腫れ、絶望に染まっている。
「怖いよ……ミナ。アルミダ様に逆らったら、この街にいられなくなる。また一人に——」
「それは違うわ」
凛とした声が店の入り口から響いた。
振り返ると老漁師の妻が立っていた。穏やかな笑みを浮かべて、こちらを見つめている。
「失礼。ドアが開いていたから」
彼女はゆっくりと中に入ってきた。
「お願いしていたドレス、楽しみでつい見にきちゃったわ」
マリーは慌てて立ち上がり、涙を拭った。
「その、ちょうど完成したところで……」
「あら、急がなくて大丈夫って言ったのに」
老漁師の妻は優しく微笑んだ。
「でも、もう完成したドレスを見れるなんて嬉しいわ」
マリーは震える手でカーテンを開け、ドレスを取り出す。
老漁師の妻は両手でそっと受け取った。布地を撫で、縫い目を確かめる。その手つきは宝物を扱うように丁寧だった。
「……素敵ね」
彼女の目が潤んだ。
「母の作ってくれたドレスを思い出すわ。温かくて、優しくて」
そして、彼女は顔を上げた。
「マリーさん……ありがとう。この服を——『美の祭典』に着て行くわ」
「え……!?」
マリーが息を呑んだ。
「でも、それは……アルミダ様の基準に全然——」
「構わないわ」
老漁師の妻は静かに、でもはっきりと言った。
「私は、私としてそこに立つの」
その言葉に店の空気が変わった。恐怖に満ちていた空間に、小さな勇気の光が差し込む。
「この街を作っているのは、私たち一人一人よ」
彼女は続けた。
「アルミダはそれを支配しているだけ。でも、支配は永遠じゃない」
マリーの唇が震えた。
「でも、みんなが——」
「みんなも、本当は分かってる」
老漁師の妻は微笑んだ。
「鎖が重いこと。『輝きの雫』が偽物だってこと。ただ、最初の一歩を踏み出す勇気がないだけ」
彼女はドレスを大切に抱きしめた。
「だから、私も踏み出すわ。このドレスと一緒に」
マリーの目から新しい涙がこぼれた。今度は恐怖の涙じゃない。感動と、そして小さな希望の涙。
「私……私も……」
マリーは震える声で言った。
「『永遠の輝き』……飲みたくない」
「うん」
私は頷いた。
心の奥に、静かだけど確かな炎が灯るのを感じた。
マリーだけじゃない。もう、この街のどこかで誰かが、同じように震えながらも立ち上がろうとしている。
「みんなで支える。一人じゃない」
マリーは、私と老漁師の妻を交互に見た。そして、深く息を吸った。
「……わかった。やってみる」
その声は小さかったけれど、確かな決意が込められていた。
老漁師の妻は、マリーの手を取った。
「……ありがとう。このドレスは、私の誇りよ」
◇
老漁師の妻が帰った後、店に静けさが戻った。残された空気には、まだ彼女の言葉の余韻が残っている。
恐怖の静けさではなく、嵐の前の——決意の静けさ。
マリーは「永遠の輝き」の瓶を見つめた。
「これ、どうしよう……」
テーブルの上の瓶は、光を吸い込みながら鈍く反射している。まるで、触れた手に冷えを移すためにそこにいるみたいに。
「今は持っていて」
私は、まだ震えの残るマリーの手を包み込む。
「アルミダの目をごまかすためにも、今は逆らわないふりをして。祭典で、本当の答えを見せる」
「……本当の答え」
マリーが小さく繰り返した。
「うん」
舞台を恐れるんじゃない。ただ、私たちの“美しさ”を示せばいい。
「飲まない……みんなの前で、拒否する」
それは大きな賭けだった。でも、もう後戻りはできない。
窓の外を見ると、夕陽が街を赤く染め始めていた。
美の祭典まで、あと六日。
小さな革命の火種は、確実に燃えている。




