第12話 憧憬の裏側
朝の森はまだ薄い。草の露が靴の縁を濡らし、鳥の声が低い層で続く。森の入り口に近い、見通しのきく土の張り出しに私たちは陣を取った。
交代で見張り。誰かが座り、誰かが立つ。息を合わせるたび、胸の奥の音が一つ揃う。
「時間的には、そろそろかもね」
セイルが小声で言い、視線を空へ向けた。
「どうガルド?まだなら、見張り、交代する」
テオは腰を落として身の重心を低く保ち、茂みの縁へ細い視線だけを滑らせ、声帯の振れを最小限に抑えた低さで告げる。
返事が来るまで、露の落ちる音が一つ、二つ。ガルドは鼻先をわずかに持ち上げ、息を吸い直し、耳の向きを変えてから口を開いた——ほんの刹那の遅れ。その“間”に、彼の中で何かが確かになったのがわかる。
「いや、その必要はなさそうだ……匂いが近づいてくる」
ガルドは茂みに半身を預け、耳だけをこちらに向ける。その耳の先に朝の光が少し乗って、すぐ消えた。
私は周辺に薄い“視線の結び目”を複数置く。向こうから見えにくく、こちらからは細部が拾えるように。結び目は固くしない。ほどけば動ける程度に。
テオへと順番が一周しようとする前——足音。若い三つと、重い一つ。土に載る重さが段違いだ。茂みの隙間から、四人の背が見えた。
先頭は、長剣を背負った男。——ドラン。背に大盾はない。鞘の口だけが朝の光を一度だけ返し、すぐ森の色に溶けた。
(……盾は、ない?)
ガルドの耳が揺れ、すぐ固まる。視線の先には、昨日女将が口にした名前の背中。憧れと疑問が一瞬で重なって、私は呼吸の深さを変えた。けれど、その疑問はすぐ、別のものに押し流される。
“始まりの剣”の三人——リオ、フェナ、バーン——が、ドランの背中の斜め後ろで立ち止まり、互いの視線を一度だけ交わしてから、小さく口を開いた。
「……ドランさん。本当に、僕たちで討伐するんですか」
リオの声は、喉の奥で引っかかった。言葉の角を丸めて出そうとする、あの遠慮の音。
ドランは振り返らない。長剣の柄に親指を触れただけで、短く返す。
「そうだ。お前らがやる」
「でも……僕たちの実力じゃ——」
フェナが続ける。肩がすこし震えている。バーンは大きな体をさらに小さく見せ、拳を握ったまま下を見た。
ドランがため息をついた。浅く、冷たい音。三人の肩が、びくりと揺れる。
「じゃあもう、指導やめるか? 別に俺はどっちでもいいんだぜ?」
言い方は気楽なのに、棘だけが残る。三人は黙りこみ、喉が詰まる音だけがかすかに聞こえた。
「えっ……」
「自分たちからお願いしてきて、やっぱ怖いからできません——か。これだから最近のやつらはダメなんだよ」
ドランは片手をひらひらさせる。軽い仕草が、余計に重く見えた。
「意思も弱けりゃ実力もない。……お前らは冒険者なんかじゃねぇ。半人前以下のカスだ」
「冒険者じゃ……ない」
草むらの風が一瞬止まった気がして、私は無意識に指を握った。爪が掌に当たる。ガルドの喉が低く鳴る。セイルの視線がぎゅっと狭まり、テオの指先から体温が落ちる。
「せっかく、ゴブリンを倒したばっかってのによ。……耳の断面も、ずいぶん綺麗だったしなぁ。えぇ?」
リオの肩が跳ねた。フェナが目を泳がせ、バーンが唇を噛む。
「それくらいの腕がありゃ、オーガも問題ねぇだろ?」
——そこで私は気づく。ドランは、あのゴブリンを仕留めたのが彼らではないことを知っている。“綺麗な断面”という言い回しは、腕の違いを見抜いた者の皮肉。彼は真実を握ったうえで、わざと彼らの良心の薄皮を爪でなぞっている。突き刺すためじゃない、揺らすために。胸の奥で、冷たいものと熱いものが同時に走った。
「そっ……それは」
「……それとも、誰かにみっともなく這いつくばって、恵んでもらったか?」
「っ……!!」
喉の奥が熱くなる。私は息を短く切り、結び目をほどきかけて——止める。今は、ほどかない。まだ。
「もしそうなら、ここで逃げ出すお前らを見たら、さぞ失望するだろうなぁ? 恩を仇で返す、冒険者のなりそこないだってな」
胃の底がぴり、と縮む。逃げると向き合うの境目は、いつだって他人の言葉じゃなく自分の足で決めるべきだ——今の一言は三人の足元から自尊をさらっていく類の刃。助けに入る衝動が、膝の裏を叩く。……けれど、私たちが飛び出せば、彼らは“誰かの庇護でしか立てない”という烙印まで抱かされる。
そして、細い声が落ちた。
「……行き、ます」
「あ? 聞こえねぇよ?」
「行かせてください! お願いします!」
三つの声が重なった。頭を下げるというより、折れた。
「ったく、最初からそう言えばいいんだよ」
ドランは鼻で笑い、長剣の鞘を軽く叩く。
「過程じゃなくて結果で示せ。金だろうと命だろうと、なんでも削って成果を出せ。わかったか?」
「……はい」
三人の返事は小さく、乾いていた。
「行くぞ」
ドランが踵を返し、森へ入る。三人がそれに続く。背は揃わない。けれど足だけは、追いつこうとして急いだ。
葉の揺れが収まり、音だけが細く残る。私は喉から上がってきた熱を、ひとつ飲み込んだ。胃のあたりが冷たくなって、指先が微かに震える。
「ミナ」
名を呼ぶ音が、そっと肩に置かれる。低く短い一語。ガルドは牙を見せないように口角を抑え、尻尾の根元でだけ怒りを噛み殺していた。
瞳は私を真っ直ぐに射るが、色は荒れていない——行くべきか、耐えるべきか。彼は確認している。私の判断で動く、と言う目だった。
「……大丈夫。今は、見よう」
それは、みんなに向けた言葉であり、自分に言い聞かせるための言葉。
セイルは片手を額の影にかざし、低く言葉を落とす。
「……裏と表の風が、違いすぎる」
テオが短く言う。
「言葉、刃。——距離、保つ」
私は頷き、声を落とす。
「作戦、確認。ドランたちとは別のルートで先回り。炭焼き小屋の南、枯れた大樫の見える位置まで」
「了解」
「了解」
「了解」
「先行はぼくがする。音の乱れを拾って、道を選ぶ」
セイルが足を出す。葉を踏まない角度だけを正確に選び、音を小さく重ねていく。
「罠は使わない。目印だけ。撤収線は三本」
テオは短く告げ、腰の袋の口を固く結ぶ。
「俺は……感情が先行しないよう注意する」
ガルドは肩を一度だけ回し、深く息を吐き出した。胸板の緊張は残したまま、尻尾の根元に宿っていた残りの力を抑え込む。鋭さを外に漏らさず、静かに自分の中へ収める動き——それは言葉どおり、感情を前に出さないための確かな準備だった。
「私は視界に“余白”を置く。見えるべきものだけ見えるように。……行こう」
◇
森に入り、しばらく進むと光は葉の隙間で割れ、匂いが重なる。沢の手前で一度足を止め、耳を澄ます。遠くで短い金属音。——ドランたちはもう、東に折れた。
私たちは南へ回り、古い炭焼き小屋の黒い輪を見つける。崩れた壁の縁に灰が薄く残り、その向こうに、立ち枯れの大樫が一本、空に指を伸ばしている。
「ここ」
セイルが指先で示す。私は落ち葉の上に低く身を置いた。
両手を膝に置き、指先の温度を確かめる。ほどける結び目と、置くべき結び目。その差を、今だけは体の中にしまっておく。心臓の鼓動が、一度、二度。呼吸を合わせる。
葉陰が揺れる。声は、まだ遠い。
——見届ける。崩れたら、支える。その順番だけは、崩さない。
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