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第16話 揺れる前、選ぶ後

 私たちはしばらく誰も口を開かなかった。言えば崩れるものがあると分かっていたから——それでも、言わなければ積もっていくものもある。


 最初に動いたのはガルドだった。大樫の幹から手を離し、指先を見つめる。爪に土が入り、薄く震えている。耳は伏せていない。けれど、尾の根元だけが強張っていた。


「……“前で支える”って、ずっと、ああいう背中のことだと思ってた」


 低い声。掠れはないのに、胸の内側の音が少しずれているのが分かる。


「今日のあれを見て……俺の中の“前”が、どこか分からなくなった」


 私は頷いた。返事を急がず、言葉に触れるみたいに。


「——“前”は、背中じゃなくて、向きのことだよ」


 自分に向けるみたいに言ってから、ガルドを見る。


「誰がそこに立つかじゃなく、誰に向けて立つか。……ドランさんがそれを捨てても、ガルドが捨てる必要はないよ」


 セイルが細く息を吐く。視線は風の層の切れ目に落ちたまま。


「今日の彼の言葉、ぜんぶ“風上”からだった。下から支える風じゃなく、上から押しつける風。……ぼくは、そう感じた」


 テオはいつものように簡潔だ。腰の袋から小さな布を出し、ガルドの爪の間についた土をさっと拭う。


「事実、二つ」


 指を二本、静かに立てる。


「一、憧れは、相手の所有物じゃない。二、今日の“線の引き方”は、僕たちのやり方と違う」


 ガルドは短く笑って、すぐ真顔に戻った。無理に作る笑いじゃない。けれど、どこか居場所を確かめる笑いだった。


「……ありがとな」


 声は小さいのに、温度は落ちていない。

 ガルドは肩を回す。動きは大きくないけれど、いつもの重心が少し戻ってきたように見えた。


 それでも、視線は一度だけ遠くの空間——さっきドランさんが立っていた場所へ滑る。言葉に乗る前の迷いが、耳の先に薄く残る。


「……なぁ、ミナ」


「うん」


「大盾のこと、今は……胸の中でぐらぐらしてる。使うって言い切ったばかりなのに、今日、あの人の『思い出したくもねぇ』を聞いて、何かが喉につっかえた」


 私は「うん」とだけ返し、続ける言葉を急がなかった。彼の中でまだ形になっていないものに、勝手な形を与えたくなかったから。


代わりに、実際の手触りを渡す。


「ガルド、左腕、ちょっと貸して」


 彼が不思議そうに差し出す。私は背負い紐の端を外して彼の前腕に一周回し、締め具の位置を“重みが乗る場所”に軽く当てた。


「ここに盾の重さがくる。……ね。」


 ガルドは一度、息を吸ってから腕を上げた。ほんのわずかな布の重さなのに、指の開き方と肩の回り方が、いつものガルドに戻る。


「……ああ。懐かしい感覚だ」


 仮の重みを噛み締めるようにした後、彼はゆっくり紐を外し、丁寧に私へ返す。


「まだ、今日じゃない。でも、答えを出せるのはそう遠くない、そんな気がする」


「うん、それでいいよ」


 セイルが笑う。「戻る場所は逃げないから」


 テオは腰袋を探り、平たい小さな飴を三つ取り出した。塩と砂糖を固めた旅の常備——舌の上でゆっくりほどけるやつだ。


「血の味、消える。舐める」


 ガルドは一粒受け取り、口へ。耳の先が僅かに赤くなる。


「助かる」


 私も一つ受け取って舌に乗せる。甘さが広がるまでの数拍で、胸の振れ幅が半分になる。落ち着きが戻ると、もうひとつ話しておきたいことが浮かんだ。


「……さっき、ドランさんが『結果がすべて』って言ったよね」


 三人が目で合図する。


「私たちの“結果”は多分、あの人とは違う、別のところに置くんだと思う。『ちゃんと帰ってこれたか』『次へ歩幅を残せたか』とかね。今日の私たちの結果は——あの三人がより少ない怪我で森を出られそう、だよ」


 セイルが目を細め、テオは静かに頷き、ガルドの尾が椅子の脚にふれて、今度はすぐには止まらなかった。



「戻ろうか」


 そう言うと、三人とも素直に立ち上がった。森の匂いは変わらない。だけど、胸の奥で何かがひとつ、位置を変えた気がした。




     ◇




 白鷺亭の部屋。窓の外は群青で、軒先の白い布が暗がりの中で浅く揺れている。卓上の油灯は低い炎。影が浅く重なり、声の輪郭を柔らかくする。


 荷を下ろし、各々が椅子に腰を落とした。誰も大声は出さない。けれど、この部屋の空気は沈んではいなかった。


「……彼らは、どうしてやめないんだろう」


 最初に言葉を落としたのはセイルだった。窓の外に目を向けたまま、声は部屋の真ん中にそっと置かれる。


「“始まりの剣”。怖いのに、痛いのに、明日も行く選択をしてしまう」


 私は指先で机の角を撫でる。丸い角に触れると、考えが少し丸くなる気がする。


「いくつも理由が重なってると思う」


 声にひとつずつ、結び目を作るみたいに。


「まず、評価。……ドランさんが言った通り、討伐の実績がつくのは事実。ギルドの紙に、名前が載る」


「紙の重みは、目に見えやすい」


 テオが短く補う。


「“恩”もある」


 私は続ける。


「助けられた、立て直してもらった、って思い込み。実際には削られてても……『見捨てられないで済んだ』って気持ちが、繋ぎ止める紐になる。それが、自作自演だとしても」


 ガルドが顎を掻き、視線を机に落とす。


「それと……恐怖だな」


 言って、自分でも少し驚いたように目を瞬いた。


「逃げ出した自分でいることへの恐怖。『やめたら終わりだ』って、あの言葉が心臓を締める」


「“やめない理由”のほうが、“やめる理由”よりも、いつだって語りやすい」


 セイルが言い、指先で窓枠の木目を一度なぞる。


「さらに、周りの目。……村の人、ギルド、他の冒険者。『続けてること』で評価される場では、やめることは罪に近い」


 テオは静かに頷いた。


「あと、希望。小さくても、結果が出ることがあるなら……“次はうまくいくかも”は強い」


 私は息を整え、最後にひとつ足した。


「いちばん大きいのは、多分“選べるって知らない”こと。選んでいいって、誰も教えてくれなかったこと」


 言った瞬間、胸の奥がひやりとした。自分に向けた言葉にも聞こえたからだ。私たちも、つい最近まで“選べる”って知らなかった。


 ガルドが椅子の背にもたれ、天井を見上げる。梁の影が耳に落ち、尾が椅子の脚に軽く触れて止まる。


「……もし、あいつらがここに来たら、俺は何を言えばいい?」


 私は少しだけ笑った。答えは、意外とすぐ出た。


「“帰れる道はあるよ”って言う。……帰れって強制じゃなくて、帰れるって事実だけ」


 セイルも頷く。


「ぼくは、『怖いのは普通だよ』ってね。恐怖を恥ずかしいと思わせるのは、指導じゃない」


 テオは短く言葉を置いた。


「“選ぶ”に必要なのは、情報と時間。——それを渡す」


 私たちはそこで一度黙った。沈黙は重くない。必要な余白だ。


 そのとき——


 コン、コン、と扉が小さく鳴った。二度、間を置いて一度。ためらいのリズム。


 視線が自然と集まる。私は立ち上がり、取っ手に手をかける。金具がかすかに鳴り、扉が半分だけ開く。


 廊下の灯りに浮かび上がったのは、昼間の三つの顔だった。リオ、フェナ、バーン。三人とも、整えたはずの呼吸がまだ浅い。泥は落ちているけれど、目の下の影は残っている。姿勢は正しいのに、足の置き場に迷いがある。


「……夜分に、失礼します」


 リオが最初に口を開いた。敬語の高さ。けれど、喉の奥の震えは隠せない。


「少しだけ……お話を、させていただけますか」


 その一言に、胸の奥で張りつめていた線がわずかに緩んだ。

 彼らはまだ震えている。けれど、その震えを抱えたまま、ここを叩いた。

 ——“やめない理由”の外に、“話す理由”を自分たちで選んだのだ。


 私は静かに頷き、扉を大きく開けた。

 灯りが廊下から部屋へと流れ込み、三人の影が私たちの影と重なる。


 夜はまだ深い。けれど、ここからの時間は、確かに彼らのものになる。

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― 新着の感想 ―
某悪魔な将軍様「うむ、分かるぞ、恩師が老害になるのを見るのは辛いものよ・・・」
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