第28話 光は続いていく
白鷺亭の戸をくぐると、油灯の匂いと温い湯気がふわりと迎えてくれた。女将さんが帳場から顔を上げる。
「おかえり、今日は少し遅かったじゃないか」
「はい、少し用事がありまして」
そのまま女将さんはガルドの腕へ視線を落とす。
「なんだい、ずいぶん立派な盾を持ってるじゃないか」
ガルドは一拍だけ言葉を探し、短く息を吸ってから答えた。
「……憧れの人から、受け取ったものだ」
女将さんは目を細め、口元で笑う。
「そうかい。——なら、その人も嬉しかったろうね」
ささやかな響きなのに、それが答えみたいに胸に残る。
「そうなん……すかね」
自信なさげな返しに、女将さんはすかさず眉を吊り上げる。
「まったく、シャキッとしな!受け取ったアンタがそんなんでどうすんだい!」
背中を片手で押してくれる人がいるだけで、足の向きは前に揃う。そういう“人の手”を、私はちゃんと覚えておきたい。
女将さんは手ぬぐいで卓を拭きながら、軽く顎で盾を示した。
「アタシはそういった道具に詳しいわけじゃないけどさ。大切に使われてきたものってのはわかるよ」
ガルドは思わず盾の縁に指を置き、そっとなぞる。縁の鋲の冷たさの向こうで、何層もの時間が鈍く光った。
「そして、それを継いでくれる相手がいるってのは、嬉しいもんさ」
渡した人の手の温度と、受け取った人の手の温度が、道具の中で混ざり合う。——“託す”って、きっとそういうこと。
「……おおかた、口下手なおやじとかだろ」
ガルドは鼻を鳴らし、視線を伏せてから小さく上げ直す。
「……まぁ、そういう感じの人、だ」
ズバリ言い当てられたガルドの声は、後半にかけて次第に小さくなっていった。
「男ってやつは素直じゃなくてね、口よりも行動で示す生き物なんだよ」
女将さんはぽん、と帳場の角を叩き、ことさらに明るい声に戻した。
「だから、大切なものを渡して、アンタがそれを受け取った。——その事実が、何よりの証明なんだよ」
ガルドは盾の面を軽く拳で叩き、音を確かめるみたいに一拍置いて頷く。
「……はい」
それから、私を指でさしてくる。
「そっちの子も、そう思うだろ?」
「はい。……私も、そう思います」
女将さんは満足げに頷き、今度はセイルたちを見渡した。
「それとアンタら、ちゃんとこの子の身だしなみとか気にかけてるのかい? あんたたち野郎の基準で考えちゃいけないよ」
「あっ、はい」
セイルが女将さんの力強さに反射的に言葉を返し、テオは真顔のまま、腰袋の中身を確認するみたいに短く言った。
「基準、更新。——了解」
「えーっと、俺は、その、実用的で——」
「実用的“だけ”は男の理屈さね。女の子にとっては見られ方も大事なんだよ」
女将さんのひとことで、ガルドの言葉が喉で止まる。耳の先が、ほんの少しだけ赤くなった。
「ったく、困った男どもだよ」
肩をすくめながらも、目尻は笑っている。叱る調子で背中を撫でる、あの人らしいやり方。
「ふふ、ありがとうございます。でも、みんな、私には勿体無いくらいの仲間なんです」
「そうかい。なら、いいけどね」
女将さんは手ぬぐいを畳み、話題を切り替える。
「ここからさらに南へ行った“フィオーレ”って街は、なんでも『美の街』って言われてる。アタシにはよくわかんないけど、女の子たちに人気らしいよ」
カウンターの向こうの壁に、昔の港の絵葉書が小さく貼ってある。白い帆、入り組んだ海路、夜の提灯——旅の匂いが一瞬混ざる。
「各地から物や情報が集まる港街だからこそかもしれないね。気になったら行ってみてもいいかもしれないよ」
“フィオーレ”。口の中で一度だけ転がす。花の名前みたいな、軽い音。
「じゃあ、アタシはそろそろ寝るよ」
ひらひらと手を振って奥へ下がりかけ——ふと、こちらを振り返る。
「美しいといえば、リベラから見る星空もなかなかだよ。ここの数少ない名物さ。今夜はよく見えるから、見たかったらこのあと外に出て見てきな。帰ったら適当に玄関の鍵だけ掛けてくれればいいよ」
嵐みたいに言いたいことを言い切って、女将さんはまた手をひらひらさせ、奥へ消えていった。
しばしの間。私たちは顔を見合わせ、自然と頷く。
「……せっかくだし、星を見に行こうか」
外套を一枚ずつ肩に掛ける。戸口の敷居でひと呼吸、内と外の温度差が頬に触れた。
◇
白鷺亭の前の小さな広場に出ると、夜はひとつ深く澄んでいた。風は弱く、木々の黒が輪郭を持つ。頭上には、驚くほどの星。細かな砂をこぼしたみたいに、空の奥へ奥へと続いている。
「きれい……」
思わず、声がこぼれる。吐いた息は白くはならないのに、胸の奥だけがすっと澄んでいく。目で拾える光が増えると、考えごとの角も不思議と丸くなる。
「これは……すごいね」
セイルが星をを数えるように目を細める。テオは肩を上げ下げして呼吸の深さをそろえ、ぽつりと置いた。
「静か。——振り返り、適切」
ガルドは盾をそっと地面に立てかけ、星を仰いだ。新しい鉄の縁がわずかに夜を映す。
「……似合ってる、って言われたの、効いたな」
誰にというわけでもなく、低く言う。
「ドランさんのこと?」
「あぁ、あの人の口から、ああやって出てくるとは思わなかった。……別に、認められるために構えたわけじゃねぇけどさ。前に立つ理由を、ひとつ返してもらった気がした」
ガルドは少し照れくさそうに鼻を鳴らし、すぐ視線を空へ戻す。
「ぼくは、別れ際のあの人の目を見てさ、どれだけ大きくなっても、冒険者は冒険者なんだって、なんだか嬉しくなったよ」
セイルが言う。星明かりで見える彼の横顔は、どこか少年のままだ。
「裏と表の風みたいに、“今日”と“明日”は層が違う。でも、それはちゃんと続いてるんだって」
テオは短く継ぐ。
「約束、退路、支え。——今日、渡せた」
私は星の群れを目でなぞりながら、胸の中の結び目をひとつずつ確かめる。ほどけて、また結べる柔らかさであるように。
「私……『結果の置き場所』を、間違えないでいようって思った」
三人がこちらを見る。私は続ける。
「“倒したかどうか”だけじゃなくて、“帰れたかどうか”、“次へ歩幅を残せたか”。……あの人は、自分が見失ってた帰り道を、やっと見つけられたんだと思う」
“勝ち”は刹那でも、“帰る”はその先まで続く。私たちが選びたいのは、続いていく方の線。
少しの静けさ。星は変わらず、しかし見え方はさっきと違った。
「次、どうする?」
ガルドが星から視線を戻す。
女将さんの言葉が、タイミングよく胸の奥から浮かぶ。港街、フィオーレ。美の街。物と情報が集まる場所。
「……フィオーレ、行ってみたい」
セイルは口元を緩め、指先で風の流れをひと撫でしてから頷いた。
「ぼくも。知らない世界が広がってそうだ」
「物資、道具、情報。港は“交差点”。有効」
テオの声はいつもと同じ淡々とした調子なのに、どこかに高揚の粒が混じっている。
「じゃあ明日、準備して出よう。装備の微調整と必要な買い足し。……出発は、お昼頃かな?」
「あぁ、問題ない」
「了解」
「了解」
決めた瞬間、体の中の隙間に静かな熱が差し込んだ。目には見えないけれど、確かに前へ押してくれる力。
私は星をもう一度仰ぐ。手を伸ばしても届かない。けれど、目でなぞることはできる。線と線を結び、名も知らない形を作る——物語の始まりみたいに。
「ねぇ」
セイルが指で空の一点をさす。
「あの明るい星と、その下の小さい三つ、線で結ぶとさ……“盾”に見えない?」
「言われてみりゃ、たしかに」
ガルドは浅く頷いてから、耳の先を少し赤くしたまま視線をそっと外へ逃がす。
「……まぁ、俺の盾の方がかっけぇけどな」
まるで子どもの自慢みたい——それがなんだか微笑ましくて、おかしくて。
「はいはい、それは僕じゃなくてあの人に直接どうぞ」
テオが「同意、喜ぶ」とだけ言い、私も「それがいいと思うな」と続く。
「なっ! そんなん言えるか!」
こんな、なんてことないやり取りも冒険で、幸せなことなんだって。
胸の奥で、そっとつぶやく。——そうですよね、ドランさん。
当たり前の尊さって、わかっていても、気づけば置き去りにしてしまう。けれど、彼の言葉と心に触れて——その尊さを、前より確かに感じられるようになった。
それは、失った痛みを知っている人の言葉だからこそ響いたんだと思う。あの後悔には、大盾に負けない重さがあった。今も、そしてこれからも私はこの重みを忘れない。それが、あの人が傷を負った意味になる気がするから。
指先で空に輪郭を描いた。今夜の星は、盾のかたちをしている。守るためでもあるし、通すためでもあるかたち。私たちの“今”に、こんなに合う形はない。
「ふふ、それじゃあ、戻ろうか」
私が言うと、三人が頷いた。鍵を掛ける音が、夜に小さく落ちる。
白鷺亭の灯は温かく、背中に残る。玄関の手触りが柔らかい。階段を上がる足取りは、自然と同じリズムになる。
布団に潜る前、もう一度だけ窓の外を見る。星はまだそこにある。きっと夜明けまで、変わらないようでいて少しずつ動いていく。
——受け継いだ重みと、これから渡す意志。
どちらも背中に背負って、私たちは南へ向かう。
これにて第2章は完結です。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
第3章は、1週間後の9月20日(月)から投稿を再開する予定です。




