第3話 居場所はここに
三日月亭は、夜になると客でいっぱいだった。扉の鈴がころんと鳴り、灯りは油の匂いといっしょにやわらぐ。
鉄鍋の底で煮込みが気長に泡をはじき、木の皿が重なる音は乾いて軽い。笑い声は重ならず、湯気の層に吸い込まれていく。漂う肉と香草の匂いが、石畳の冷えをほどいていくようだった。
「おや、昼間の四人! よく無事に戻ってきたね。話はもう耳に入ってるよ」
カウンター越しに女将さんが声をかけ、にこにこと手を振った。
「……ワイバーンの尾、厨房に預けても?」
「はは、うちの鍋で煮込めるのは鶏くらいさ。あれはギルドにでも持っていきな」
笑いながら、女将さんは手ぬぐいで指先を拭き、奥を指した。
「さあ、席はもう用意してあるよ。もう……相席はいらないだろうね」
案内された奥の四人席。厚手の布が敷かれ、テーブルの上には肉の煮込み、芋のグラタン、焼いた白パン、たっぷりのサラダ。銀の小さな匙には蜂蜜が少し。エールの泡がやさしい音を立て、グラスの側面を細かい気泡が登っていく。椅子は背中を素直に受け止め、足元の木目は磨かれて滑らかだ。
「今日は、乾杯していい日だよ」
女将さんが小声で言って、去っていく。私たちはグラスを持った。声は大きくない。大きくしなくても、今夜はちゃんと届く。
「俺、言っていいか」
ガルドが照れた顔で言った。耳がほんの少し伏せて、すぐ戻る。尻尾は椅子の脚に一瞬ふれて、するりと外れた。
「今日、楽しかった。怒鳴られないし、誰かの失敗の穴埋めを、誰にも押しつけられない。足並みが合うって、こういうことかって……」
彼はパンの端を手で割り、煮込みの縁をすくって口へ運ぶ。噛むたびに肩の力が抜けていくのが見えた。
「ぼくも。矢が自由に飛ぶって、こんなに気持ちがいいんだね」
セイルはグラスを胸の前に持ち、弦を弾くみたいに縁を一度だけ指でなでた。目は笑っていて、視界は遠くまで開いている。
「……僕の小物、役に立った」
テオは短く言い、腰の袋から小さな金具をひとつ出して、親指で角をなでた。磨かれた面が灯りを細く返す。金具は席に戻り、布の音が小さく鳴る。
「私も……ちゃんと力になれたんだって、そう思えた日だった」
それだけで、少し泣きそうだった。誰かに“すごい”と言ってほしいんじゃない。ちゃんと効いたねって、一緒にわかっていてほしかったんだ。
……手応えは、ここにある。肉の香り、芋の甘み、パンの焼けた皮の香ばしさ。すべてが「無事」を肯定している味だ。
「ミナ、グラタン、熱い」
「ありがとう」
テオにスプーンを渡され、私は皿の端から少しずつ崩して食べた。中の芋はやわらかく、塩がきいている。セイルは大皿のサラダを手際よく取り分け、全員の前に小皿を置いていく。
ガルドはパンを白い皿の角で受けて綺麗に割る。
私はテーブルの端に転がっていたパン屑を指先で寄せ、布の上を少し整えた。
どれも、誰に言われなくてもやっていた動作。
「……こういうの、初めてかもしれない」
気づけば、口から出ていた。
「何が?」
「やったことが、そのまま“やってよかった”に届くの。帳尻合わせじゃなくて」
ガルドが頷く。
「すげぇ分かる。『とりあえず壁になっとけ』とか、『邪魔だから下がれ』とか、どっちの言葉に合わせても怒られたからな」
「ぼくも。『器用貧乏』って言葉、便利に使われすぎだよ」
セイルは苦笑して、指に付いた塩を舌でぬぐった。
「僕は、『ちまちま』って笑われると、喉が詰まる感じがしてた。でも、今日はすごく呼吸がしやすい」
エールが喉を通り、胸の内側の緊張がすっと落ちる。グラスが卓に戻るたび、木とガラスの乾いた音が、同じ高さでそろう。
「みなさん、すみません。ミナさんたちって——」
店の子が、申し訳なさそうに奥を指した。入口に影が重なる。四つ。足音に聞き覚えがある。私の胸の奥のどこかが、少しだけ固くなる。ガルドの耳がぴんと立ち、セイルの指がグラスの縁から離れる。テオは金具をそっと袋に戻した。
一人目。私の元パーティー。派手なマントのリーダー。彼は一度だけ私たちの食卓を見て、それから私を見た。
「ミナ」
名前を呼ぶ声が、あの時より低い。私は立ち上がらない。座ったまま、グラスを両手で持つ。
「……討伐の件、聞いた。ワイバーンだろ。探してたんだ。よかったら、戻らないか。やっぱり、お前が必要だ」
そこで彼は少し言葉を選ぶ顔をして、言い直した。
「改めて実感した。ミナがいると楽なんだ。今の子、派手なことは得意なんだけど、細かいことが苦手でさ……段取りだけでも、戻ってきてくれないか?」
背中のどこかが熱くなる。懐かしい音色。でも、違う。
「依頼なら、受けます」
私は静かに言った。
「でも、戻りません。今の席は、四人分です」
テーブルの縁に指を置く。さっき決めた位置のまま。私はそこから動かない。
リーダーはしばらく黙って私を見ていた。やがて小さく息を吐き、グラスを傾ける。
「……そうか」
その声には、自分の選択を悔やむ色が滲んでいて、
目は私を見ていない。過去の光景を掘り返すみたいに、焦点が遠くへ逸れていた。
二人目。ガルドの元仲間と思われる装飾の多い軽戦士。彼はガルドの体を上から下まで眺めて、口角だけで笑った。
「……ガルド。あの時は言い過ぎた。戻ってこいよ。やっぱりお前の壁がないと、いろいろ面倒でな。でかい扉こじ開けるのも、荷物運ぶのも、代わりが利かない」
ガルドの耳がわずかに伏せ、尻尾が椅子の脚に巻きつく。彼は息をひとつ整え、笑ってみせた。笑いの形が、今日の彼の勇気だ。
「俺は壁じゃない。俺は、前で支える。扉こじ開けは依頼で出すなら考える」
軽戦士は小さく呟く。
「……俺たちの自業自得だな」
視線は卓の上に落ちる。その呟きは自分に言い聞かせるようで、未練がにじんでいた。
三人目。セイルの元仲間っぽい派手な剣士が前に出て、肩をすくめる。
「……万能くん。やっぱ君、必要だわ。新しく入れた子、矢は真っ直ぐなんだけど、なかなか小回りが利かなくてさ。君はいろんなこと出来るでしょ? 穴埋めできる人材って、替えがないんだよね。ね、戻ろ」
セイルはグラスを置き、少し遠くを見る。目の色がわずかに濃くなる。
「ぼくは、ただの不足を埋めるための穴じゃない。だから……ごめん、戻らない」
派手な剣士は一瞬だけ言葉を失い、少し目を伏せた。
「……だよねぇ」
苦い笑みが口元に浮かんでいたが、それは本音を覆い隠すには弱すぎた。
四人目。テオの前にも元仲間らしき影が立つ。大きな斧を背負った男。筋肉質な腕を組み、声は無駄に大きい。
「テオ。お前のちまちました仕掛けも悪くなかったが、やっぱり“見栄え”がな……戦場じゃでっけぇ斧を振り下ろす方がよっぽど士気が上がるんだ」
男は背中の大斧を軽く叩き、誇示するように肩へ担ぎ直した。刃に灯りが映り込み、鈍く光る。周囲の客の何人かがちらりと視線を向けたが、すぐに目を逸らした。
「あーつまりだな……また戻ってきて、消耗品とか、戦いを派手に見せる道具でも作ってくれよ」
テオは目を合わせず、言葉を飲み込むように黙っていた。机の上に映る灯りだけが、彼の横顔を照らしている。彼は視線を戻し、短く答える。
「僕の小物で、今日、命が留まったのを見た。だから、僕はこっちで作る。消耗品は、相場の値段で」
男は言葉を失ったように黙り込んだ。肩に担いだ大斧の刃先が、ほんの僅かに下がる。
視線はテオの手元の袋に落ちて、何かを思い出すように一度だけまばたきをした。唇がわずかに動き、飲み込んだ言葉が喉に引っかかる。
「……考え直したりは——」
「その時は依頼として窓口で。割引はしないけど、期日は守る」
私が言うと、四人同時にため息をついて、少し笑いそうになる。誰もこちらを見ず、視線は卓の上をただ彷徨っていた。
「ミナ」
リーダーが最後に、もう一度だけ、私の名前を呼んだ。私は頷く。挨拶だ。さよならを言うための。
「お疲れさまでした。——お互い、頑張りましょう」
拍手はなかった。でも、静かに幕が下りる音がした。四つの影は順番に外へ出て、鈴が四度、短く鳴る。鳴るたびに、店の空気がゆっくり戻ってくる。
最初に戻ったのは、匂いだった。肉の脂が香草をまとって立ちのぼり、パンの皮の香ばしさが遅れて追いかけてくる。
次に音。奥の席の笑い声が層を取り戻し、木椅子が軋む音と、皿が重なる小さな打音が、所定の位置へ戻る。最後に灯り。ランプの炎が一度だけ揺れて、それから安定する。明るすぎず、暗すぎない。私たちにちょうどいい明るさ。
「お待たせ。追加のお肉。今日は特別だよ!」
女将さんが新しい皿を置く。縁に湯気が絡み、ソースの照りが灯りを返す。テオが「ありがとうございます」と小さく言い、ガルドは礼をし、セイルは皿の位置を全員の手の届くところへ動かす。私はナイフを取って、四つに分けた。
「四人の名前、そろそろ決める?」
セイルが言う。グラスの泡はもう低く、音は短い。
「余白は?」とテオ。「目立たないけど、必要なスペース」
「いいな」とガルド。「余白は落ち着く」
私は卓の端を見た。パン屑が少し。皿と皿のあいだに空きがあって、手を置ける場所がある。メモ帳の、一行の空白も思い出す。空きは不安じゃない。置き場所だ。
「余白の四人……うん、いいね」
言葉が落ちた瞬間、卓を囲む空気がやわらかく揺れた。セイルは目を細め、テオは小さく頷き、ガルドは照れ隠しのように鼻先をかいた。
その名は不思議としっくりして、胸の奥にすとんと収まる。
「じゃあ、余白の四人の結成を記念して、乾杯」
私たちはグラスを合わせ、小さな音が響く。誰も大きな声は出さない。出さなくても、ちゃんと届くと知っているから。




