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第37話 テオの分析と秘密の招待状

 宿に戻ると、三人はそれぞれの場所で何かに集中していた。


 テオは机の上に小瓶を並べ、毛細管みたいに細いガラス管で液体を別の容器に移しながら、細かい字でびっしりと記録している。

 

 ガルドは窓辺に肘をあずけて街を見下ろし、 セイルは地図の上を指先でなぞって風の流れを描いていた。


「おかえり、ミナ」


 最初に顔を上げたのはセイルだった。声の調子に、少しだけ心配の色が混じっている。


「どうだった?」


 私は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。さっきまで地下にあった布と糸の匂いが、まだ胸の奥に残っている。


「マリーの本当の工房を見せてもらった」


 その言葉に、ガルドが振り返る。


「本当の工房?」


「うん。店の奥に隠された地下室。そこに、マリーが昔作った作品が全部眠ってた」


 私は見たものを順に伝えた。素朴だけど、着る人の体温まで想像して縫われた服たち。売れなかった過去。アルミダに出会ってからの変化。そして、マリーが「空っぽ」になってしまったこと——。


 三人は黙って聞いていた。テオは手を止め、ガルドは腕を組み、セイルは地図から目を離さないまま、耳だけこちらへ向けている。


「マリーは今、自分が人形みたいだって言ってた。手は動くけど、心がどこにもないって」


「それは……しんどいな」


 ガルドが低く呟く。ゆっくり拳を握って開き、握って開く。その仕草に昔の傷がうずくみたいな硬さがあった。耳は少し後ろへ寝かせ気味で、窓の外に視線を戻しても、瞳の奥はどこか過去を見ている。


「……前のパーティーで似たような気持ちになったことがある。言われた通りに動くだけの、ただの壁扱いされてた時だ」


 セイルも続けて小さく頷く。地図に置いた指先がぴたりと止まり、線の上に影を落としたまま。


「ぼくも、いいように扱われて、自分が何のために戦ってるのか分からなくなったことがある……だから、なんとなく気持ちがわかるな」


 テオが小瓶を置いて、短く言う。


「機能だけ。心、不在」


 的確な、マリーの今をそのまま切り取ったみたいな言葉。


「でも、希望はある」


 私は続けた。


「マリーの中に、まだ『作りたい』って気持ちは残ってる。ただ、それを表に出すのが怖いだけ」


「怖い、か」


 ガルドが窓の外に目をやる。


「そりゃそうだ。一度否定されたものを、もう一度出すのは勇気がいる」


 その時、テオが立ち上がった。手に「輝きの雫」の小瓶を持っている。


「分析、完了」


 視線が一斉に集まる。テオは机の上に数枚のメモを広げた。細かい数式と抽出手順、反応の記録。


「成分判明。基本、鉱物油、香料。でも——」


 テオは別の小瓶を取り出す。透明な液体が、淡い光を反射した。


「抽出成分、やっぱり、微量、依存性物質」


「依存性……」


 セイルが身を乗り出す。


「どんな?」


「身体的害、ほとんどない。でも、心理的依存、強い」


 テオはメモを指で弾きながら説明を続ける。


「最初、気分が良くなる。自信、湧く。効果切れると、不安。——また飲みたくなる」


「つまり……」


「一度飲み始めたら、簡単には止められない」


 私は息を呑んだ。ただの言葉の魔法じゃない。成分そのものでも、心を縛る仕掛けがされている。


「アルミダの計算づくか」


 ガルドの声には怒りが混じっていた。喉の奥で低く唸るみたいな響き。


「そういうやり方、一番嫌いだ」


 私の胸にも同じように小さな熱が生まれる。

 ——この街を取り戻したい。誰かの笑顔がこんな物に縛られたままなんて、そんなの絶対に許せない。


「……でも、これで一つ分かったね」


 セイルが地図を畳む。


「街の人たちが鎖を外せないのは、心理的な理由だけじゃない。実際に『輝きの雫』の依存もある」


「複合的支配」


 テオが付け加える。


「鎖で物理的に縛り、雫で精神的に縛り、価値観で社会的に縛る」


 三重の鎖。解くのはきっと容易じゃない。それでも——。


「でも、不可能じゃない」


 私は立ち上がりながら言った。


「実際に変化は起きてる。今日の街はどうだった?」


 セイルが目を細め、小さく笑う。


「面白いことに気づいたよ。まだ小さいけど、確実に。一方向だけだった風に乱れが生まれてる」


 ガルドが続けた。


「俺とセイルが酒場で聞いたんだが、『光彩の鎖』の売上が落ちてるらしい。店主が嘆いてた」


「売上が落ちてる?」


「そうだ。『最近、女どもがあまり鎖を買わなくなった』って。『輝きの雫』も同じだとさ」


 それははっきりした兆しだった。表面の笑顔の裏で、心は確かに揺れ始めている。


「でも、まだ表立って反発する人はいない?」


 私の問いにガルドは首を振る。


「いや、みんな様子見だ。誰かが最初に動くのを待ってる」


「羊の群れ……」


 老漁師の言葉が胸に返ってくる。


「そうだ。一頭が動けば群れは動く」


 セイルが地図の端を指差した。小さく印がついている。


「ここ。夜に女性たちが集まってるって話を聞いた。こっそりと、だけど」


「集まってる?」


「うん。多分、同じような不満を持つ人たちだと思う。でも、まだ行動には移せてない」


 芽吹いた種を、どう育てるか——考えを巡らせたその時、扉を叩く音がした。


 私たちは顔を見合わせる。この時間に訪問者?


 ガルドが用心深く扉に近づき、のぞき窓から外を確認する。少し驚いた表情でこちらを振り返った。


「女性が一人。少し……怯えてるみたいだな」


 私は頷き、ガルドに扉を開けてもらった。


 そこに立っていたのは、五十代くらいの女性だった。質素な服に「光彩の鎖」を少しだけつけている。手は強く握られ、指の関節が白くなっていた。


「あの……」


 女性は震える声で言った。


「昨日、港でお話しされてましたよね? 漁師の……あの人と」


 老漁師の奥さんだ、と直感する。目の奥の強さと、声の端に残る海の匂い。


「はい。あの時は——」


「実は……聞いてたんです」


 女性は周りを警戒するように見回し、声をさらに落とした。


「あなたのお話。鎖と結び目の違いを」


 私は手を広げて一歩下がる。彼女の逃げ場にならないよう、でも退路は閉ざさないように。


「どうぞ、中へ」


 女性は恐る恐る入って椅子に腰を下ろした。膝の上の両手はほどけない結び目みたいに固く絡まり合っている。——この部屋は、彼女の“怖さ”を置ける場所になるだろうか。


「私……本当は、この鎖を外したい」


 震える声で女性は続けた。


「でも、怖くて。みんなに何を言われるか。醜いって笑われるかもって」


 私は言葉を飲み込んで頷く。正しい説得より、まずは勇気を認めること。ここに来たという事実だけで十分だ。


「まずは……来てくださってありがとうございます」


 胸の奥に、彼女の震えが移ってくる。


「それだけで、すごく勇気のいることです」


 それは恐怖の震えではなく——“変わりたい”と願う、そんな息づかいのように思えた。


「…ありがとう、ございます」


 女性の目に涙が浮かんだ。指先がぎゅっと絡み合い、かすかに震える。


「実は……同じ気持ちの人たちで、夜に集まって話をしてるんです。ただ、愚痴を言い合うだけの小さな集まり。でも……それでも少し楽になるの」


「集まり……?」


 私は目を瞬く。女性は懐から小さな布包みを取り出した。細い青い糸の輪が入っている。


「これが合図です。見せた相手が、同じ気持ちを持つ人かどうか——それで分かります」


 光の加減で、糸の青がわずかに揺れる。小さいのに、その輪には確かな“結び”の手触りがあった。


「場所は、港のはずれ。古い倉庫の裏手です。三つ目の鐘が鳴ってから来てください。灯りは一つだけ。それが目印です」


「……私が行ってもいいんですか?」


「ええ。あなたなら、きっと歓迎されます」


 老漁師の妻はほっとしたように微笑む。長い間、言葉を飲み込んできた人の笑顔だ。


「あなたの話を聞きたい人たちが、待っていますから」


 彼女は私の掌に青い輪をそっと置いた。糸は体温より柔らかく、静かに馴染んだ。


「無理にとは言いません。もし…行けそうだと思ったら、その糸をつけて来てください」


「……わかりました。必ず行きます」


 女性は深く一礼して部屋を出ていった。扉が静かに閉まる。残った空気に、潮の匂いがかすかに混じっていた。


「……どうだった?」


 ガルドが尋ねる。私は糸を見せながら答えた。


「夜の集まりに招待されたの。たぶん、さっきセイルが言ってた集まりのことだと思う」


「……動き始めたな」


 ガルドが腕を組む。肩の線が少しだけ柔らいだ。


 セイルは窓の外に目をやったまま、小さく微笑む。


「うん、じゃあ今回はミナに任せてもいいかな?」


「……うん」


 喉の奥に小さな硬さは残っている。でも、指先の青い輪が、その硬さを少しずつほどいてくれる。


「無理はするなよ」


ガルドの声は低く、けれど確かな温度を含んでいた。まるで、盾を構えた時のような静かな守りの気配。


「任せて」




 私は糸をそっと指に通し、その結び目を確かめた。この細い糸が、きっと誰かの勇気に繋がっていく。

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