第一話 その子の名は、悪神ヘンドリック
雪がちらつく朝だった。
社畜OLだった私が異世界に転生して三年。
サクラは、なるようになれの精神で森の外れにひっそりと小屋を構え、静かに暮らしていた。
「現代社会が恋しい……体は縮んでるし、月が2個もあるし、未だに慣れないよ…」
肉体年齢はおそらく10歳前後に若返ってしまっている。誰かに庇護してもらえるような環境はない。
……朽ち果ててはいるものの、誰も使っていない雨風を凌げる小屋が見つかったのは僥倖というほかない。
現代っ子には辛いが、毎日を森の恵みで何とか食い繋いでいる。読んでてよかった、サバイバル術の本。
そんなある日、森で倒れている少年を見つけた。
――薄暗い木々の間、倒木にもたれるようにして蹲っていた小さな影。
それが動いた瞬間、空気が変わった。
ありえない、美しさだった。
髪は月光をとどめたような、淡い銀灰。
まだ幼さを残す顔立ち。それなのに、完成されすぎている。
透き通るほど白い肌。
少しだけ釣りあがった長い睫毛と、瞳の色は――青紫。角度によっては紅を帯びる、宝石のような色。
それを見た瞬間、サクラは確信した。
――この子、「ヘンドリック」では…??
小説の中にしかいないはずの、狂気の美。悪神ヘンドリック。
人を惑わせるような、天上の容姿。
それでいて、その美しさにまったく無頓着な無表情さが、よりいっそう不気味で、惹きつけられた。
まだボロボロの服を着て、痩せ細っているのに、その姿すら神話の一節のように見える。
手の甲には、かすかに傷跡のような魔法陣の刻印。――これも、原作で描かれていた“神の証”。
──この特徴、知ってる…
サクラはこの世界に来る前、小説にはまっていた。
内容は――「世界を混沌に陥れた悪神、ヘンドリック」の物語。
魔法世界で信じ難いほどの美貌と、冷徹さ、その巧みな弁舌、膨大魔力、カリスマ性からも、熱狂的な信者がいる。
奪わなければ、奪われる。そんな彼の世界の悲しき勝者。
世界に混沌をもたらす、そんな小説の中の悪役。
彼はやがて数千人を屠り、王都を炎に包み、神をも殺すという。
なのに、今目の前にいるのは、ひとりぼっちで助けを求める、ただの子どもだった。
「助けて……たすけてよ……」
その声は、小説に出てきた威圧感など一切なくて、ただただ弱くて、苦しくて、悲しかった。
サクラは震える手で、その子の身体を抱き上げた。
「大丈夫。あなたはもう、独りじゃないよ」
そう言ったとき、きっともう運命は変わり始めていた。