第33話 夜の告白
10/29 締めの文章を微調整しました。
その夜、私は灯りを落とした部屋の天井を見つめていた。
寝台の上で横になっても胸の奥の痛みは静まらない。目を閉じればマリーの震える声と笑顔が何度も瞼の裏に現れては消える。
——幸せだよ。
その言葉は形になっていた。けれど、あの目は泣いていた。矛盾した光景が針のように胸に刺さったまま抜けない。
ぼんやり視線をずらすと、隣の寝台でガルドが静かな寝息を立てている。セイルは壁際の椅子に腰を掛け、薄い本をひらひらとめくっていた。テオは小瓶を光にかざして、色の揺れを確かめている。
「……少し、歩いてくるね」
自分の声を聞いた瞬間、胸のざわめきがほんの少しだけ整う。
セイルが顔を少しだけ上げて頷いた。
「気をつけてね」
「うん。すぐ戻るから」
テオは「連絡、必要なら合図」とだけ言う。二人の視線を背に、私はそっとドアを閉めた。
◇
港の夜は、昼間とはまるで別人のようだった。
遠くの灯りが波に揺れ、影が長く伸びる。酒場からは笑い声と薄い音楽が混じって漂っていた。
潮の匂いは昼よりも濃く、冷たい風が頬を撫でるたびに胸の奥の熱が少しずつ引いていく。
波間に揺れる光を見つめながら、ふと幼い日の記憶が浮かんだ。マリーと並んで夜の川に小石を投げていた時の笑い声。
あの頃の彼女は、未来の話をするたび、目を輝かせていた。
けれど、今のマリーは——
足元で波の音が途切れる。
気づけば、私は街の中心部に向かっていた。
潮の音が遠のき、代わりに街の奥からざわめきが近づいてくる。
踏みしめる石畳は冷たく硬く、夜の輪郭を際立たせた。
白い館の壁が月光を反射して静かに浮かび上がる。昼間に見たアルミダの館。あの冷たい輝きが夜の中では一層強く見えた。
私は一度立ち止まり、息を整える。ここから先に進むべきか心がためらう。
けれど、止まることはできなかった。止まれば、また何かを取りこぼす気がした。
そのとき――
「それで、次はどうするご予定で?」
声が聞こえた。男の低い声。
私は反射的に石壁の陰へ滑り込み、息を潜める。壁の冷たさが背中に染みて、膝がかすかに震えた。心臓の音がやけに大きく響く。
「予定通りよ。八日後の“美の祭典”で、また新しい商品を発表する。みんな喜んで買うわ」
その声——間違いない。アルミダだ。
昼間の柔らかな口調は消え、冷たい刃のような響きだけが残っている。
「それにしても、よくこんな嘘を信じますね」
男の声は年配らしく、疲れを押し殺した響きをしていた。
「人は、“みんなが信じているもの”を疑わないのよ」
アルミダの声が乾いた笑いを含む。
私の胸の奥でざらりとした嫌悪が広がった。
「私が作った価値観に乗れば、彼女たちは簡単に“美しくなれた気”になれる。それでいいじゃない」
“気”。
私は無意識に手で口元を押さえた。息がこぼれてしまいそうだったから。
「ですが、さすがにこれ以上は——」
「問題ないわ」
アルミダは男の言葉を切る。切り捨てる、というよりは最初から聞く気がない声だった。
「私がこの街を支配している限り、誰も疑問に思わない。“光彩の鎖”も“輝きの雫”も、全部私が作った“物語”。それを信じるのは、彼女たちが“救われたい”から」
「救われたい……ですか」
「そう。地味で、目立たなくて、誰にも見てもらえなかった女たち。そんな彼女たちに、“美しくなれる方法”を教えてあげた。それだけで、彼女たちは私を信じるの」
アルミダは一瞬歩みを止めた。
月明かりに照らされたその横顔が、皮肉げに歪む。
「そもそも私自身、あの格好を“美しい”なんて思っていないのよ」
「え……?」男の声がわずかに揺れる。
「鎖を巻き、顔を塗りつぶして、それで“美しい”と錯覚して笑っている。滑稽でしょう? でも彼女たちはそれを望んでいるの」
彼女の口元に薄い笑みが浮かぶ。
それは楽しげというより、飽きたような笑みだった。
「私はその欲望を叶えてあげているだけ。救いが欲しいなら与える。どうせみんな、誰かに形を決めてもらわなきゃ美しくなれないんだから」
「つまり……利用している、と?」
「“導いている”のよ」
その声は美しく整っていたが、どこか自嘲を含んでいた。
アルミダはふっと笑い、続けた。
「美なんて、信じた瞬間に形を失う幻想。だったら、幻想を“作る側”に回った方が早いと思わない?」
沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、彼女の衣の裾が小さく揺れる。
その音が笑い声にも、ため息にも聞こえた。
「愚かよね。でも構わないわ。私にとっては都合がいいもの」
「アルミダ様は、本当にそれでよろしいのですか?」
男の声に、わずかな迷いが滲む。
「いいに決まってるでしょう」
即答だった。氷のような冷たさが夜に響く。
「私がこの街で誰よりも美しい。それ以外はいらないの」
足音がこちらに近づく。私は壁に背を押し付け、息をさらに細く絞った。ドクンドクンと心臓の音がうるさい。見つかるかもしれない――そんな恐怖が足の裏に棘のように刺さる。
「じゃあ、今日はこのへんで。祭典の準備、しっかりやっておいて」
「……はい」
返事は小さく弱々しかった。やがて二人の足音は別々の方向へ遠ざかっていく。石畳に擦れる靴音が完全に消えたあと、世界はしばらく音を失った。
……何も、聞こえない。
波の音も、風の音も、遠くの笑い声も、今だけはどこかへ行ってしまったみたいに。
私の胸の中でだけ、会話の残響がこだましている。
私は壁から背を離し、視線を落とすと指先が震えていた。けれど、目ははっきりと夜の奥を見据えていた。
こんなの間違っている。
“光彩の鎖”も、“輝きの雫”も、“統一された美”も。
路地の陰から慎重に出て周囲を確かめる。誰もいないことを確認してから、私は宿へ向けて足を速めた。歩幅は自然と大きくなる。心臓はまだ激しく鳴っている。けれど、その鼓動は先ほどの恐怖ではなく、なにか別の音のように感じた。




