第15話 強さの名を借りて
土に沈んだ棍棒が、ようやく揺れを止める。細い木の葉がひとつ落ち、巨体のそばで跳ねた。匂いは土と血、そして恐怖の汗。
思うことはいくつかある。でも、まずは怪我の処置が優先。
私は息を一つだけ整え、膝をつくリオの擦過傷に布を当てた。消毒の小瓶を開ける音は小さく、手は速い。フェナの肘の打撲には布を巻き、バーンの肩には板切れで簡易の固定。呼吸を乱さないよう、言葉は短く。
「吸って——三。吐いて——四。……もう一度」
「っ……はい」
リオが我に返るみたいに頷き、数を刻む。フェナは歯を食いしばり、バーンは「すみません」と小さく漏らした。
「——おい」
背中に落ちる声。低く、乾いて、冷えた。ドランは長剣を鞘に戻したまま、こちらを見下ろす。
「指導者は俺だ。勝手な手出しすんな」
私は顔を上げる。落ち着いた声で、ただ事実を並べるように言った。
「……勝てないモンスターと戦わせて、傷付くのを後ろで笑ってるのが指導なんですか?」
言ってから、自分の声の温度を確かめる。怒鳴らない。刺さない。——でも引かない。その三つを、舌の上で均す。
ドランは鼻で笑った。口端だけがわずかに上がる。
「はっ、コイツらは生きてるし、現に俺が責任持って助けてやったじゃねぇか? どこにも問題はねぇだろ」
言い終える前に、胸の内側で何かが軋む。けれど私は抑えた。
「……問題がないなら、“帰れる段取り”が先にあったはずです。責任は言葉じゃなく、退路と段取りで示すものだと私は思います」
胸の奥で小さな結び目がひとつ固まる。いま崩したいのは彼じゃない。崩さずに“戻す”ための線だけを、はっきりさせる。
ドランは肩をすくめる。
「そんなもんはいらねぇよ。仕事は結果だ。——それと、勘違いすんな」
ドランは淡々とした手つきでオーガの耳を短剣で切り取り、布切れに包む。そして、顎で三人を指した。
「オーガの討伐は“こいつら”の名前で報告する。むしろ感謝してほしいくらいだ。評価が跳ねりゃ、こいつらも嬉しいだろ」
そこで、じろりと視線が三人に刺さる。
視線は刃ではなく錘だった。刺して傷つけるのではなく、沈めて動きを奪うための重さ。三人の肩が目に見えない荷を載せられたみたいに下がる。
——評価は餌、手柄は紐。渡すふりをして、首に回す道具。そう喉の奥が呟いた。
「ギルドの連中もこんな単純なことすら疑わねぇ馬鹿ばっかだ」
胸の奥に小さな違和感がまた一つ重なる。——“馬鹿”なのは誰だろう。見抜かずに許してしまう側か、それを利用して踏み台にしている側か。
「まぁ、そのおかげで今、俺は優秀な指導者って地位についているわけだがな」
胸の中の温度が一度落ち、すぐに戻る。言葉の“正しさ”を盾に、線をねじ曲げる声だ。——見逃せない、と同時に、今は“崩さない”が優先だと自分に結び直す。
「ったく、弱ぇ奴がそんな簡単に変わる訳ねぇのによ」
唇の裏側に歯が当たる。変わる場を用意せずに、変われと言うのは簡単だ。帰る道も、守る壁も示さずに。
「この討伐報酬はもちろん……誰のお陰かわかってるよな?」
不意に言葉をかけられたリオの喉が、からりと鳴った。フェナの指が布の端をきゅっと摘む。バーンは視線を落としたまま、こくりと一度だけ頷いた。
その様子に胸の奥がぴり、と縮む。私は余計な正義感で踏み込まないよう、自分の舌に結び目を作った。今、言葉で崩すのは彼らの足場だ。
セイルが険しい顔をして、一歩だけ前へ出る。
「……つまり、嘘で作り上げた立場だと?」
ドランは首だけこちらに向け、肩をわずかに揺らした。
「言っただろ、結果がすべてだってよ。俺が今この地位にいる、それが事実だ」
短い沈黙のあと、ガルドが一歩だけ前に出た。耳はわずかに伏せ、でも目は逸らさない。
「……ひとつ、聞いていいですか……ドランさん。——大盾は、使わないんですか?」
ドランの左目の端が、かすかに引き攣る。眉間の皺が一筋だけ深くなり、喉の奥で短い息が切れた。そこだけ、刃より素に近い反応だった。
「あぁ? 使わねぇよ、あんなもん」
低く、不快を包み込む音。続けざまに、射抜くような視線がガルドに向く。
「ってか……どうしてお前、そんなこと知ってんだ?」
ガルドは喉の奥で息が引っかかり、言葉がすぐに出てこない。指先に力が入りすぎて、拳が白くなる。胸の奥で、昔の憧れがまだ燻っているのを自分で隠せないみたいに。
「……俺は、アンタに憧れ——」
「あぁ、やっぱいいわ。興味ねぇし」
ガルドの言葉を切るように、短く。
「あんなん使ってたのなんて、思い出したくもねぇ」
吐き捨てる調子に乾きはあっても、空洞ではない。長剣の柄に置かれた親指が、わずかに強く沈んだ。
「……」
ガルドの喉が、低く鳴った。耳は動かず、尾の根元だけがわずかに固い。私は机の縁を撫でるときみたいに、彼の袖口に視線だけで合図を送る。——今は、飲み込む。
ドランはつまらなさそうに息を吐いた。
「つまり——余所者に講釈される筋合いはねぇってことだ」
顎をわずかに上げ、見下ろす角度を作る。声量は上げないのに、足もとだけを重くする喋り方だ。
「ここは強者である俺が絶対で、俺のやり方が正義なんだよ」
そう言って踵をわずかに切り、長剣の鯉口を親指で確かめる。抜かない。けれど、抜けることだけは見せておく仕草。
「文句があんなら、力を示してみてろよ」
言葉と同時に、視線が一瞬だけ森の奥と私たちを往復する。挑発ではなく、順位の確認。自分の立ち位置を動かす気がない目だ。
「まあ、お前らみたいな奴等じゃ、一生かかっても俺には勝てねぇけどな」
吐き捨てるように言い終えると、ドランは踵を返した。その背筋は揺れず、足取りは重くも速くもない。ただ「ここに俺がいた」という線を刻みつけて離れていくようだった。
◇
風が一枚戻ってきて、葉の影をゆらす。私は膝をつき直し、フェナの包帯の端を整えた。バーンの肩の固定はきつすぎないよう一穴緩め、リオの手の擦過には薄く軟膏をのせる。
「痛みは、吐く息の上に乗せると逃げるよ。……ゆっくり吐いて」
「……はい」
「あの……ありがとうございます……ほんとうに、助かりました」
リオは敬語の高さで、でも声の芯は痩せていた。
「……でも、僕たちは“続けないと”いけなくて……」
言いながら視線は足もとを離れない。言葉と反対に、踵は後ろへ沈む。前へ進みたい意志と、戻りたい体が、足首でぶつかっているみたいに。
フェナは視線を泳がせ、唇の内側をかむ。
「ここで諦めちゃったら、僕たちは今まで……」
バーンは肩を落とし、俯いたまま小さく言う。
「……すみません。情けないです」
「情けないかどうかは“今”じゃなくて、“戻れた後”に決めていい」
私は言葉を置くみたいに並べた。
「今は帰る段取りを優先。——立てるかどうか、じゃない。帰れる道が見えているかどうか」
リオは一度だけ、しっかり頷いた。フェナは目を閉じて呼吸の数をもう一度刻み、バーンは拳を握ってから開いた。
「今夜、白鷺亭に話したくなったら来て。来なくても、こちらからは追わないから」
リオの喉がごくりと鳴り、極小の声が落ちる。
「……たぶん、行きます」
その瞬間、森の奥から声が飛んだ。
「おい、早くしろウスノロども!」
ドランの怒鳴り声。三人の肩が同時に跳ねた。リオが私に短く頭を下げ、フェナは「失礼します」と震え声で言い、バーンは一度だけこちらを見た。
——言葉はない。けれど、その一瞬の目は、たしかに何かを結んだ。
「気をつけて」
私が言うと、三人は足を速めて森の陰へ消えていく。背は揃わない。けれど、足だけは前へ出ていた。
残った空気に、薄い金属の匂いと、湿った土の匂いが重なる。ガルドは大樫の幹に掌を当てたまま、低く息を吐く。セイルは風の層を数え、目を細めて黙る。テオは腰袋の口を結び直し、金具がひとつ、かすかに鳴った。
私は両手の内側を見て、ゆっくり開いて閉じる。置いた言葉が、彼らの帰り道のどこかで“支え”に変わるかどうか——それは、私たちには決められない。
でも、置くことだけはできる。
細い背中が木立の向こうに途切れ、鳥の声がまた低い層で続いた。森の匂いは変わらないのに、さっきまでより少しだけ重い。胸の奥で、小さく、はっきりと、次の線が引かれる音がした。




