表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/63

第31話 鏡の街、声のない笑顔

 宿は港の近くにあった。「海鳴りの宿」と書かれた木の看板が、潮風に揺れている。

 白い波音が遠くから届いて、まるで海が呼吸しているように聞こえた。


 中に入ると、木の匂いと塩の匂いが混じった空気が鼻をくすぐる。

 カウンターの奥で、落ち着いた声の女性が顔を上げた。


「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」


「はい。四人で一部屋、お願いします」


「四人部屋ですね。ベッドが四つある部屋が空いております。三泊でも?」


「とりあえず、そのくらいで」


 私が答えると、女性は帳面にペンを走らせ、真鍮の鍵を差し出す。

 それが、旅の一区切りを告げる小さな音に聞こえた。


「二階の五号室。食事は朝と夜、一階の食堂になります。何かあったら、いつでもおっしゃってくださいね」


「ありがとうございます」


 部屋に入ると、四つのベッドが壁際に並んでいた。

 窓は大きく開いていて、潮の匂いが風に乗って流れ込んでくる。

 簡素だけれど、心の呼吸ができる空間だった。


 荷を下ろし、四人でテーブルを囲む。

 木の表面に置いた掌の熱が、じんわりと広がっていく。


「……さて」


 私が口を開くと、三人の視線が自然と集まった。


「まず、この街の様子を整理しよう」


 ガルドが頷き、腕を組む。


「女性たちが全員、同じような格好をしてる。……正直、怖えくらいにな」


 セイルは窓の外に目をやりながら、低く続けた。


「うん、個々の呼吸じゃなくて、誰かの呼吸に合わせて動いてるみたい。……空気が“揃ってる”」


 テオは腰袋から小瓶を取り出す。市場で買ってきた“輝きの雫”だ。

 瓶の中の金色が、ランプの光を受けて鈍く光る。


「“光彩の鎖”、“輝きの雫”——どちらも粗悪品。でも、みんな信じて買ってる」


「そして、“アルミダ”って人物が、この街の美しさの基準を決めてる」


 ガルドが唸るように続ける。


「……ミナの友達のマリーも、その影響を受けてるんだな」


 胸の奥がじくりと重くなる。

 窓の外では港の船がゆっくりと揺れ、遠くで鐘の音が鳴っていた。

 その音が、やけに長く耳に残る。


「昔のマリーは、もっと自由だった。自分の作りたいものを作って、誰よりも楽しそうに笑ってた。でも今のマリーは……」


 喉の奥に小さな棘が引っかかったみたいに、言葉が止まる。

 思い出の中の笑顔が、今の硬い笑みと重ならない。


「今のマリーは、誰かの基準に合わせて生きてるように見える」


 セイルの声は静かで、慎重だった。

 視線は窓の外、揺れる帆布の向こうに遠い何かを見つめている。


 私は深く息を吸い込む。

 肺に塩の匂いが満ちて、頭が少しだけ冷える。


「明日、アルミダに会いに行こう。直接話を聞けば、何かわかるかもしれない」


 言葉にすると、決意が形を持ったように感じた。



     ◇




 翌朝、港の街は光で満ちていた。

 朝の潮風が魚の匂いと香水の匂いを一緒に運んでくる。


 魚を積んだ荷車が石畳を軋ませ、商人たちの声が重なり合う。

 でも、その喧騒の中で——女性たちだけがまるで異世界の住人のように浮いていた。


 全員が同じ服を着て、同じ色の鎖を身にまとい、同じ速度で笑っている。

 整いすぎた景色は、美しいというより怖かった。


「すみません、少しお聞きしてもいいですか?」


 私は野菜を売っている女性に声をかける。

 彼女は笑顔で振り向いた。けれど、その笑顔の“形”が完璧すぎて、一瞬身構える。


「なあに?」


「この街の“アルミダ”という方について、教えていただけますか?」


 名前を出した途端、彼女の目がぱっと輝いた。

 まるで“スイッチ”が入ったように。


「アルミダ様! 素晴らしい方よ! この街の誇りだわ」


「どんな方なんですか?」


「美しさを教えてくれる方。“光彩の鎖”も、“輝きの雫”も、全部アルミダ様が勧めてくれたの。おかげで、私たちは美しくなれたわ」


 彼女は誇らしげに、首元の鎖を指で撫でる。

 金属の擦れる音が、やけに大きく響いた。


「美しく……なれた、んですね」


「ええ! 前の私なんて、地味で目立たなかったけど、今は違うの。みんなに認められてるの」


 彼女の笑顔は、絵の中に描かれた笑顔のようだった。

 完璧で壊れない。でも、どこにも“呼吸”がない。


「ありがとうございます」


 私は礼を言ってその場を離れる。


「どうだった?」


 ガルドが声をかける。


「……アルミダを信じてる。疑いなんて少しもない」


「洗脳……近い」


 テオが短く言う。


「……そうかもしれないね」


 セイルは市場の人々を眺め、風の流れを読むように目を細める。


「でも、みんな笑顔で不幸そうには見えない」


「それが……一番怖いんだよ」


 私は小さく呟いた。


「“幸せそう”に見えるから、誰も疑問に思わない」


 足もとに生えた雑草が、石畳の隙間から伸びていた。

 踏まれてもなお緑を残しているその小さな色が妙に痛く見えた。


 私たちは市場を後にし、街の中心部へ向かった。




     ◇



 街の中心部には巨大な建物が立っていた。

 白い壁が陽光を反射して、塔が空を刺す。

 宮殿のように派手だが、どこか“無機質”な華やかさ。


 その前には看板が掲げられていた。


「美の殿堂——アルミダの館」


「……ここか」


 ガルドが低く呟く。


「入れるのか?」


「試してみよう」


 私たちが門の前に立つと、門番が近づいてくる。

 光沢のある制服、無表情。まるで機械のようだった。


「ご用件は?」


「アルミダ様にお会いしたいのですが」


 私が言うと、門番は一瞬目を細め、すぐに頷いた。


「お待ちください。確認してまいります」


 ほんの数分で戻ってきて、信じられない言葉を告げた。


「アルミダ様がお会いになるそうです。どうぞ、中へ」


「……えっ、わかりました」


 すんなり通されすぎて、逆に不安が膨らむ。

 けれど、もう引き返せなかった。


 館の中は静かで、音が吸い込まれるようだった。

 壁に飾られた絵画はどれも強烈な色彩。赤と金、紫と緑——

 調和ではなく“支配”。目を奪い、心を固定する色。


「……派手だな」


 ガルドが小声で言う。


「派手、というより……押し付けがましい」


 セイルが続ける。その視線の先に、鏡のように輝く絵があった。

 描かれた人物たちは全員が同じ笑顔。目だけが、まるで“誰かの命令”で動いているようだった。


 やがて、私たちは応接室に通される。

 壁一面の鏡が、私たちを何重にも映している。

 “自分を見つめろ”というメッセージのように。


「お待たせしました」


 扉が開くと一人の女性が現れた。


 奇抜なファッション、派手なメイク。——看板の女、アルミダ。

 金と赤の衣装が光を吸い、歩くだけで視界が奪われる。


「初めまして。私がアルミダよ」


 声は柔らかく、笑顔は完璧。

 だが、その完璧さこそが、何よりも人間味を奪っていた。


「初めまして。私はミナです。こちらはガルド、セイル、テオ」


 名を告げると、アルミダは私たちをゆっくり値踏みするように見た。

 視線が触れただけで、皮膚が冷たくなる。


「ようこそ、フィオーレへ。旅の方かしら?」


「はい。この街のことを少し知りたくて」


「あら嬉しいわ。この街は“美の街”。誰もが輝ける、素晴らしい場所なの」


 アルミダはソファを勧め、優雅に腰を下ろした。

 仕草一つまで“完璧に演出されている”感じだった。


「この街では誰もが美しくなれるの。“光彩の鎖”をつけて、“輝きの雫”を飲めば、誰でも輝けるのよ」


 彼女はうっとりと笑う。

 その笑みの下に、薄氷のような冷たさが見えた。


「でも……みんな、同じに見えます。それは本当に“美しい”んでしょうか?」


 私が問うと、アルミダの表情がわずかに変わった。

 笑顔はそのままなのに、瞳の温度だけが一度下がる。


「同じ? それは調和よ。統一された美しさこそが、真の美なの」


「統一された……美しさ」


「そう。個性は時に“醜さ”を生むの。けれど、みんなが同じ方向を向けば街全体が調和する。——それが美なのよ」


 その声に、私は背筋を冷たい指でなぞられるような感覚を覚えた。

 言葉は優雅なのに、響きは“命令”のようだった。


「個性は……醜さを生むんですか」


「ええ。だから私はこの街で“基準”を教えてあげているの。みんな、感謝しているわ」


 その目には一点の迷いもなかった。

 確信と支配が、まるで美徳であるかのようにそこにあった。


「……そうですか」


 息を吸うのも重たい。

 空気そのものが鏡のように、冷たく硬い。


「あなたたちも、よかったら“光彩の鎖”を試してみない? きっと似合うわ」


「いえ……今は、大丈夫です」


 私が断ると、アルミダは形だけの微笑みを浮かべた。


「そう。残念ね。でも、いつでも来て。美しさは、誰にでも“開かれている”のだから」


 その言葉は、まるで網のように聞こえた。


 私たちは礼を言って、館を後にする。


 外に出ると、潮風が頬を撫でた。

 冷たい空気が肺を洗うようで、ようやく息ができた気がした。


「……どう思った?」


 私が問うと、ガルドが短く答える。


「胡散臭ぇ。あんなの信じられるか」


「表面だけがきれいで中身がない。鏡みたいな人だった」


 セイルが言い、テオが淡々と補う。


「“統一された美”——強制。危険」


「……うん、私もそう思う」


 私は拳を握る。

 けれど、怒りよりも先に胸に残ったのは“怖さ”だった。


「でも、証拠がない。このままじゃ、きっと誰も信じてくれない」


「じゃあ、どうする?」


 ガルドの声が潮騒の合間に落ちる。


「……マリーに、もう一度会いに行きたい」


 私は静かに言った。


「マリーの本当の気持ちを……聞きたい」


 言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。

 もう、昔みたいに笑い合えないかもしれない——そんな予感が、波音の隙間で静かに膨らむ。

 それでも、聞かなければ前に進めない。

 怖くても、逃げずに確かめたいと思った。

 


 港の光が、少しずつ夕色に変わっていく。

 風が潮を孕み、鎖の音が遠くで鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ