第35話 それぞれの美しさ
遠くから聞こえる鳥の声で私は静かに目を覚ました。短い眠りだったけれど、外の冷たい空気を吸った分だけ心は少し落ち着いた。
ガルドたちはまだ眠りについていて、テオは机に突っ伏したまま開いたノートの上で小さく息をしている。セイルは窓際に寄りかかり、肩に布をかけたまま寝息を立てていた。
小さく伸びをしてからカーテンを開ける。差し込んだ朝の光に目を細めていると、背後から低い声がした。
「おはよう……戻ったか」
振り向くと、ガルドが体を起こしてこちらを見ていた。
まだ寝ぼけたような顔に心配そうな眼差しを添えている。
「また、外に行ってたんだろ。大丈夫だったか?」
ガルドの手には私が昨夜置いていった書き置きが。
「うん。結局あの後も……あまり眠れなくて」
ガルドはわずかに黙り、そして安堵したように息を吐いた。
「まあ……気持ちはわかる。ほどほどにな」
その声は叱るというより、ただ静かな思いやりだった。
「……うん。でもね、すごく大事な話を聞けたんだ」
その言葉に、セイルとテオもゆっくりと目を覚ます。
私は老漁師との会話を伝えた。鎖と結び目の違い。最初の一人の勇気。そして、この街の人々が心の奥では違和感に気づいていること——。
三人は静かに聞いていた。
食堂からは焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。その香りに緊張していた空気が少し緩む。
……と、その時、私のお腹がぐうと鳴った。
「……あ」
顔が熱くなる。テオが無表情のまま「自然現象」と言い、セイルが吹き出す。ガルドは呆れたように笑った。
「とりあえず……朝食を食べながら考えよっか」
「う、うん……」
小さな笑い声が夜の名残をやさしく拭っていく。セイルの言葉に頷き、私たちは階下へ向かった。
◇
食堂には温かい匂いが満ちていた。
パンと卵にチーズ、それに野菜のスープ。湯気の立つ皿を前に、私たちはしばらく無言で食べた。
やがて、ガルドがゆっくりと口を開く。
「なあ……“美しさ”って何だと思う?」
唐突な問いに、スプーンを持つ手が止まる。
ガルドは少し照れくさそうに耳を動かしながら続けた。
「この街に来てから、ずっと考えてたんだ。みんなが言う“美”と、俺たちが感じる“美”は違う気がしてな」
セイルがパンをちぎりながら笑う。
「ガルドがそんなこと考えるなんて、珍しいね」
「うっせぇ……俺にとっての美しさは、『前で支えること』なんじゃねぇかって」
そう言って、ガルドは自分の手のひらを見つめる。
戦いで幾度も傷を負ってきた厚い手。仲間を守るためにいつも前に出るその手には、確かな誇りがあった。
——“支える”という言葉が、ガルドには似合っている。盾を構えるたびに、その背中が何度も誰かを守ってきた。
「強いだけじゃなくて、誰かの盾になれる。それが俺の中の“美しさ”だ」
セイルが窓の外を見ながら言う。
「いいね。じゃあ、ぼくにとっては“風”かな」
「風?」
セイルの言葉に私は耳を傾ける。
“風”という比喩がどこか彼らしい。
誰かの後ろではなく、誰の背中にも届く距離で存在している。
「うん。風は自由で形がない。でも確かに感じられる。東から西へ、南から北へ。どんな方向でも吹くままに存在してる」
その横顔はそよ風のように穏やか。
「でも、この街は違うよね? まるで統一された風だよ」
「……統一された風」
私が呟くと、セイルは頷く。
「そう。誰かの基準に合わせることが“美”になってしまった。風が全部同じなら、世界は動かないのにね」
セイルの言葉が胸に残った。
——“違っていていい”。その当たり前を、私たちはどこかで忘れてしまう。
テオが小瓶を取り出して、机に置いた。
金色の液体が光を反射して鈍く光る。
「偽物の美。表面だけ」
そう言って、テオは自分が作った試験用の小瓶を隣に並べた。
「見た目は地味。でも、中身は正確。耐久性、密閉性も高い。美しさ、形と機能、噛み合う」
「つまり、“意味のある美”だね」
セイルが頷く。
テオの言葉は相変わらず短いけれど、いつも核心を突いている。
——見た目の華やかさよりも、内側に宿る正確さ。彼の作る道具はいつも無駄がなくて、見えないところで誰かを支えている。
それは“静かな美しさ”。
「えと、私にとっての“美しさ”は……」
頭の中の引き出しを開けても、出てくるのはそれとは反対のものばかり。
ふいに手を見つめている視界が僅かに滲む。
そんな私の口から出たのは聞き馴染みのある、美しさとは程遠い言葉だった。
「私の“結び目”は……その、ちょっと地味だよね」
言葉にした瞬間、自分でも少し笑ってしまった。派手な魔法のように光を放つわけでもなく、戦いの決定打になるわけでもない。
——そして、この期に及んでそれを“地味”としか言えない自分が少し情けなく思えた。
「地味?」ガルドが笑う。「あれ以上頼りになる術を俺は他に知らねぇな」
「えっ……?」
嘘のない、まっすぐな声だった。
ガルドはいつだって大げさな言葉を使わない。だからこそ、その一言が重く響く。
セイルも微笑む。
「ミナの結び目は、ぼくたちを“縛る”んじゃなくて“繋いで”くれる。だから綺麗なんだ」
「……」
“繋ぐ”という言葉が、心の奥に優しく沁みていく。セイルの言う“風”のように、私の結び目も誰かの呼吸に寄り添えているのかな。
テオが短く言い足す。
「機能美」
簡潔でテオらしい一言。短い中に確かな尊敬の色があった。彼の作る道具と同じ。無駄がなく、静かで、正確で、けれど誰よりも温かい。
言葉数は少ないのにこんなにも心に響く。それは、テオにとっての“美しさ”が余計な飾りを削ぎ落とした先にあるものだからだと思う。
私はゆっくりと息を吸い、この想いが伝わるように言葉を紡ぐ。
「みんな……ありがとう」
頬を伝う雫が温かいのはきっと——彼らの言葉が私の心を解かしてくれたから。
“地味”“目立たない”“居ても居なくても変わらない”。
昔、何度も浴びた言葉たち。
もう気にしていないと思っていたけれど、心の奥では今も小さな棘として残っていたのかもしれない。
けれど今、その棘が光に透けるように薄れていくのを感じる。
これが私で、それが私の“美しさ”なんだって。
ようやく——その不器用な形のままの“美しさ”を好きになれた気がした。
◇
食後、私たちは部屋に戻り、今日の行動を決めることにした。
窓の外を覗くと、通りを歩く女性たちが相変わらず鎖を身につけている。
けれどふと目を凝らすと、やはり昨日より鎖の数が少ない者がちらほら見える。
「……心境の変化なのか、それ以外の理由なのか。それはわからないけど、この街に変化が起き始めていることは確かだね」
セイルの声に私は小さく頷く。
「でも、まだ小さな波。放っておけばすぐに掻き消されちゃう……」
ガルドが腕を組む。
「ミナの言っていた八日後の“美の祭典”……アルミダが動くとしたらそこだな」
「……そこで何かを起こせれば、流れを変えられるかもしれない」
私の胸の奥で老漁師の言葉が蘇る。
——誰か一人でも、勇気を出して最初の鎖を外せば、きっと続く者が出てくる。
「マリーに……会いに行く」
三人の視線が集まる。
「……マリーはこの街で最初に“変われる”人だと思う。もし彼女が自分の手で鎖を外せたら——」
「他の誰かも続く……か」
ガルドが続けた。
「気をつけろよ……昨日のあの反応、簡単なことじゃない」
彼女の中には確かに迷いがあった。それでも必死に“幸せ”を演じていた。
——あれは強さではなく、痛みの裏返し。
「……うん。わかってる」
怖さもある。言葉が届かないかもしれないという不安もある。けれど、それ以上に、“あの時の笑顔”を取り戻したい気持ちの方がずっと大きい。
「焦らず……ゆっくり。手を引っ張るんじゃなくて寄り添う。そんなふうに、マリーの心に触れたいって、そう思うの」
セイルが小さく頷いた。
「……それでいいと思う。風も、押すんじゃなくて寄り添うように吹くからね」
その言葉に自然と笑みがこぼれた。
おもむろにテオが小瓶を取り出した。
「これ、もう少し分析する。依存性、あるかも」
「依存性?」
笑顔の“形”だけを顔に貼りつけて小瓶を傾けていた人たちが脳裏をよぎった。もし“信じたい”気持ちにそんな鎖まで絡んでいるのだとしたら——解くべき結び目は思っていたより深いところにある。
「味と匂いに、特殊な成分。詳しくは、もう少し時間が必要」
セイルが立ち上がった。
「じゃあ、ぼくとガルドは街の様子を見に行くよ。変化の兆しのヒントがあるかもしれないからね」
ガルドも腰を上げる。
「よし、やるか」
「うん」
私たちはそれぞれ頷く。
ガルドの声は低く、確かな力を持っていた。
セイルも柔らかく笑い、テオは短く「了解」と答える。
扉に手をかけた時、隣の部屋から女性たちの声が聞こえた。
「——鎖、重くて……」
「——でも、外したら……」
「——アルミダ様が……」
小さな囁き。恐れと迷いが混じった声。
私は立ち止まり、拳を握る。
——みんな、変わりたいと思ってる。
でも、その一歩を踏み出せないだけ。
廊下を抜け、朝の光の中へ出る。
街は昨日と変わらぬ顔をしていたけれど、私には違って見えた。
潮風の中に確かに新しい流れが混じっている。
——大きな風も、始まりは小さな風から。
私たちの起こす小さな風が、いつかこの街全体を繋ぐ風の道になることを信じて、私はマリーの元へと向かった。




