第18話 餌と約束
朝の光はまだ浅く、ギルド小屋の板壁に細い影を作っていた。白鷺亭の湯気と塩の匂いを背に置いて、私たちは入口の脇で立つ。油ランプは落とされ、帳場の窓だけが半分開いて、紙の匂いがかすかに漏れていた。
扉の蝶番が一度鳴って、彼が現れた。長剣を背負い、肩の力は抜けたまま。歩調は速くも遅くもない。ただ、そこに線を引いていくみたいに真っ直ぐだ。
「ドランさん」
私が声をかけると、彼は立ち止まり、目だけをこちらへ寄越した。
「……なんだ。朝から」
「少し、お話を。人目の少ないところで」
半拍の沈黙。彼は鼻で息を鳴らし、顎で小屋の裏を示した。
「ちっ……手短にしろ」
◇
板壁の陰は湿っていて、草の匂いが濃い。柵越しの畑からは、鍬の土を返す音が薄く届く。私は呼吸をひとつ整え、言葉の順番を並べた。
「——“推薦”の件を、確認させていただきます」
「推薦?」
口角がわずかに上がる。からかう時の形だ。
「“指導を最後まで受けた者には、ギルドへ見込みありの推薦が出る”。あなたはそう言った。書面の形、押す印、渡す期日、窓口……約束の“線”を教えてください」
「……は?」
眉間の皺が一筋深くなる。彼は肩をすくめ、長剣の鯉口に親指を軽く置いた。
「お前ら、面倒くせぇな。紙がどう、印がどうって……推薦ってのは“口”だよ。“俺が話を通す”。それで通る」
「通らなかった時の線は?」
「通すっつってんだろ。わかんねぇか?」
声は上がらないのに、足もとだけが重くなる喋り方。私は言葉を丸くしすぎないよう、角も立てすぎないよう、舌の上で均す。
「……途中でやめた場合、“帳面に悪い印が付く”とも。規約で見たことはない。誰が、どこへ、どう付けるんですか」
「俺が付ける。俺が言えば、そういう扱いになる」
はっきりと言い切った。軽さと重さが同居する声。セイルが目を細め、テオの指先が布の端を一度だけ整える。
「装備の分割払いを“指導が終わるまででいい”と紹介したのは?」
「俺だな。必要なもんだろ? 弱ぇやつに前払いできる金なんてねぇ。支援してやってんだ」
「利子は?」
「お前らには関係ねぇな」
——“関係ない”と言いながら線を引いている。私の胸の内側で、結び目がひとつ固まる。私はもう一度、核心へ戻した。
「“推薦”を口にするなら、形を。書面は誰が書く? 名義は? ギルドの管理印? 渡すのはいつ、どこで? 保管は?」
彼は小さく笑い、肩を揺らした。
「はっ、お前ほんと紙が好きだな。——いいか、よく聞け。推薦なんざ“餌”なんだよ。必要なのは“今ここで走らせる”ことだ。わかったか」
“餌”。そのひと言が、胃の底に冷たく落ちる。私は息を短く整えてから、言葉を置く。
「——餌なら、約束じゃない」
「約束? 笑わせんな。現実は“できたかどうか”だけだ。俺は現実を教えてやってるんだよ」
ガルドの喉が低く鳴る。耳は伏せない。尾の根元だけが固い。セイルは風の層を数え、テオは視線を落として金具を一度だけ鳴らした。
「約束は、走らせるための首輪じゃない。帰れるための線だと思います」
私の言葉に、彼の目がわずかに細くなる。
「説教は聞き飽きた。——俺のやり方に口出す筋合いはねぇって言ってんだろ。あいつらは、“俺のやり方”で強くなる。嫌ならやめりゃいい。やめたら“弱い”って帳面に残るだけだ」
「……それが、あなたの“指導”なんですね」
「そうだ。“結果がすべて”。わかったら引っ込んでろ」
——言葉は通らない。なら、次の線へ。
ガルドが一歩、前へ出た。耳はまっすぐ、目は逸らさない。
「なら……俺たちと模擬戦をしてくれ」
「は?」
短く吐き捨てるような声。鼻で笑い、顎を少しだけ引いた。その仕草は驚きよりも、目の前の挑戦を“取るに足らない”と切り捨てる態度に近かった。
「俺たちが勝ったら——“推薦”の話を訂正しろ。口じゃなく、形にするか、無いなら無いと明言する。それと、“始まりの剣”への嘘をやめろ」
「はは、おもしれぇ冗談だな」
彼は長剣の柄頭を指先で一度叩き、面倒そうに視線を外へ滑らせる。
「……いいぜ。その代わり条件だ。——西の森に“ゴブリンナイト”が出てる。そいつの討伐証明、三日以内に持ってこい」
セイルが眉を寄せ、私の胸の奥で小さな結び目がきゅっと締まる。ゴブリンの変異種。拾い集めた鎧と盾、寄せ集めでも統率があるタイプ。普通のゴブリンとは“質”が違う。
「それが、俺とやる“権利”だ。持ってこれねぇザコは、俺と戦う資格すらない」
言い方は軽いのに、足もとへ落ちる音だけが重い。
「三日は待ってやる。その間、あいつらへの指導はしねぇ」
ほんの少しだけ、胸の奥の強張りが緩む。——時間ができる。
「三日以内に持ってこれなかったら……“ゴブリンナイト”はあいつらにやらせる。いいな?」
冷たい澱が、腹の底に沈む。私は言葉を飲み込みかけて、代わりに短く問う。
「——それ、本気ですか」
「本気じゃなきゃ言わねぇよ」
そう言うと、つまらなさそうに息を吐き、踵を返した。
「三日以内に持ってこい。……まぁ、尻尾巻いて逃げても俺は構わねぇけどな」
挑発ではない。ただ順位の確認。背が柵の影に溶けるまで、足取りは一定だった。
◇
朝の空気が少しだけ重くなって、小屋の影が濃くなる。私たちはその場で立ち止まり、順番に息を整えた。セイルが風の層を数え、テオは腰袋の口を結び直す。金具がひとつ、細く鳴った。
「……三日」
私が言うと、セイルが頷く。
「西の森。沢は二本、尾根は低い。風は北から。——“騒がせたくない”相手だね」
「ゴブリンナイト……」
テオが淡々と重ねる。
「集めた鎧、隙は多いが、正面は固い。盾持ち。小隊を束ねる個体の可能性。罠、使える」
私は舌の上で結び目をひとつ結び直す。三日。時間はあるようで、ない。けれど——今のままでは、彼らが“次”に連れて行かれてしまう。
ガルドは長く息を吐いた。
耳はまっすぐ前を向き、視線は澱まず澄んでいる。尾の根元に残っていた強張りも、もう怒りではなく、静かに溶けた覚悟の色だった。
「——行きたい場所がある」
低く、けれど確かな声。
その瞳は、迷いを背負ったままでも、進む線を選び取った目だった。
「盾を見に行きたい……覚悟は、できた」
私は頷いた。セイルもテオも、言葉はなくとも、同じ高さで頷いていた。
「行こう」
板壁の影が足もとを横切る。朝の光はまだ浅い。けれど今の私たちには、踏み出す“線”が一本、はっきりと見えていた。




