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第10話 揺れる憧れ

 白鷺亭の看板は、白く塗った板に細い筆致で鳥が一羽。鷺は片足で立ち、首を少しだけ傾けていた。扉を押すと、乾いた木の匂いと、煮込んだスープの香りが混ざって鼻に触れる。梁は太く、壁は白い漆喰で、奥の炉にかかった鍋がことりことりと蓋を鳴らしていた。


「いらっしゃい。旅の子たちかい?」


 カウンターの内側で、女将が腕を組んだ。年は四十の手前くらい。短く束ねた髪のいく筋かが頬に落ち、よく働く手には小さな古傷が並ぶ。


「泊まりたいんです。四人、二晩は確実。延びるかもしれません」


「ほう、いいよ、四人部屋が一つ空いてる。ベッドが四つ、窓は中庭向き。飯は朝と夜、昼は別。騒ぐなら外で、怪我は勝手に治すこと。料金は先に置いていきな」


 口は……少し悪いけど、言っていることは筋が通っている。私は頷き、皆と短く目配せしてから小袋を出した。銀の音が一度だけ鳴る。


「鍵はこれ。失くすなよ。——あんたら、装備はちゃんとしてるね。……目つきも」


 女将は鍵紐を私に投げてよこし、顎で階段を示した。


「ありがとうございます」


「部屋、気に入るかどうかは知らないけど……文句があるなら言いな。直せるもんなら直す」


 背中で「はい」と返し、私たちは階段を上がる。踏み板が低く鳴り、二階の廊下には干した薬草の束が下がっていた。扉を開けると、言われた通りの簡素な部屋。四つの寝台、低い机、窓の外には小さな中庭と洗いざらしの白布。


「……悪くない」


 ガルドが荷を降ろし、肩をぐるりと回す。セイルは窓を少し開け、風の流れを確かめた。テオは寝台の脚を軽く揺すって、軋みを聞く。


「足元、安定。寝返りで音は出ない」


「机の角、丸いね。ぶつけても痛くなさそうだよ」


「そういう小さな気遣い、ありがたいね」


 荷を置いた途端、疲労感と充実感が同時に押し寄せてくる。


「じゃあ、段取り」


 机を囲む。座る前に、各々が水を一口ずつ飲む。喉の渇きが落ちると、頭の音も落ちる。


「まず、宿を拠点にして、夕方はギルドへの顔出し。明日からは村の中と外周で様子を見る」


 私が言うと、三人が順に頷く。声は小さいけれど、合っている。


「指導役の人って、どんな人なんだろう」

 セイルが窓の外を見ながら言う。白い布が二枚、重なって揺れた。


「相当厳しいのは、多分噂通り。気になるのは“線の引き方”」

 テオは簡潔に言葉を置く。指先で机を一度だけ叩き、音の返りを確かめるみたいに。


「叱って伸ばすタイプか、押しつけて黙らせるタイプか……」

 ガルドは腕を組み、少しだけ目を細めた。

「褒めない“指導”は、ただの耐久試験になりかねない」


「うん。褒めが欲しいわけじゃないけど、手応えに気づける言葉があるのは大事だと思う」


 言いながら、私は昨日までの夜を思い出す。三日月亭の笑い。あの静かな充足が、ここでも守れるのかどうか。


「そういえば、名前……まだ聞いてなかった」

 テオが言う。


「あっ……言われてみれば、たしかにそうだったね」

 

 私が頷いたその時——


 コン、コン、と扉が鳴る。二度、短く。


「はーい」


 開けると、女将が立っていた。腕を組んだまま、視線だけが部屋の中をひと揃いで撫でる。


「部屋はどうだい。文句は?」


「ないです。窓の風がちょうどよくて、寝台も安定してます」


「ならよし。——何か足りないもんがあったら言いな。できることとできないことは、はっきり言うから」


 言い切る調子が、逆に安心させる。私は少しだけ迷ってから、切り出した。


「女将さん……ひとつ、教えてもらってもいいですか」


「料金の追加以外なら、考えるよ」


 口の端がわずかに上がる。私はそれに甘える。


「この村で“指導”をしている冒険者の方、名前をご存じですか?」


 女将は「ふむ」と鼻を鳴らし、天井の梁を一度だけ見た。記憶の棚を指でなぞるみたいに、言葉を探す沈黙。


「……ああ、そうだ。ドラン。ドラン・ハーゲン。たしかギルドの子が帳面を見ながらそう言ってたね」



「っ……!!」

 


 ぎし、と寝台の板が鳴った。女将の言葉を聞いた直後、ガルドの耳がぴん、と立って、そのまま動かなくなる。大きな手が、無意識に寝台の縁をつまみ、爪が布を押して、沈んだ。



「あの……その、ドランさんって——『剛鉄の道標』の、元メンバーだって……聞いたことありますか?」


 自分の声に自分で驚いたみたいに、ガルドは歯切れを失いかけ、それでも言い切った。女将は指で髪を耳にかけ直し、短く頷く。


「あぁ、受付の子がそんなこと言ってたよ。『剛鉄の道標』だか、『鉄の道標』だか、なんとかって」


「……そう、ですか」


 ガルドの喉が一度だけ動いた。その体のどこにも力が入っていないのに、部屋の空気が少し沈む。私は手を机の縁へ滑らせ、指先で静かに合図を送った——大丈夫。ゆっくり。


「ありがと、女将さん。夕食は何時から?」


「日暮れの鐘が一つ鳴ってから。肉の煮込みと粥、それに青い葉っぱの炒めたの。腹にやさしいやつね……それと」


 女将は私たち全員の顔を、順に見た。視線が一人ひとりの目の奥まで届く感じがする。


「アタシはね、あの人どこか引っかかるんだよ……悪い人だと決めつけはしないさ。ただ、うまく言えない“違和感”ってやつは、案外当たる」


「……ま、こんな村だけど、ゆっくりしていきな」


 それだけ言って、女将は顎を引いた。扉が閉まる音は、さっきより静かだった。




     ◇



 沈黙が落ち、息を飲む音まで層になって聞こえる。ガルドに「どうして?」と聞きたい気持ちはもちろんある。けれど、ガルドの歩幅を尊重したい。そう思った。


「……ドラン・ハーゲン」


 そして、ガルドが重い口を開く。名前を噛むみたいに、ゆっくり。


「三日月亭で話したよな……子どもの頃、茂みの陰から見た大盾の人。それが、ドランだった……」


 ガルドの声は低く、部屋の空気がその低さを受け取って揺れる。


「俺が憧れ、冒険者になろうと思ったいちばん最初の理由の人……だな」


 静かな告白。私は相槌を飲み込み、ただ聞く。言葉を急がせれば、いちばん大事な芯がこぼれる気がしたから。


「だから、俺は……」


 言葉が切れた。切れたところに、棘みたいな沈黙が残る。私は口を挟まない。セイルもテオも、息を合わせて待つ。


「だから……俺は、嬉しいはずなんだ。あの名前を聞いて、また、あの背中を近くで見られるんだって……なのに——どうして」


「わかるよ」


 慰めにならないように、そっと置く。言葉を少しだけ前に出して、そこで止める。


「会いたい気持ちと、近づきたくない気持ちが同時にあるんじゃないかな。でも、どっちも間違いじゃないと思う」


 セイルが静かに続ける。窓辺で風の層を確かめる癖のまま、声は柔らかい。


「ぼくらは横にいる。歩幅、合わせられるから」



「実物、確認。」

 テオは短く言い、腰の袋から小さな鋲を一つ取り出して机の真ん中へ置いた。支点みたいに。


「線の引き方、手の使い方、声の角度。見れば、わかる。」


 ガルドはゆっくり息を吐いた。肩が一枚、下りる。水を一口飲んでから、目を上げる。


「……あぁ。今の憧れがどんなでも……この目で確かめてみたい」


 そう言って、指先が寝台の縁から離れた。握らず、開いたまま。けれど次の瞬間、ほんのわずかに視線が揺れる。


「ただ……受け入れられるかは……悪い。正直まだ、自信ねぇな……」


 その正直さが、かえって足元を固くする。

言葉にして吐き出した分だけ、胸のざわめきは少し形を持ち、みんなで支えられるものになる。


「このあと、夕方になったらギルド小屋に顔を出そう。状況の確認。夜は休んで、明日以降の流れはさっき言った通り、村の中と外周の様子を見る。——ガルド、無理に会いに行かなくていい。順番は、みんなで決めよう」


「……助かる」


「ぼくたちは一人が支えるんじゃない。四人で支える。そうでしょ?」


 セイルが笑って言うと、テオも頷いた。


「視線、分け合う。判断、分散」


「うん。必要なら、私が前に話しかける。必要じゃないなら、並んで通るだけ」


 言ってから、胸の奥が少しだけ軽くなった。無理に踏み込まなくてもいいし、逃げる必要もない。ただ歩調を合わせて、状況に応じて動く。それが“今の私たち”の形なんだと思えた。


 


 私は自分の手のひらを見て、ゆっくり開いて閉じる。温度は十分。結び目は、まだ置かない。置くべき場所に出会ってからでいい。


 窓の外、白い布が二枚、触れ合っては離れ、今度は少し長く寄り添って揺れた。

 部屋の空気は静かだ。けれど、止まってはいない。


 ——憧れの名前に揺れても、足は揃えられる。私たちはその速さで、前に出る。

お読みいただきありがとうございます。

次回は明日9/15(月)の8時と20時に投稿予定です。

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