第34話 朝霧と老漁師
「……眠れない」
アルミダの声が頭の中で何度も響く。瞼を閉じれば「救われたいから信じる」という言葉が、マリーの硬い笑顔と重なって浮かんでくる。寝返りを打っても、枕の向きを変えても、胸の奥の熱は引かなかった。
窓の外はまだ少し暗い。でも、もう横になっているのが苦しくて、私はそっと寝台から抜け出した。
私は机の端に置かれた紙を一枚取り、続けてペンを手に取った。
『少し外を歩いてくるから心配しないで。すぐ戻るね。——ミナ』
紙を折り、ガルドの盾のそばにそっと置く。
彼ならきっと真っ先に気づくだろう。
灯りを吹き消して一歩踏み出す。
音を立てないように扉を開けて階段を降りる。宿の主人もまだ起きていないらしく、食堂は静まり返っていた。
外に出ると冷たい空気が肌を刺した。朝露が石畳を濡らし、歩くたびに靴底が小さく音を立てる。
窓という窓が閉まり、看板も風に揺れることなく垂れ下がっている。まるで、まだ街は眠っているみたいに。
どうしてかわからないけど、私の足は港へ向かっていた。ただ、海の音が聞きたかっただけかもしれない。
◇
港は朝靄に包まれていた。
白い霧が水面から立ち昇り、船の姿をぼんやりと隠している。マストの先だけが霧の上に突き出てる様は浮島のよう。波の音だけが規則正しく響いている。
潮の匂いは濃く、昼間より強く生々しい海の匂いがする。魚と海藻と古い木材の匂いが混じって鼻の奥に染みつく。
岸壁の端まで歩くと積まれた木箱に腰を下ろすと冷たさが服越しに伝わってくる。でも、その冷たさが心地よかった。熱を持った頭が少しずつ冷えていく。
——「美なんて、信じた瞬間に形を失う幻想」
アルミダはそう言った。だから作る側に回ったと。でも、それは本当に正しいのだろうか。美しさは、本当にそんなに簡単に操れるものなの?
「おや、こんな時間に誰かと思えば」
声に振り向くとすぐ近くで老人が網を繕っていたが、霧に紛れて気づかなかった。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、節くれだった手が器用に網の破れを直している。
「あっ、すみません。お邪魔でしたか」
「いやいや、構わんよ。どうせ朝の仕事さ」
老人は手を止めずに言う。糸を通し、結び、引き締める。その動きは何十年も繰り返してきたような滑らかさだった。
「嬢ちゃんは旅の人だね? 冒険者ってやつかい」
「はい」
「ふぅん。で、眠れなかったと」
図星だった。私が驚いていると老人は小さく笑った。
「そういう顔をしてる。何か重いものを抱えた顔だ」
老人は網から顔を上げず、独り言のように続けた。
「この街に来て、驚いただろう」
「……どうしてわかるんですか」
「初めて来た奴は、みんな同じ顔をする。『なんだこりゃ』って顔さ」
老人の手が止まった。霧の向こうを見つめ、深いため息をつく。
「昔は……こんな街じゃなかった」
その声には深い寂しさがあった。
「どんな街だったんですか」
私は身を乗り出した。老人は少し考えてから、ゆっくりと語り始めた。
「普通の港街さ。魚を獲って、売って、たまに祭りをやって。女房たちは井戸端で世間話をして、大声で笑ったり、時には喧嘩したり」
手が再び網を繕い始める。
「子供らは路地を走り回って、年寄りは日向で昼寝して。別に特別なことは何もない。でも、それでよかった。みんな自分の暮らしにまあまあ満足してた」
「今は違い……ますよね」
「ああ、あっという間に様変わりさ」
老人は苦い顔をした。
「女房たちは全員同じ格好をして、同じ化粧をして、同じように笑う。まるで人形だ」
「……幸せそうに——」
「見えるか?」
……見えるわけがない。もし見えてたなら私はマリーの友達失格だ。
「本当に幸せな奴の目を見たことがあるか、嬢ちゃん」
私は昨日のマリーを思い出した。「幸せだよ」と言いながら、その今にも何かが溢れそうな目を。
「本当の笑顔ってのはな、目が笑うんだ。口だけじゃない。頬も上がって、目尻に皺ができて、顔全体で笑うもんだ」
老人は自分の顔を指で示した。
「今の女房たちを見てみろ。口は笑ってる。でも目は死んでる。どこか遠くを見てる」
「いつから……こうなったんですか」
「四年前さ。アルミダって女が来てから」
その名前を聞いて私の体が強張った。老人は気づかずに続ける。
「最初は評判がよかった。『美しくなれる』『新しい自分になれる』ってな。女房たちは飛びついた」
網を繕う手が少し乱暴になった。
「うちの女房もだ。最初は『ちょっと試してみるだけ』って言ってた。鎖を一つ買って、嬉しそうにしてた」
「鎖……」
「『光彩の鎖』とかいうらしい。最初は一つ。それが二つになり、三つになり」
老人は手を止めた。
「気がついたら、全身鎖だらけさ。朝から晩まで鎖の音を鳴らして歩いてる。重くないのかと聞いても、『これが美しいの』の一点張り」
霧の向こうに、ぼんやりと船の影が浮かび上がる。光が差し始めてもすぐには輪郭がはっきりしない。
それが、今のこの街のように思えた。
形はあるのに何かが覆っていて本当の姿が見えない。美しさに包まれた霧の中で、人々はどこに向かっているのだろう。
そんなことを考えていると、老人の声がまた響いた。
「鎖ってのはな、嬢ちゃん。最初は軽いもんで、飾りみたいなものだった。でも、一つ増え、二つ増えるうちにどんどん重くなる」
節くれだった指が網の結び目を示す。
「これを見てみろ。網ってのは結び目でできてる。でも、結び目は解ける。必要なら結び直せる」
「……私も、結び目の術を使います」
思わず口にしていた。老人が興味深そうに顔を上げた。
「ほう、術師さんか」
「はい、力の流れに結び目を作って、向きを変えたり支点にしたり。でも、固く結びすぎると自分でも解けなくなるから、程よい強さで」
「そうだ、それだ」
老人が膝を打った。
「結び目は『繋ぐ』もんだ。でも鎖は『縛る』もんだ。似てるようで全然違う」
老人は立ち上がり、海を見た。
「鎖は一度繋いだら、簡単には外せない。外そうとすれば鍵がいる。でも、その鍵を持ってるのは——」
「……アルミダ」
私が呟くと、老人は頷いた。
「そういうことさ。女房たちは自分で外せなくなってる。いや、外したくても外せない。外したら『醜くなる』『誰にも見てもらえなくなる』って恐怖に縛られてる」
波が岸壁に当たる音が大きくなった。潮が満ちてきているのだろう。
「どうすれば……外せるんでしょうか」
私の問いに老人はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「わからん。でもな」
老人は私を見た。
「誰か一人でも、勇気を出して最初の鎖を外せば、きっと続く者も出てくる」
「最初の一人……」
「羊の群れを知ってるか? 一頭が崖から飛び降りればみんな続いて飛び降りる。逆に言えば、一頭が違う道を行けば何頭かは必ずついていく」
老人は網を肩に担いだ。
「ただし、その最初の一人は相当な覚悟がいる。『裏切り者』『醜い』『空気が読めない』——さんざん言われるだろう」
歩き出しかけて老人は振り返った。
「でもな、嬢ちゃん。実は心の底ではみんな気づいてるんだ。このままじゃいけないって。ただ、誰も言い出せないだけさ」
そう言って、老人は自分の船へと歩いていった。
私は一人、朝陽に照らされ始めた海を見つめた。霧はほとんど晴れ、青い水平線がくっきりと見える。
鎖と結び目。
その違いを私は今まで深く考えたことがなかった。でも、確かに私の結び目は解けることを前提にしている。状況に応じて結び直し、必要なくなれば解く。それが『支える』ということ。
でも鎖は違う。一度繋げば外れない。外すには壊すか鍵を使うしかない。
マリーも、この街の女性たちも心に見えない鎖を巻きつけている。「美しくなければ価値がない」「認められなければ意味がない」という鎖を。それは、誰かが無理やり外すことはできない。本人が外したいと思わなければ。
そして、外したいと思った時、そばで支える誰かがいれば——
立ち上がると朝露で濡れた木箱の跡が服についていた。私はそれを払いながら、もう一度港を見回す。
漁師たちが次々と集まってきていた。黙々と準備をする男たちの中に時折、鎖をじゃらじゃら鳴らした女性たちの姿が見える。朝からあの重い鎖をつけて、厚い化粧をして。その姿は確かに老人が言った通り人形のようだった。
でも——よく見ると、何人かは鎖の数が少ない気がする。錯覚かもしれない……希望的観測かもしれない。それでも、何かが動き始めているような気がした。
宿へ戻る道すがらパン屋の前を通った時、女主人が店を開ける準備をしているのが見えた。昨日と同じ奇抜な格好。でも、手つきがどこかぎこちない。それは鎖が作業の邪魔をしているから。
彼女はため息をつき、一つだけ鎖を外した。小さな金属音。でもすぐに慌てたように辺りを見回し、また鎖をつけ直した。
——怖いんだ。
外したい気持ちと、外せない恐怖。その間で揺れている。
私の胸の奥で、何かが固く結ばれた。これは解くべき結び目じゃない。決意の結び目だ。
宿の扉を押し開けると朝食の準備の音が聞こえてきた。階段を上がり部屋に戻る。
三人はまだ眠っていた。
私は窓辺に立ち、昇ったばかりの太陽を見る。新しい一日が始まる。この街に小さな変化を起こすための一日が。




