第11話 道標は真か影か
夕餉の皿が下がり、白鷺亭の湯気と灯りが背中に残る。外はまだ宵の口。柵の内側の小道を抜け、低い板壁の小屋へ向かった。
入口の上に釘で打ち付けられた小さな看板——ギルドの紋が、煤にかすれている。
扉を押すと、乾いた木と墨の匂い。奥には帳場、簡易の棚には記録簿と蝋封用の道具。油ランプの明かりは強くないが、紙の上にだけはきちんと届いている。
「こんばんは」
私たちが軽く会釈すると、受付の若い女性が顔を上げた。真面目そうな目の人だ。
「こんばんは。お名前を伺ってもよろしいですか?」
卓上の帳面の端は指の跡で少し黒ずみ、栞紐は何度も折り返された癖が残っていた。受付の女性は、止まっていたペン先を紙からそっと離し、私たちに向けて真っ直ぐに目を上げる。
「余白の四人です」
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼女は名簿の背を人差し指で一往復なぞってから、手早く薄い頁を繰る。油ランプが紙の繊維を縫うように走り、指先の呼吸がほんの少しだけ長くなる。
「確認が取れました。本日はどういったご用件でしょうか」
「少しだけ顔合わせに。……それと、ひとつ伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「この村で“指導”をしている冒険者の方——ドランさんって、どんな人なんでしょう?」
彼女は一瞬だけ意外そうに瞬きをして、それから頬を緩めた。
「皆さん、よく聞きますね。……ええ、とても優秀な方ですよ。最初は厳しいのかなって思ってたんですけど、話してみると気さくで。指導も筋が通っていて、見取り稽古も、段取りの教え方も丁寧です」
言いながら彼女の手が自然に記録簿の背を撫でる。
「今日なんて、最近指導を受け始めた子たちが、ゴブリン三体を討伐したんです。大したものだって、村の人も驚いてました。……“始まりの剣”っていう若いパーティーで」
胸の奥がざわめくのを感じる。私はそれを表に出さないよう小さく頷く。
「そう、ですか。……彼について、他に何か?」
「そうですね……“引き際を教える勇気”があるって感じました。怖いのは勝手に走ることだって、何度も」
セイルが目を細める。テオは無言で短く頷いた。
「教えてくださってありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。村のこと、わからないことがあればいつでも」
頭を下げて踵を返しかけた、そのとき——
板の扉が、外から押されて鳴る。夜気が一筋、帳場に滑り込んだ。入ってきた男は軽くこちらを一瞥し、足取りを崩さず受付へ向かう。
横で、ガルドが小さく「あっ……」と漏らした。耳が一瞬立って、すぐには伏せない。視線だけが、男に結ばれる。
四十前後。焼けた肌に浅い傷跡が点々と残り、眉間の皺は年輪のように刻まれている。無駄のない姿勢。そこに在るだけで周囲の空気がわずかに締まる。
受付の女性が明るく声を掛ける。
「ドランさん!」
男——ドランは口元だけで笑い、軽く片手を上げた。
「悪いな、帳面ちょっといいか?」
「はい。どうされました?」
「明日の割り振りなんだけどな。……“始まりの剣”に、東の森のオーガやらせたい」
喉の奥が、乾くより先に冷えた。段の飛び方が急すぎる——これまでの経験と知識が、静かにそう告げた。昼の三人の足音が、頭のどこかで追いついてくる。
「オ、オーガですか……? さすがに、それは危険では——」
「もちろん放りっぱなしにはしない。俺が後ろで見る。偵察はもう済ませてある。単独で、縄張りは狭い。逃げ道は一本。退路は西に取っておく。誰か傷んだら即撤収。——壁を越えるなら、一度はちゃんと壁に触らせないとな」
その声は大きくないのに、抑揚が落ちない。視線は誰にも絡みつかず、しかし要点だけを釘で留めるみたいに場を固定していく。
「でも、彼らはまだ……」
「だからこそだ。今日ゴブリンを三体、足並みは悪くなかった。今が次の段に行くタイミングだ。オーガは“でかい相手”の稽古にちょうどいい。責任は俺が持つ。ギルドの臨時指導の枠内だし、何かあったら俺が止める」
……“今日ゴブリンを三体”。その言い方は、まるで現場を見た人の口調だ。けれど、討伐証明の耳は私が手渡した。彼ら自身が倒したわけじゃない。記録の上では正しくても、彼の言葉は少しだけ前のめりに聞こえた。
受付の女性は迷うように視線を泳がせる。ドランは追い打ちをかけない。ただ待つ。その待ち方が、決定を自然と彼に寄せてしまう。
「……わかりました。書類、用意します」
「助かる」
ドランは帳面に印を落とし、扉へ向かう。こちらをもう一度だけ見た。見るというより、風下の様子を測るみたいに軽く。何も言わず、外へ出ていった。
扉が閉まる音が、さっきより深い。
◇
「今のは……いくらなんでも」
私が小さく言う。声は抑えたつもりだ。
「あぁ……ゴブリンからオーガへは、飛びすぎだ」ガルドが低く抑えた声で言う。
「後ろで見るって言っても、間に合わないことはある」
「……あのゴブリンだって、本当は彼ら自身で倒したわけじゃない……ゴブリンを倒せる力があるのかすら怪しいのに……」セイルの表情が険しくなる。
「骨格、違う。道具、足りない」テオの言葉は淡々としているのに、指先は硬い。
言葉が途切れ、短い沈黙が落ちる。その中で、私は小さく吐息を整えた。
「それと……どう感じた? さっきの彼を」
問いかけると、最初に口を開いたのはガルドだった。耳が揺れ、喉の奥が一度鳴る。
「……強い。立ってるだけで周りを締める。昔、茂みの陰から見て胸が震えた背中と……同じ匂いがした。だからこそ……余計に怖い。その判断が正しいのか、間違ってるのか……」
セイルは窓の外へ視線を流す。風の層を読むみたいに目が細められる。
「……言葉の選び方が上手いと思った。“退路は取ってある”とか“責任は持つ”とか……安心させる響きだった。でも……」
テオが机の縁を指先で軽く叩き、音の返りを確かめるみたいに短く言う。
「言葉はそう。でも、行動が言葉と釣り合ってない」
私は静かに頷いた。胸のざわめきは消えない。けれど、確かに四人で感じた「今のドラン」の像が少しずつ形を持ち始めていた。
「……見に行こう」
言葉が自然に出た。押しつけない、でも退かない速さで。
「様子を見るだけ。勝手に踏み込まない。けれど、崩れる音がしたら——支える」
三人が目で頷いた。芯の位置が合う。
私は受付に戻り、頭を下げる。
「さっきの件、少し聞こえてしまって。……私たち、“始まりの剣”の子たちとは、その……知り合いで。ドランさんがついているとはいえ、心配なんです」
言葉はできるだけ落ち着いて選んだ。でも胸の奥では、昼間に見た三人の焦った目が何度も浮かび上がる。あの震えを思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。口に出す理由は穏やかに——けれど本当は、ただ放っておけなかった。
「……東の森の、オーガのいるあたりを教えていただけませんか。私たちも確認に行きます。彼らには内緒にしてください。私たちが勝手に動くことですから」
受付の女性は一瞬だけ戸惑い、それから真剣な目で私を見た。
「……本当は、あまり良くないんです。でも、あなた方の顔を見てると、嘘は言ってないってわかります。……場所は、二番目の沢を渡って、古い炭焼き小屋の南。枯れた大樫が一本立ってます。その辺りが縄張りだと」
頭の中の地図に、目印の位置がひとつずつ置かれていく。二番目の沢、炭焼き小屋、枯れた大樫——線が薄く結ばれて、行き方が形になる。
「ありがとうございます」
「みなさんも、気をつけて」
その言葉に私はしっかり頷いた。
外へ出ると、夜気は冷たくはないが、木の匂いが濃い。白鷺亭の窓から漏れる灯りが、石畳に四角く落ちている。
「ミナ、確認」
テオが短く言う。
「明朝は森の手前で待機。彼らの姿を確認し次第、私たちも動こう」
私の言葉に、セイルがすぐ返す。
「風の層はぼくが読む。音が乱れたら、進む前に止めるよ」
テオは腰袋の口を結び直し、短く付け足した。
「準備は足りてる。必要ならすぐ使える」
ガルドは肩を軽く回し、静かな声で言う。
「もしもの時は、退路の線は俺が押さえる」
「うん……接触は、彼らの退路が崩れたと判断した時だけ。……いい?」
三人の頷きが、同じ高さで落ちる。
明日の森へ向けて、胸の奥で線が一本、静かに引かれた。




