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第39話 マリーの葛藤と小さな勇気

 朝の光が、まだ眠たげな街をゆっくり染めていく。潮の匂いが微かに残る風が通りを抜けるたび、鎖の小さな音がどこからか響いた。

 ——昨夜の集会で聞いた女性たちの声が、まだ胸の奥に残っている。

 

 リサの言葉、「マリーさんの作品を待っている人がいる」——その約束を伝えなければ。


 店の扉を押し開けると、マリーはカウンターで黙々と針を動かしていた。派手な布地が手の中で滑るたび、光がきらりと跳ねる。

 けれど、その手つきには昨日とは違うわずかな“迷い”があった。


「おはよう、マリー」


「あ、ミナ……」


 顔を上げたマリーの目は赤く腫れていた。

 眠れなかったのか、夜の間にずっと何かと戦っていたような瞳。


「昨日のこと、考えてくれた?」


 私の問いにマリーは針を置いた。

 指先が小さく震えている。


「考えたよ。でも——」


 言いかけたマリーの視線が窓の外に向かう。

 通りを歩く女性たちの首元で、鎖が朝日にきらめいた。

 音が一つ鳴るたびに、マリーの肩がわずかに強ばる。


「実はね、マリー」

 

 私は椅子を引き寄せ彼女の前に座る。

 伝えなければならないことを胸の奥で確かめながら。


「昨夜、同じように悩んでいる女性たちの集まりに行ってきたの」


 マリーの顔がさっと青ざめた。

 針を落とし、布の上で硬直する。

 彼女の中で“恐怖”という言葉が音を立てて形を取っていくのがわかった。


「集まり? まさか——」


「みんな、鎖を外したいと思ってる。でも怖くて一人じゃできない。だから支え合って、少しずつ変えていこうって」


 その瞬間、マリーは立ち上がり私から半歩、二歩と離れた。

 まるで火に手をかざしたような反応だった。

 背後の布が揺れ、落ちた針が床に当たって乾いた音を立てる。


「やめて! そんな危険なこと!」


 声は怒りよりも恐怖に震えていた。

 言葉を吐くたびに肩が震え、喉が痛そうに動く。


「アルミダ様に逆らったら、どうなるか分からないでしょ!?」

 

 その叫びの中には、自分の身を守りたい気持ちだけじゃなく、私を心配する色も混じっていた。


「ミナまで巻き込まれたら……どうするのよ……」


 マリーの声がかすれた。

 その姿は怯える子供のようで、痛いほどに胸を締めつけた。


「でも、このままでいいの?」


 問いかけると、マリーは両手で顔を覆った。

 指の隙間から漏れた声は小さな悲鳴のようだった。


「いいわけない……けど、でも——」


 肩が震え始める。

 恐怖と焦りが混ざった息が、布の香りと一緒に滲み出ていた。


「……また誰も私の作品を見てくれなくなる。借金だって返せなくなる。店も潰れて、全部失って——」


 言葉が途切れるたびに、彼女の胸が大きく上下した。

 恐怖が形を持って、彼女の周りに壁のように立ち上がっている。


「マリー」


 私は静かに言った。


「みんな、あなたの昔の作品が好きだったんだよ」


「っ!そんなの信じられないわよ!」


 マリーが叫び、涙が頬を伝って落ちる。

 言葉に詰まった痛みが店の中の空気を震わせた。


「好きだったなら、どうして私の作品は地下で埃をかぶって眠っているの!?」


 怒りの裏にあるのは深い悲しみ。

 マリーの声には“裏切られた信頼”が染みついていた。私は何も言わず、その感情の奔流をただ見つめる。

 


「その事実が、受け入れられなかった証拠じゃない!」


 涙の粒がカウンターの上に落ちて弾ける。

 彼女の叫びが、まるで自分自身を責めるように響く。


「だからアルミダ様の言う通りにした! そしたら売れた! 認められた! それの何が悪いの!?」


 マリーは膝から崩れ落ちた。

 床に手をつき、嗚咽をこらえようとしても、声が震えてこぼれる。


「怖いの……また一人になるのが……誰にも必要とされないのが……」


 私はマリーの隣にしゃがみ、そっと肩を抱いた。その体は震えていたけれど、触れた手の下にまだ小さな温もりが確かにあった。


「一人じゃないよ」

 

 囁くように言う。


「私がいる。他の人もいる」


「でも……」


「昨日の集会でね、パン屋の女将さんが言ってたの。『マリーさんの服は温かくて、着ると安心した』って」


 マリーが顔を上げた。涙の中に驚きの色が浮かぶ。


「……」


「花屋の娘さんも言ってた。『子ども服の縫い目一つに愛情があった』って」


「本当……?」


「本当だよ」


 その時、店のドアが開き、鈴の音が小さく鳴る。


 入ってきたのは老漁師の妻だった。

 昨夜より鎖の数が減っている。

 そして、その手には古い写真が握られていた。


「あら、ミナさんもいらしたのね」


 老漁師の妻は優しく微笑み、マリーに向き直った。


「マリーさん、突然で申し訳ないんだけど……お願いがあるの」


 マリーは慌てて涙を拭った。


「な、なんですか?」


 老漁師の妻は写真を差し出した。

 セピア色に変わった古い写真。

 そこには若い頃の彼女が写っていて、素朴だけど品のあるドレスを着ている。


「これ、私の結婚式の時の写真。母が作ってくれたドレスなの」


 マリーは震える手で写真を受け取った。


「でも、もう母はいない。だから——」


 老漁師の妻の声が少し震えた。


「これに似た服を、もう一度着たいの。あなたの手で作ってもらえないかしら」


 マリーの目が大きく見開かれる。


「で、でも……これ、アルミダ様の基準に全然合わない」


 私は横でそのやりとりを見つめながら、胸の奥に灯がともるのを感じた。

 “今”この瞬間こそ、マリーの鎖がほどけ始める瞬間かもしれない。


「構わないわ」


 老漁師の妻は、迷いのない口調で言った。


「私が着たいのは、『私らしい』服。派手じゃなくていい。目立たなくていい。ただ、私に似合う服が欲しいの」


 マリーの手が震えた。

 写真を持つ指先が白くなるほどに、力が入っている。


「私……私なんかに……」


「マリーさんにしか頼めないの」


 老漁師の妻は、静かに微笑んだ。


「あなたの作る服には、心がある。着る人のことを考えて、大切に作ってくれる。それが分かるから」


 マリーの目から新しい涙があふれた。


「本当に……いいんですか?」


「むしろ、お願いしたいの」


 老漁師の妻は優しく言った。


「アルミダ様の基準なんて関係ない。私は、マリーさんの服が欲しいの」


 長い沈黙が流れた。

 マリーは写真を見つめ、震える指でドレスの形をなぞる。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……一着だけ」


 かすれた声だった。


「一着だけ……作らせてください」


 老漁師の妻の顔に柔らかな笑みが広がった。


「ありがとう」


 彼女は帰り際、扉の前で振り返る。


「急がないから。マリーさんのペースで作ってくれればいいわ」


 扉が閉まり、店に静寂が戻る。


 マリーは写真を胸に抱きしめた。

 小さく息を吐き、震える声で言う。


「ミナ……私、できるかな」


「できるよ」


 私はその肩に手を置きながら言った。

 その手の下に、確かに生まれかけの“熱”を感じた。忘れていた鼓動がゆっくりと動き出す音。


「マリーの手は覚えてる。本当の服の作り方を」

 


     ◇




 その夜、私はマリーの工房に付き添った。

 地下室のランプに火を灯し、埃を払った作業台の前に座る。

 マリーは古い道具箱から、使い込まれた針と糸を取り出した。


「久しぶり……」


 針を持つ手が震えている。

 でもその震えは恐怖ではなく——期待に近い。


 布を広げ、型紙を置き、チョークで印をつけ、はさみを入れる。

 最初の一針。


 糸が布を通った瞬間、マリーの表情が変わった。機械のようだった手に、息づくような温度が戻っていく。


「あ……」


 マリーが小さく声を漏らす。


「思い出した。この感じ」


 針が進むにつれ、手の震えが止まっていく。

 代わりに、確かなリズムが生まれる。一針、また一針。

 その音は、まるで心臓の鼓動のよう。


 時々、マリーの手が止まる。


「これでいいのかな……アルミダ様に見つかったら……」


 私はその背を見守りながら、静かに息を整えた。彼女の恐れも、きっとこの一針の先に少しずつ溶けていく。


 ——焦らなくていい。ただ、一歩ずつ。


「ううん、大丈夫だよ」


 私の言葉に、マリーは小さく頷いてまた針を動かす。


 縫い目がずれ、糸が絡まり、涙で布が濡れることもあった。

 それでも、マリーは手を止めなかった。


 失敗するたびに、昔の感覚が戻ってくるようだった。


「そうだ、ここはこうやって……この縫い方の方が着心地がいいはず……」


 独り言のような声。

 その横顔に、久しぶりに“生きた”光が宿っていた。


 ふとマリーが手を止めた。

 広げられた布の上にドレスの一部が形になり始めている。

 まだ途中だけど、確かに美しい。派手じゃない、けれど優しい。


「これが、私の本当の仕事」


 マリーが呟く。


「忘れてたけど、やっぱり私、これが好き」


 ——この瞬間を待っていた。

 鎖の音じゃない、“生きる音”を、やっと聞けた気がした。


「……うん。それがマリーだよ」


 マリーは涙を拭い、再び針を取った。


「まだ怖い。アルミダ様のことを考えると、震える」


「……でも?」


「でも、辞めたくない」


 その声には、小さな決意が宿っていた。


「この服を完成させたい。老漁師の奥さんに、着てもらいたい」


 私は黙って頷いた。

 鎖を一度に全部断ち切ることはできない。

 でも、一つずつ緩めていくことならできる。

 マリーは今、最初の結び目を解き始めた。


 ランプの灯りが、二人の影を壁に映す。

 針を動かすマリーと、それを見守る私。


 小さな地下室で、私たちの小さな革命が静かに始まっていた。

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