閑話 サクラの知らない物語
ーーこれは、サクラが目覚める前のお話。
その屋敷に仕える者は皆、最初こう思う。
「目が合えば殺される」
「神人ヘンドリック」は、感情のない仮面のような表情の貴族だった。
命じる言葉も態度もは冷えきっていて、あまりにも的確。
人間らしい言葉は、ひとつも返ってこなかった。
だが、ただ一つの部屋の中でだけ、彼は別の存在となった。
そこは、厳重な鍵を施した、誰も入ることが許されない扉の奥。
ーー石像となった、ある女性の眠る部屋。
夜になると、ヘンドリックはその部屋にこもり、朝まで出てくることはない。
灯りを落とし、長椅子に腰を下ろして、毎日石像に語りかける。
「……今日は、庭に白いバラが咲いていたよ。君が好きだったやつだ」
「隣国の姫がまた訪ねてきた。……鬱陶しいよ。俺には、君しかいないのに」
「今日も、君は綺麗だね。10年経っても……ずっと、君は俺の唯一の光だ」
「もし、もう目覚めることがなかったとしても、永遠に愛してる」
⸻
石化したサクラを抱えて、旅に出たあの日のこと。
自分は、もう戻れない場所に踏み込んだ。
魔物の群れを一掃した日、
他国の騎士団をたった一人で壊滅させた日、
神の加護を受けし“神人”と呼ばれた日。
すべては、君を迎えるためだった。
「“国王の姫を娶れば、帝位も夢ではない”」
そんな言葉に、ヘンドリックは答えた。
「……不要だ。
俺に必要なのは、たったひとりだけ。
サクラ以外が欲しいと思ったことなど一度もない」
けれど――
高位貴族の地位だけは、貰い受け、そして。
「力がなければ、再び君を守れない」
だから俺は、剣を握る。
魔法を研ぎ澄ます。
血を流し、王に頭を下げ、
たったひとりの君を、この手に取り戻すために――。
「サクラ。サクラ。一生を賭しても、君とまた会える日を、手繰り寄せるよ。
たとえ悪魔に魂を売っても構わない。
ああ、でもサクラ、そうしたら君は悲しむだろうか……」
「サクラ。君の声が聞きたい。君の笑顔が見たい。サクラ、目を覚まして…」