第8話「夜に交わるもの」
透子は拒絶しなければならないと感じていた
しかし、なぜかその方法が思い出せない
拒絶するべきなのに、どう拒むべきなのかが、まるでわからない
拒絶の概念自体が、指の間から零れ落ちていく。手のひらで掬えない水のように、透子の思考の外へと消えていく。必死に何かを思い出そうとするが、思考の端々が霧のようにぼやけ、うまく繋がらない。
「ご主人様、考えすぎですよ」
ニャルの声が耳に響く。微笑んだ顔で、透子の側に立っている。まるで最初からそこにいたかのように
時計の針は、透子の認識とは異なる位置を指している
部屋の隅に置いたはずのコップの向きが変わっている
テレビは消していたはずなのに、砂嵐のような映像がぼんやりと映し出されている
何かが、確かにおかしい
「夜が、静かに満ちていましたね」
ニャルが言った
透子は不安を覚えるが、その不安さえも、どこかで冷めた自分を感じる
今、感じている恐怖は、どこから来ているのかが、わからなくなっていた
ふと、透子は気づく。ニャルがじっと、こちらを見つめていることに。
「ご主人様は、この世界の何を望みますか?」
その問いは、優しく響く。しかし、それは単なる問いではない。透子の心を、無理矢理誘導しているかのような力を感じる
──それは、強制的な誘導だった。
その瞬間、透子は窓の外に違和感を覚えた
透子の部屋は、アパートの上層階にある。にもかかわらず、窓のすぐ外で、何かが蠢いている
見てはいけないものが、そこにいると本能的に感じ取る
だが、目を逸らすことができない 目を逸らすという行為そのものが、途方もなく重いものに感じられる
カーテンの隙間から覗く闇の中、そこに存在するものは、形を持たないはずの「何か」だった
だが、確実にそれは形を持ち、透子の世界に侵入しようとしていた
そこにある闇は、言葉で表現できるものではなかった。
視界の端で、壁に飾られていた写真が揺れ、本棚の影が不自然な方向に伸びる
それは、透子が知っていた現実の枠を超えて、歪み始めている証だった
──あの「何か」が、現実の基盤を侵している
透子は声を上げようとするが、喉が凍りついたように動かない。いや、違う──叫ぶという行為そのものを、忘れてしまった
◆
「ご主人様」
その時、ニャルの腕が、透子を抱きしめた
その瞬間、恐怖が霧のように消えていく
肌に触れる感触は、氷のように冷たかったが、なぜか心地よさを感じる
耳元で囁かれる声は、意味を持たない音の羅列でありながら、心を溶かすようだった
「大丈夫ですよ」
ニャルの手が、透子の背中を優しく撫でる
その瞬間、透子の意識が遠のき、思考が静かに、深く、底のない海へと沈んでいく
──私は、何を恐れていたのだろう?
窓の外で蠢いていたものは、すでに消えていた
ただ、そこには闇が広がっているだけだった
その闇が、透子を包み込み、重くのしかかる
ニャルの腕の中で、透子はゆっくりとまぶたを閉じた
彼女の体温、冷たさ、触れた感触のすべてが、透子を異次元に引き寄せていくように感じられた
現実の枠が壊れ、ただひたすら深く沈んでいく




