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第9話「異質なる日常」

透子が目を覚ますと、世界が僅かにずれていた


朝の光が差し込む部屋の中、透子は洗面所の鏡を見つめる そこに映る自分は、確かに自分のはずなのに、何かが違う


髪の毛の一筋が、昨日よりも暗い色をしている気がする、肌の感触が少しだけ違う気がする、爪の形が、前とは変わっている気がする


──気のせい、のはず


だが、気のせいで片付けるには、その違和感があまりにも積み重なりすぎていた 透子は歯を磨くために口を開く、舌の上を歯ブラシが滑る感覚に、ぞわりとした寒気が走る 普段と同じはずの手の動きが、まるで他人の動作のようにぎこちなく感じられる


この体は本当に自分のものなのか? その疑問が頭をよぎった瞬間、鏡の中の自分が微かに微笑んだ気がして、慌てて目をそらす いや、目をそらしたその瞬間、確かに笑顔が消えたような気がしたが、それも、すべてが現実なのか幻想なのか、わからない



透子は慌てて身支度を整え、会社に行く デスクに座り、パソコンを開く


書類を確認しようとするが、視界の中で文字が一瞬、読めない言語に見えた 見慣れた日本語のはずなのに、その形が意味のわからない記号の羅列に変わる


目をこすり、もう一度見る 次の瞬間、何事もなかったかのように、普通の書類に戻っていた


──今のは、なんだった?


耳鳴りがする、周囲の声が遠くで反響するように聞こえる キーボードを叩く音、紙をめくる音、誰かが笑う声、それらが不自然に強調され、異質なノイズとして耳を圧迫する


──私はここにいる、私はここにいる、私は……


「倉橋さん、大丈夫?」


不意に声をかけられる 透子は反射的に振り向く


そこに立っていたのは、同僚のはずの女性だ しかし、その表情はまるで誰かが「人間の表情」を模倣して作ったかのような、不自然なものだった 唇の動きと、声が発せられるタイミングがわずかにずれている


──この人は、本当に「人間」なのか?


「……ええ、大丈夫」


口が勝手に動く、思考よりも早く、言葉が発せられる 同僚の目が、何かを見透かすようにこちらをじっと見つめている まるで、皮膚の下を覗き込もうとするかのように


透子の心がざわめく だが、同時に、それをどうでもいいと感じる自分もいる


どうでもいい、どうでもいいことだ


──そうだろう?


透子は無意識にその言葉を繰り返し、心の中で薄く笑った 自分が何を恐れているのか、もうわからない ただ、周囲の人々の動き、声、全てがどこか不自然に感じられる それを無視して、無理にでも日常を続けることが、もう当然のようになっていた



帰宅後、玄関を開けると、そこにはいつものニャルがいた 美しく、冷たく、完璧なメイド


「ご主人様、おかえりなさい」


その声を聞いた瞬間、透子の世界が、ようやく「安定」したように感じた 時計の針は正常に動き出し、影の揺れは静まり、耳鳴りのような違和感は消え去った


ほっとする 安堵の感情が透子の心を満たすが、その中で何かが足りない気がした


「ただいま」


透子は微笑んでいた 笑顔は、どこか自分に違和感を与えるものだったが、それを無視している自分もまた、違和感を感じない


──すでに、この異常な生活を受け入れ始めている自分に気づきながら


けれど、部屋の窓に映る自分の影は──


──昨日とは違う形をしていた


わずかに、指が長い、わずかに、肩の位置が低い、わずかに、頭が傾いている


──それは、本当に「倉橋透子」の影だったのか?


その疑問が胸にひしひしと迫り、透子は視線を窓に向けたまま、目を細めた どこかで、何かが崩れ始めている気がしていたが、それが何かを考えることすら、もう億劫になっていた

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