第38話 秘密の集会
三つ目の鐘が、港に静かに響いた。低く重い音が夜の空気を震わせ、石畳の隙間に沈んでいく。
私は青い糸の輪を指に通し、そっと宿を出た。
夜の港は昼とはまるで違う顔をしていた。
船のマストが月光を受けて白く浮かび、係留ロープが潮風に軋む。
港のはずれ——老漁師の妻が言っていた古い倉庫。
板壁は潮で黒ずみ、扉の隙間から細い光が漏れている。
一つだけの灯り、それが合図。
裏手に回り、小さな扉の前に立つ。
ノックをする前に深呼吸。
胸の奥の“結び目”がきゅっと締まる。
コンコン、と控えめに叩いた。数秒の沈黙のあと、扉がわずかに開き、隙間から顔を覗かせたのは老漁師の妻だった。
私の指の青い糸を見ると、ほっとしたように微笑む。
「来てくれたのね。どうぞ」
扉の向こうに広がっていたのは石造りの地下室だった。階段を下りると中央に古いテーブルと数脚の椅子。
ランプの光がゆらゆらと揺れ、壁に影を落としており、潮と油の混じった匂いがかすかに鼻をくすぐった。
すでに三人の女性がいた。
老漁師の妻のほかに、丸顔のパン屋の女将、若い花屋の娘、そして——顔を深くフードで覆った人
「こちらが、お話しした冒険者のミナさん」
老漁師の妻が紹介すると、女性たちの視線が一斉に集まった。
警戒と期待。どちらも混ざった瞳。
私は静かに会釈をして椅子に腰を下ろした。
「突然お邪魔してすみません」
「いえ、来てくださって嬉しいわ」
パン屋の女将が言った。
彼女の手首には、まだ「光彩の鎖」が二つ残っている。
だが、その握り方には迷いがあった。
「私たち……ずっと、誰かに聞いてほしかったの」
花屋の娘が続ける。
二十代前半くらい。彼女の首には五つの鎖が光っていて、細い肩がその重みでわずかに下がっている。
「でも、誰にも言えなくて」
地下室に静けさが落ちる。
壁のランプの灯が、ひとりひとりの表情を柔らかく照らしていた。
「聞かせてください。みなさんの話を」
最初に口を開いたのはパン屋の女将だった。
「最初は……嬉しかったの」
声は小さく、震えていた。
「アルミダ様が来て、“美しくなれる”って言われて……今まで誰も振り向かなかった私を、“素敵”って言ってくれる人が増えて」
女将は鎖を撫でる。金属の擦れる音が寂しく響いた。
「でも今はこの重さが肌に食い込んで痛い。朝、パンを捏ねる時も邪魔で仕方ないの……外せばいいのに、って思うでしょう?」
花屋の娘が自嘲気味に笑う。
「でも外したら、また誰にも見てもらえなくなる。“あの人は鎖も買えない貧乏人”って言われるの」
その言葉に他の女性たちも頷いた。
「“輝きの雫”も同じよ」
老漁師の妻が小瓶を取り出した。
金色の液体がランプの光を受けてギラリと光る。
「飲まないと不安になる。でも飲んでも何も変わらない。鏡を見ても、自分の顔がわからなくなってきた」
石の壁が冷たく、誰かの呼吸だけが聞こえる。沈黙が落ちるたびに潮騒の音が遠くから混じってきた。
「……みなさん」
私は静かに口を開いた。
「一人じゃ怖いなら、みんなで一緒に外していくのはどうですか?」
女性たちが顔を上げる。
その瞳の奥には、希望と恐怖がせめぎ合っていた。
「一緒に?」
「はい。少しずつでいい。今日は一つ、明日はもう一つ。お互いを支えながら、少しずつ軽くしていく」
「でも……アルミダ様に逆らったら——」
その時、フードを被っていた一人が動き、ゆっくりとフードを外す。
現れた顔に全員が息を呑んだ。
整えられた前髪、淡い紅の口元。
どこかで見覚えがある。
そう——街の広場に掲げられた、アルミダの教えを広めるポスター。
そこに映っていた弟子の一人だった。
「あなた……まさか、アルミダの側近の……?」
私が言うと、女性は静かに頷いた。
「リサ、と言います」
名前を告げた声は思いのほか弱々しかった。
彼女は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「アルミダ様のそばにいました。でも……もう限界で……」
目の前の彼女は、敵だったはずの“側”の人間。けれど、声の端にあるものは後悔でも嘘でもない。それは、ずっと沈め続けていた良心のかけら——誰にも知られず泣いてきた人の声だった。
「毎日、嘘をつき続けて……人を騙して……もう心がもたない」
その言葉に場の空気が揺れた。
女将が、震える声で口を開く。
「全部、知ってたの……私たちが、どんな気持ちで鎖をつけてたかも」
リサはうなずいた。
「本当に……ごめんなさい」
涙がこぼれそうになるのを彼女は隠す。自分には、そんな資格はないというように。
償うためやってきた彼女の両手には、深く小さな傷跡がいくつもあった。
人を縛る鎖を作ってきた手——けれど今は、何かを“解きたい”と願っている手だった。
「少しでも償いたくて……アルミダ様が何を企んでいるのか、伝えにきました」
リサはテーブルに両手を置いた。
ランプの灯りが疲れ切った彼女の顔を照らす。
「“美の祭典”で、アルミダ様は新商品を発表する予定です」
「新商品?」
「……“永遠の輝き”」
その名を聞いた瞬間、部屋の空気が緊張した。
リサは続ける。
「見た目は“輝きの雫”と同じ。でも成分は違う」
「もっと強力で……一度でも口にすれば、もう離れられなくなる」
「どういう意味……?」
花屋の娘が怯えた声を漏らす。
「離れられないって……?」
リサは視線を落とし、苦しげに唇を噛んだ。
「“永遠の輝き”には、依存性のある成分が入っいて、最初は気分が良くなる。でも、やがて不安になる。飲まなければ自分が醜くなるような気がして、止められなくなる」
「そんな……」
パン屋の女将が顔を両手で覆った。
老漁師の妻も、言葉を失っている。
「じゃあ、私たちは……」
「最初から、縛られるために飲まされてたの……?」
花屋の娘がかすれた声で呟いた。
私はテオの分析を思い出した。
けれど、それを知らなかった彼女たちにとっては、今聞かされた言葉は世界の崩壊のように響いただろう。
リサは静かに頷いた。
「このままだと、街全体があの“雫”に呑まれる。“永遠の輝き”が出回れば、誰も考えることすらやめるわ」
「……どうすれば、止められるの?」
老漁師の妻の問いに、リサは目を閉じた。
「私も、それを探しています……そして、唯一の希望があるとすれば——“美の祭典”。アルミダ様がコンテストを開くあの日、何かが起これば……流れを変えられるかもしれない」
沈黙が落ちる。
みんなの顔に恐れと迷い、そしてかすかな光が入り混じっていた。
その時、パン屋の女将が小さく息をついた。
「……ねえ、マリーさんのこと、覚えてる?」
唐突に出たその名前に全員が目を向ける。
彼女は両手を組み、懐かしむように微笑んだ。
「マリーさんの昔の服、今でも覚えてる。あの人の服は派手じゃなかったけど、温かくて……着ると安心したの」
花屋の娘が頷く。
「私も。子ども服を作ってもらったの。軽くて、動きやすくて、縫い目ひとつにまで愛情があった」
「でも今は……」
老漁師の妻が静かに言う。
「アルミダ様の基準に合わせた服ばかり。
本当のマリーさんの“美しさ”は、もう見えなくなってしまった」
彼女の言葉に、私はそっと口を開いた。
「マリーはまだ、本当の自分を忘れてない。
今日、彼女の工房を見せてもらいました。
そこに、昔の作品が全部残っていたんです」
「本当?」
全員が驚いたように目を見開く。
「はい。そして、マリーも苦しんでいる。
みなさんと同じように、“鎖”に縛られて」
私はゆっくりと言葉を継いだ。
「もしマリーが、美の祭典で本当の作品を出せたら——」
「でも、アルミダ様が許すはずがない」
リサが現実的に言う。
「だから、段階的に進めるんです」
私は青い糸の輪を見せた。
「この輪のように、少しずつ繋がっていけばいい。一度に全員が変わる必要はないんです。小さな変化でも、その連鎖がやがて大きな波になる」
「でも……明日からどうすれば?」
老漁師の妻が現実的な声で言う。
「街で会っても、鎖を外したことがバレたら——」
「だから、ゆっくりでいいんです」
私は優しく言った。
「家の中では外す。外では最小限だけ。少しずつ、自分のペースでいいんです」
「それなら……できるかも」
花屋の娘が涙を拭いながら笑った。
「そして」
リサが静かに言葉を継いだ。
「美の祭典までに、少しずつ仲間を増やしましょう。今日は五人。明日は十人。明後日は——」
「でも、慎重に」
パン屋の女将が警告する。
「アルミダ様に気づかれたら、すべて終わり」
「わかってます」
私は頷いた。
「無理はしない。でも、諦めもしない」
その時、上から聞こえた足音に全員が凍りつく。しかし、足音はすぐに遠ざかっていった。
「今日は、このへんで」
老漁師の妻が立ち上がった。
「でも、また集まりましょう」
「はい」
みんなが頷く。
「次は、もう少し人を増やして」
帰り際、リサが私に近づいた。
「ミナさん、一つお願いが」
「なんですか?」
「マリーさんに伝えて。——“あなたの作品を待っている人がいる”って」
その言葉に、私は強く頷いた。
「必ず伝えます」
一人、また一人と地下室を出ていく。
最後に私も扉を潜った。
外に出ると冷たい夜風が頬を撫でた。
見上げると星が静かに瞬いている。
宿への道を歩きながら、私は考える。
変化は始まった。小さいけれど、確実に。
——美の祭典まで、あと七日。
港の波音が、まるで応援の拍手のように静かに響いていた。




