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第36話 マリーの本当の工房

 マリーの店の前に立つと昨日の拒絶が胸の奥で疼いた。

 

 それでも、足を止めるわけにはいかない。

 私は息を整え扉を押し開けた。鈴の音が小さく揺れ、店内の空気が微かに動く。


「いらっしゃ……あ、ミナ」


 カウンターの奥でマリーが顔を上げる。昨日より少し柔らかい声。でも、その目にはまだ警戒の色が残っていた。


 針を持つ手が一瞬止まり、また淡々と布を縫い始める。


「また来てくれたのね」


「うん。昨日見せてもらった服、もう少し見てもいいかな?」


「ええ……どうぞ」


 そう言いながらも、マリーの手はわずかに震えていた。

 その小さな揺れが、彼女の中に触れられたくない何かがあることを教えていた。


 私は店の中をゆっくりと見渡した。

 壁に並ぶ派手な服、煌びやかな装飾。整然と並んでいるのにどこか息苦しく、空気の流れが一方向に滞っていた。

 

 ——“結び目”を扱う私には、その違和感が、なんとなくわかる。

 この店のどこかに、本来のマリーの“想い”が閉じ込められている。


「マリー、この棚の奥って……?」


 そう言いかけた瞬間、マリーがさっと前に出た。


「そこは在庫置き場よ。散らかってるの。お客さんには見せられないわ」


 その焦り方に私は確信した。

 ——隠している。


「……本当の工房、この奥にあるんじゃないの?」


 マリーの手が止まる。

 針が宙で固まり、彼女の顔から血の気が引いた。


「……どうして、そう思うの?」


「勘……かな」


 ……本当は“勘”なんかじゃない。

 流れの奥にまだ息づいている“作りたい”という想いの残滓。

 今の派手な服の中には、それが一つも混じっていない。ここには“心”だけが置き去りにされているから。


「マリーが本当に好きだったものは、この店のどこにもない。でも、マリーの中には消えずに残ってる……そんな気がしたの」


 沈黙。

 通りから聞こえる鎖の音が、その沈黙の中に重く響く。

 マリーは小さく息を吐いた。肩が落ち、糸を持つ手から力が抜ける。


「……バレちゃったか」


 小さな呟き。諦めと、どこか安堵が混じったような声だった。

 

 マリーはゆっくり立ち上がり、店の奥の棚に手をかけた。

 一見、壁に固定された棚が押されるとギィと音を立てて横に動く。

 その奥から古い木の扉が現れた。


「ここが……?」


「私の、本当の工房よ」


 マリーが扉を開く。中から冷たい空気が流れ出し、埃と布の匂いが混ざって鼻をくすぐる。

 ランプの灯りがオレンジ色に壁を照らす。私は頷いて彼女の後に続いた。



     ◇



 地下への階段を降りると、そこは別世界だった。

 天井は低く、空気は重い。

 でも、どこか懐かしい温度があった。

 部屋の中央には大きな作業台。その周囲に布で覆われた何かがいくつも並んでいる。


「……見てもいい?」


「ええ」


 マリーは少し躊躇いながらも頷いた。

 私は近くの布を外す。


 出てきたのは、生成りの麻のワンピース。胸元に小さな花の刺繍がある。

 派手さはないけれど、見ているだけで胸の奥が温かくなるような服だった。


「これ、マリーが作ったの?」


「三年前。店を始めてすぐに。……誰も買ってくれなかったけど」


「どうして?」


「自分でも、何が悪いのか分からなくて……でも、『映えない』って言われたのは覚えてる」


 マリーは別の布をめくる。

 深い緑のショール、手縫いの子ども服、色褪せたドレス——どれも丁寧で、心がこもっている。

 今の派手な作品とはまるで違っていた。


「……すごく素敵。全部、マリーらしい」


「だけど……売れなかったのよ」


 その笑顔には痛みが滲んでいた。


「店を続けられなくなって、借金も増えて……もうやめようと思ってた……そのとき、アルミダ様が現れたの」


 その名を出した途端、マリーの声が低くなる。


「『あなたの技術は素晴らしい。でも方向性が間違ってる』って言われたの。『私の言う通りに作れば、必ず売れる』って。……その言葉を信じたわ」


 マリーは作業台の引き出しを開け、古びた帳簿を取り出した。ページをめくると最初の一年はほとんど空白。

 でも次のページには、細かい数字がびっしりと並んでいた。


「アルミダ様の言う通りに作ったら、飛ぶように売れた。借金も返せて、お客さんも増えて、褒められるようになって……。

 ——やっと“認められた”気がしたの」


 その言葉の「認められた」に滲む微かな震えを、私は見逃さなかった。


「でも……楽しくなくなった?」


 マリーは小さく頷いた。

 手元の帳簿を握りしめ、目を伏せた。


「……作ってる時ね、手が勝手に動くの。考えなくても出来る。そこに……私の心はどこにもない」


 針を握る指先が細かく震える。それは、かつての職人としての誇りと、今の空虚さが同時に滲んでいるよう。


「でも……これでいいの。これが正しいの。みんなが褒めてくれるから」


 その繰り返しの言葉が、まるで自分に言い聞かせる呪文のように聞こえた。

 

 ——これが鎖だって私は直感した。

 その言葉こそ、彼女を縛っている“心の鎖”。


「マリー、それ……本当に“自分の声”?」


 問いかけると、マリーの肩が震えた。

 彼女は顔を上げず、かすれた声で言う。


「……怖いのよ。また誰にも見てもらえなくなるのが。一人になるのが」


 私は黙って頷く。

 その気持ちは私にも分かる。痛いくらいに。

 認められたい、必要とされたい——それは誰にでもある、痛みを帯びた願い。



 沈黙。

 ランプの炎が静かに揺れる。

 マリーはしばらくして、再び言葉を紡ぐ。


「今は……不幸じゃない。ただ……自分が人形になったみたいに……売れても褒められても、心は何も感じなくて」


 かすれた声が、地下室の冷たい空気に滲む。

 笑おうとしてるのに笑えない。唇は動くのに表情は追いつかない。張りついた笑顔がゆっくりと崩れていくのを、マリー自身も止められなかった。


「幸せの反対は……不幸じゃなく空っぽなんだって私、知らなかった……」


 言葉の終わりと同時に、ぽとり、と涙がこぼれた。

 頬を伝ったそれは、まるで体の奥に溜め込んでいた“感情”がやっと形を持ったかのように見えた。

 泣くことすら忘れていた人形が、初めて心を取り戻したように。


 

「……マリー」


 私はゆっくり近づきその手に触れた。

 針仕事で硬くなった指先は、今は冷たく震えていた。


「空っぽのままでいいと思える?」


 マリーは何も言わない。

 けれど、その沈黙が答えだった。



「マリー、ここに眠ってる服たち。全部あなたが作った“本当の作品”だよ」

 


 私は彼女の心を無理に引っ張らないよう、そっと言葉を重ねる。

 結び目は強く引けば千切れてしまう。

 私はただ、そばで解ける瞬間を待ち続ける。


「あなたの心は、ちゃんとここにある……消えてなんかないよ」


 マリーは静かに頷いた。

 その目はまだ迷っている。

 でも、ほんの少しだけ——その迷いの奥に、光があった。


「うん……ありがとう、ミナ」


 それだけを言って、マリーは作業台の上に目を落とした。

 ランプの炎が彼女の横顔を照らす。

 その影の中で、私は確かに感じた。

 マリーの中で長く止まっていた“糸”が、ほんのわずかに動き始めたことを。

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